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『意訳』播州佐用軍記  作者: 川嶋正友(訳:おこぜの尻尾) 
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六、秀吉卿と宇喜多との合戦のこと


こうして、秀吉卿は度重なる合戦で味方を多数失い、無念だと思いながらも、怒り心頭だった。


そんな中、事前に、播磨国内と国境の各所に物見の軽騎馬の侍や間諜を放ち、『播磨で他に敵対しようとする者が居ないか、他国から援軍が来たら告げ知らせよ』と命じ、多数配置させていたところ、霜月二十日の早朝、備前と播磨の国境に出していた軽騎馬の間諜が山脇の陣に駆け戻ってきた。


間諜は、『昨日の夕方頃、敵の間諜と思われる者が三石みついしのあたりを徘徊しており、その後、直ぐに先陣の軍勢も押し寄せて三石のあたりに宿営しておりました。この軍勢は上月城へ向かうものと思われ、もしそうならば今日の夜には上月に到着するでしょう。』との報告を伝えてきた。


秀吉卿はこれを聞いて、『それは恐らく宇喜多氏の軍勢だ。そういった状況であれば、急ぎ駆け向かい、奴等を追い散らさねばならぬ。早く出陣の準備をせよ。』との触れをお出しになられた。


そして、上月城外には山中鹿之助を派遣し、福原の城には桑名弥太郎を派遣して、『宇喜多の援軍が来るならば、城の攻め口を厳重に囲っておけ。城内の者らは味方を城の中へ引き入れようと必ず打って出てくるはずだ。』と、この旨を諸大将に伝えよ、と秀吉卿が仰せになったので、二人は承知して急いで馬を走らせた。


雑兵たちはこれを聞き、『前後を敵に囲まれては逃げ場がない。早々に逃げ支度をせねば。』と騒ぎ立て、鎮めようとしても鎮まらなかった。


そのため、騒ぐ雑兵らを放置して出陣の準備が進められた。


秀吉は谷大膳を一番手として、足軽五十人を先頭に立たせ、それぞれ一枚楯を持った侍を添えて、一列になって押し出した。その次に騎馬が三十騎。こちらは地形に応じて一列、二列になって進ませ、この次に谷大膳の馬廻りの歩兵百人余り続いた。馬廻りの兵士の半分が弓、半分が長刀や槍を打ち連ねていた。


そこから一町ほど隔て、糟屋の足軽が五十人。二列、三列になって先頭に立った。その次に騎馬の兵が三十騎。糟屋左近の馬廻りの歩兵は八十人余り。こちらも、ある者は弓、ある者は槍や長刀を携えていた。


その次に一町余りを隔てて、山中鹿之助の手勢の足軽五人が先頭に立ち、続いて騎馬の兵三十騎。これより少し離れて、山中鹿之助の馬廻りの歩兵五十人が弓や槍、長刀を担いで静かに進んだ。


これら三つの軍勢を先行させながら、二町ほど隔てて、秀吉卿の足軽百人。四手に分かれ、前後左右に『大』の文字と書いた旗印を立て、周りの地形によって隊列を変えながら前後で押し合うように進んだり、また四手に分かれたりして、秀吉卿の馬廻りを囲んで出陣していった。


先頭の足軽二十八人は少し間隔を空け、騎馬五十騎が従来通り徒歩で進んだ。ここから一町ほど進むと、秀吉卿の馬廻りに徒歩の兵が二百人ほどおり、そのうち半分は弓、残り半分は長刀を携えていた。これもまた地形に沿って前に後ろにとなり、大きく陣形を乱すことなく進んでいった。


ここから二町ほど進むと、浅野弥兵衛尉の足軽百人が二列三列になって先頭に立ち、次に騎馬の兵百騎、その次に弓の兵五十人余りが続いた。ここから少し離れて、浅野の馬廻りである徒歩の兵が弓、槍、長刀を持って浅野を取り囲んで進んだ。この次に二町ほど間隔を空け、中條と宮川の足軽三十人ずつが並び立った。この間に八陣具や兵糧を馬に付け、人夫に持たせて同行させた。


誠に、前に後ろにと続く上方勢の隊列の勇ましさは言葉では言い尽くせないほどであった。


加えて、蜂須賀彦右衛門は、足軽百人、騎馬の兵三十騎、徒歩の兵二百人余り。それぞれが、弓、槍、長刀を打ち揃え、蜂須賀の馬廻りとして連れ立っていた。この後にはあれやこれや兵糧などを馬に付けて進んでいった。


この日の朝、巳の刻(午前10時頃)、秀吉卿に先立って、九崎という所から下郡へ廻り、川端を下って竹間(竹万?竹万は兵庫県上郡町の地名)のこちら側より西の山路を経て、敵の後ろへ迂回して攻撃を仕掛けようと軍を推し進めた。


また、その頃、備前国の宇喜多和泉守直家は、安芸国の毛利輝元の家臣として、備前・播磨・美作の三ヶ国の旗頭であった。このため、先日、高嶋右馬之助のもとから早馬を走らせ、秀吉公からの使者であるという趣旨で、政範の返答や、一族が守る各所の要害について聞いていた。


高嶋右馬之助は、


『現在、我らは佐用太平山城に一斉に籠城しています。この城はもともと名城であり、軍兵は一万余りは御座います。それに対して秀吉卿は二万に満たない兵で攻めようとしおり、攻城するには兵力が不足しております。ただ、我らとしては、今年の秋に収穫された米が(まだ刈り取ったばかりで)未熟であるため、何としてでも兵糧の運送をお願いしたい。』


と、いう手紙をしたため、早馬で飛ばしていた。


このため直家は、まず備前と美作の軍勢を招集し、弟の宇喜多掃部助広雄うきたかもんのすけひろつなを大将として総勢三千余りを派遣することを決めた。この広雄とは、太平山城主政範の妹婿にあたる人物だった。広維の軍勢は、十一月二十日の昼頃、上月城の西南にあたる秋里という所の南山の尾根に到着し、兵糧などを届け、この場所から、上月城外の様子を探るべく物見を派遣していた。


この日の夕暮れに、太平城に攻め入ろうと休息していたところへ、件の物見がすぐに走って帰ってきて申し上げた。


『今、上月城外では、北、東、南の三方面より寄手が城を遠巻きにすること、稲や麻、竹や葦のごとく。西の方角、城の後方に大きな山があり、その山の麓は、沼や深い田、水たまりとなり、城への道が絶たれています。これによって寄手は城に近づけていません。先程、新たに出撃してきた軍勢と思われる者が押し寄せてきて、城から南の山間へ、足軽が次々と先立って、(現在自分達が陣を置いている)こちら側の西に押し寄せています。軍勢はおよそ二十町ほども続いており、その先頭は、今十四、五町ほどの所にまで迫っています。』と申し上げた。


広雄はこれを聞いて、


『それなら幸いだ。この場所で敵を待ち受け、直接戦ってしまえば良いではないか』と提案した。


本間小馬をはじめとする諸大将が寄り集まり、例の物見に、道筋の様子を詳しく尋ねた。そして、少し進んだ坂の上へ兵卒を急いで登らせ、松林の中に隠れさせた。足軽大将の代安寺、三村、馬淵、高森を坂の下へ向かわせ、道の左右の林の陰に足軽を置いた。坂の上には宇喜多の馬印を立て、わざと百騎ばかりが馬から降りて休息しているように見せかけた。残りの軍勢は、坂の後ろに隠し、弓の弦を湿らせ、火縄を操って待機していた。


その頃、秀吉卿の先鋒が敵と出会うまで、と、馬に白淡(=白泡)を噛ませて(馬を激しく急がせた為に、馬の口の周りに涎が溢れている状態)駆けつけると、隊列を乱し、赤松山の西の裾野にて宇喜多の軍勢を坂の上に見上げることになった。


そして坂の上で姿をあらわした宇喜多勢は、わざと驚き騒いでいる様に見せていた。


秀吉卿の軍勢は、『このような地形の悪い場所では戦えない。もう少し引き返して、敵を偽って戦線を引き下げ、平らな場所で戦うべきだ。』と、にわかに足軽を繰り戻している間に、後続の部隊の行列がだんだんと騒ぎ立ち、秀吉卿の行列まで混乱して動きが止まってしまった。


宇喜多の陣営では、代安寺、三村左右衛門から、広維に向けて軍使が立てられ、『敵の陣が騒動を起こしている。足止めをせずに、まず鉄砲を撃ちかけよ。この隙に乗じて攻め下れ。』と伝えられた。軍使の言葉が終わるや否や、すぐに一番手の代安寺、三村左右の軍勢の足軽三十人ずつが立ち上がり、混乱して引き退く敵を追いかけ、二十余間ほどの距離から、鉄砲を撃ちかけた。


寄手は、坂の下から宇喜多の兵が叫びながら走り出てくるのを見て、ひたすら周章狼狽し、もみ合っている所に、鉄砲を撃ちかけられた。外れた銃弾は一つもなく、秀吉卿の軍勢は将棋倒しのように次々と倒され、さらにその上に何重にも倒れ重なった。


馬淵、高森らも続いて足軽を進め来て、代安寺や三村の足軽と共に、代わる代わる鉄砲を撃ちかけながら進めれば、(敵の先陣の兵士にも後陣の兵士にも)銃弾が当たり、先陣・後陣も共に押し倒され、大部分が討たれてしまった。寄手の敗残兵は後ろの陣地へ逃げようと、人と馬が一箇所に混じり合って混乱していた。


宇喜多の足軽は勝ちに乗じて、次から次へと討ち取っていった。宇喜多軍は坂の上から太鼓を打ち鳴らし、一斉に鬨の声を上げて次々に坂を駆け下った。一番手には神宮寺、下河原らの足軽が進み、三村、高森、代安寺、馬淵らが入れ替わり立ち替わり、鉄砲を撃ちかけた。


これを見た本間小馬ほんまこまは、騎馬兵三百余りを三手に分け、宇喜多の馬印を押し上げ、先頭の神宮寺や下河原らの隊の少し後ろに続き、先陣の足軽が鉄砲を撃ちかけるのを見て、本間も大いに攻め立てると、先頭の足軽大将たちも、手勢を足軽を左右に散開させた。


その瞬間、小馬新兵衛尉こま しんべえのじょうが騎馬百騎を二手に分け、大声で叫びながら突き入ってみせると、敗走中のたに糟屋かすやの手勢が、ちょうど後陣へと退却している最中だったため、後陣の人馬はもみ合い、将棋の駒が倒れるかのように次々と押し倒され、夥しい死傷者が出た。


小馬の兵は、勝ちに乗じて更に追撃を続けようとしていた。


しかしながら、秀吉卿の陣から山中鹿之助やまなか しかのすけの先陣が、(先鋒の谷大膳と糟屋の手勢が)敗走し、自陣へ潰走してくるのを見て、手勢の与力に命令して、兵を左右にさっと開かせ、たに糟屋かすやら敗残兵の間に割って入ったかと思うと、小馬こまの手勢に襲撃をかけ、両軍は互いにわめき叫んで激しく切り結んだ。


刀で切り倒される者もいれば、馬の頭を切ろうとする者、刎ね返されて組み伏せられ、首を取って立ち上ろうとしたところを、徒歩の兵が走ってきて頭を掻き取られる者もいた。


互いに隙のないところに、本間内蔵助ほんま くらのすけが百五十騎を三手に分けて、小馬の左右から、敵の左右の先頭の兵士らに向かって、どっと突っこんでいった。


山中の陣にいた谷と糟屋は、敗残兵らを集め、先程の恥辱をそそごうと、命を惜しまず、恐れ知らずにここが正念場だと防戦した。


加えて、秀吉卿の陣から多くの加勢も入り、入り乱れて火花を散らしながら攻め戦った。


ここにおいて、掃部助広維は、本間の手勢の後ろから押し寄せ、馬印をわざと本間に渡しておき、三百余騎を三手に分け、左の方から秋里方面に回り込み、秀吉卿の陣に側面から攻め下っていった。秀吉卿の陣の者らは散開して迎撃しようとしたが、山間の地は狭く、南の方は深い田んぼだったので、戦いは自在にならず、ただ魚鱗の陣形で走り合って戦うといった程度であった。


そこへ宇喜多勢の先鋒百余騎が加わり、作見さくみ(美作の誤字?)から、どっと駆け入ってきた。また宇喜多勢の二陣の百余騎は、山中勢の陣へ横から駆け入り、戦いに疲れた山中、谷、糟屋の手勢をひとまとめにして奇襲を仕掛けた為、(山中、谷、糟屋の手勢は)後方の陣地へ潰走し始めた。


小馬こま神宮寺じんぐうじ下河原しもがわら代安寺だいあんじ馬淵まぶち三村みむら高林たかばやしらが勝ちに乗って、急いで追撃したため、山中、谷、糟屋勢はひとまとめになって敗れ、多くの兵が討たれたり、あるいは後方の深い田へ追いやられ、夥しい被害を出した。


しかし、秀吉卿の陣では、浅野、中條、宮川が入れ替わり立ち替わり火花を散らして防戦し、宇喜多勢の陣へは、本間小馬をはじめ、全軍が入れ替わり立ち替わり戦った。両軍は互いに西へ崩れたかと思えば、また東へ巻き返し、七、八度も揉み合った。


このため、両陣営で討たれた者はその数を数え知れず、互いに退くことなく命を懸けて戦ったが、どちらも勝敗は決まらず、日もとっぷりと暮れてしまい、山や谷は想定以上に暗くなって敵味方の笠印もはっきりとは見えなくなった。


そのため、『決着は明日に』と両軍は約束して、この日の戦いは引き分けとなった。


秀吉卿は東へ五、六町陣を下げ、深田や水たまりを前にして新たに陣を構えた。


すると、ある強者が申した。


『昔、漢の高祖の大将である韓信という者は、このような敵と対陣する際には、水面を後ろにして陣を取ったと聞く。今のこの陣の張り方は、その時とは違うのだ。』と嘆き、ひそかに独りごちた。


一方、宇喜多の軍勢は、兵士を秋里という所の南にある山裾の林の中に引き上げさせ、ことらも陣を構えた。


この日の合戦はおよそ二時間に及び、両軍合わせて討たれた者は七百余人。手負いの者の数え切れないほどであった。



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