七、上月城を包囲する事、および付城からの夜襲についての事
同年霜月廿日、巳の刻(午前10時頃)。
上月城を正面から攻め寄せていた陣中に、羽柴秀吉から軍使が訪れ、『隣国から援軍が来るので、城の外をより強固に包囲せよ。』と告げられた。
これにより、上月城を正面(大手)から攻めていた寄手は、示し合わせて両方の攻め口から攻め寄せた。正面からの攻勢は、城から築かれた北方の柵を境に、南からの攻勢は民家の焼け跡から堀の際までとして、大手の橋を中心に、橋から一町近く、箕のような形に束ねた竹を設置して、この中に鉄砲を持った兵士を伏せ、河原の門を取り囲むように陣を張った。
搦手側に向かった兵士らも、こちらも川を越え、形見山の北の山裾にある下上月から搦手門を中に囲い込み、竹で編んだ盾を仕掛け構えていた。この竹束の中にも、鉄砲を撃つ伏兵が数多く満ちていて、『たとえ後詰の軍勢が押し寄せたところで、この場所から出て鉄砲を撃ちかけられては城に入ることは不可能。まして城から打って出てくることなど叶うまい。』と、勇ましく進軍し、(宇喜多勢の到来に)備えていた。
城内では、寄手が川を渡り、竹把を仕掛けて、二つの曲輪の先に攻め寄せ、竹把を仕掛けて構えるのを見て、城内のあちこちの櫓門や櫓、渡り塀に指示を出し、橋の中間の板を跳ね返して待ち構えた。
寄手も矢の届くところまでは寄らず、橋のたもとからも鉄砲は一度も撃とうとせず、両軍は鳴りを潜めていた。
そんな中、午の刻の下刻(午後2時頃)になって、近隣から鉄砲の音が盛んに聞こえてきたため、上月城主・赤松政範は、諸大将を呼び集め、『今聞こえるこの不思議な鉄砲の響きは、敵が福原城に攻め寄せる山彦か、そうでないならば、宇喜多の援軍によるものだ。城を出て合流して助力せねば、無念なことになろう。』と、申した。
政範をはじめ、諸大将は皆この考えを『もっともだ。』と同調し、『ならば打って出よう。誰それを手配せよ。』と、命じているところに、早瀬帯刀が高らかに、
『まずまず、皆の者落ち着かれよ。敵の軍は我々の不意を討って、今のように攻め口を厳しく取り囲んでおります。もし今出撃したとしても良い結果は望めませぬ。したがって宇喜多の後詰と敵が離れた場所で戦っておりますが、まもなく日が暮れ、勝負も決まりませぬ。互いに引き下がって陣を張るでしょうから、今夜の子丑の刻(午前0時頃)に、寄手の陣へ夜討ちを仕掛けましょう。そうすれば、寄手は必ず敗れるでしょう。その攻め時に乗じて後詰の勢力と合流し、城へ引き入れることができるでしょう』
と、申し上げた。
政範をはじめ、高嶋、林、横山、太田、川嶋、小寺、鵜野、小林の皆が、『この考えはもっともだ』と同意した。そこで、『そうと決まれば、皆々用意せよ。』と合言葉を定めて、それぞれの持ち場に戻り、夜討ちの時間を待つことにした。
そうこうしているうちに、近隣の鉄砲の響く音や人々が喚き叫ぶ山彦の音も静まり返り、城を囲んでいた寄手も、黄昏時を過ぎてくると持ち場が少し気が緩んで、それぞれが篝火を夥しく焚き連ねて陣を張っていた。
そうしているうちに、城内では夜討ちの時間が近づいたと、我も我もと出立した。朧月夜を幸いとして、大手の一番手は、太田新兵衛尉、小林宇右衛門尉、別所左門の三人で、それぞれ足軽三十人ずつを一つの組として、先に進ませ、半町ほど後から弓兵の一団百人余りを進軍させた。その後ろから、将三人、鎗と長刀を持った兵士二百人ばかりが続き、橋の外側から左の方へ二町ほど大きく回り込んで、足軽を率いて忍び出で、敵の小屋から一町余りの場所に伏せさせた。
後ろから来た軍勢も足を止め、次々と伏せていった。
二番手は、高嶋右馬之助と、その猶子七郎兵衛尉、高野與市郎、桑波権正らである。この者らの足軽を一組として、百人を先頭に立たせた。彼らは橋から真正面へ一町ほど忍び出て、そこに伏せていた。その次は弓兵が百人余り、次に鎗と長刀を持った兵士百五十人ばかりが、将に従い、鶴翼の陣を敷いて伏せていた。
三番隊は、小寺庄之助と、その息子右衛門佐、柏原土佐守、岡田半左衛門尉らである。この者らの足軽を一組として、百人余りを先頭に立たせた。彼らは、橋から右の方へ大きく回り込んで一町ほど忍び出て、寄手の小屋が立ち並ぶ場所から一町ばかり手前で足を止め、箕手(左右に出っ張った形)に散開し、弓兵百人余りを伏せさせた。鎗と長刀を持った兵士は、徐々に進軍していった。
高嶋(正澄)は、兵士達が配置につくのを確認すると、太鼓を打たせた。城内、城外、大手、搦手、全ての門で鐘と太鼓が打ち鳴らされ、一斉に鬨の声が上がると、その声は山や川に凄まじい勢いで響き渡った。
寄手の陣では、宵の内(日が暮れて間もなくの時間帯)に焚いていた篝火もいつの間にか消え失せ、前後不覚に陥っている最中であったため、その鬨の声に驚き、慌てふためきながら暗闇の中で互いに押し合い、揉み合い、上を下への大騒ぎとなった。
上月城の足軽らは、三方から走り来て敵の仕寄や竹把を押し倒して中に攻め入り、揉み合いになった。敵の中に鉄砲を撃ちかけると、ますます多くの者が倒れ、将棋倒しとなって重なり合う様は、前代未聞の出来事であった。
敵の殿にいた者たちも、味方の大勢が敗走してくるのを見て、一塊となって後ろの川へ逃げ入り、水に溺れる者の数は数えきれなかった。この襲撃の際、鉄砲を撃つことを一人当たり二、三発と定めていたので、撃ち払った足軽は、再び弾を込めて将の前に来た。弓を射る武士が竹把や仕寄に矢を射かけると、その火が敵の仮屋(急拵えの小屋)に燃え移り、散り散りに焼き払った。
かくして、高嶋の軍勢が鐘を鳴らしたので、これを合図に各軍勢は大手橋へと引き退いた。
高嶋七郎兵衛尉と別所左門、岡田半左衛門尉らの三人は、足軽三十人ずつ三手に分かれて三ヶ所で留まり、殿軍となって退却したが、もとから追撃してくる敵がいなかったため、皆無事に城内へ入り、橋板を通り、そこから引き返して小門の中へと入っていった。
搦手では、一番手として横山藤左衛門尉、川嶋三郎四郎、鵜野彌太郎の三人の足軽を一隊とし、百人余りが先に立ち、弓、槍、長刀の兵士が夕立のように攻め立てた。土橋の板下から左へ二町ほど忍び出て伏せていた。
二番手は、林対馬守とその嫡男の隼人正、弟の四郎左衛門尉が一隊となり、足軽十余人が弓、柄のついた道具などを持って陣を構え、同じく坂下から右へ一町余りに足軽を伏せさせた。
三番手は、早瀬帯刀、衣笠虎松、丸山八助の足軽を一隊とし、百人余りが坂下の真正面からわずかに反れた一町余りに伏せていた。
次に、大手の鬨の声に合わせて大声を上げた。
寄手の陣中では、この声に驚いて騒然となり混迷を極めた。(そこへ)横山勢の足軽が、敵の竹把の西側の空いている場所へ走り寄り、揉み合っている最中の敵の中に代わる代わる鉄砲を撃ちかけた。敵中は込み合っていたため、ますます大勢の者が上に折り重なるように倒れていった。
この攻め口の南側は形見山の裾野で、ここに城から東西へ二重に柵が立てられ、道は閉ざされていた。北は敵自身が仕掛けた仕寄や竹把が攻め口一面に突き出ていたため、その柵と竹把の間を東の方へ潰走していった。
横山と林の足軽が追撃すると、まるで将棋倒しのように打ち伏せてしまった。
この時、早瀬、衣笠、丸山の兵は、最初から関門を閉じたまま静かに構えていたが、自分たちの目の前の竹把の中を東へ逃げる敵勢を見て、並んでいる盾を叩き、関門を大きく開け、盾を踏み倒して足軽を出撃させれば、これを合図として横山と早瀬の足軽は足を止め、射撃を一旦中止して、早瀬の足軽が走り寄って竹把を押し倒して中に攻め入るのを待ってから立て続けに鉄砲を撃ちかけた。(そうする事で)一発も無駄弾はなく、撃ち抜かれた者は非常に多かった。
この時になって、矢倉から引き鐘を鳴らして合図したので、弓兵が入れ替り、竹把の所々にある小屋に火矢を少しばかり射かけ、横山、林の諸将は敵を手玉にとって引き退いた。
殿は鵜野林四郎左衛門尉、丸山八助らである。この人々は足軽を率いて、巧みに引き返し、土橋まで引いたが、追ってくる敵もいなかった。
夜討ちに出た城の兵や足軽に至るまで一人も討たれることはなく、これはまさに早瀬帯刀が事前に目論んでいた通りの夜襲に叶う戦果であった。




