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『意訳』播州佐用軍記  作者: 川嶋正友(訳:おこぜの尻尾) 
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五、寄手の全軍が、上月表の山々へ取登りの事。


こうして、南の搦手からめてに回った堀久太郎(ほりきゅうたろう)木村源蔵(きむらげんぞう)糟屋(かすや)櫛橋(くしはし)らは、九月二十二日の昼、上月の南方、九崎くざき家内(けない)という三ヶ所の渡し場に着き、各自、手配をして同時に川を渡ろうとした。


しかし、川底には藤蔓を多く張り巡らせていたため、川の中でその蔓に足を取られ漂っているところを、早瀬、川辺、鵜野、広戸田の足軽たちが大藪の陰から次々と出て、鉄砲を撃ちかけた。そのため、川の中にいる人馬は撃ち抜かれて、一巻ひとまきに押し流された。


後から来た軍勢はこれに驚き、もみ合っているところを、さらに鉄砲を撃ちかけられた。


これにより、弾に当たる者もいれば、水に押し流される者もおり、群れを成して引き返そうと溺れて流される者の数は数えきれないほどであった。


向こうの川原に満ちていた寄手の兵の中に、上月城の兵が足軽が入れ替わり立ち替わり矢を射かけたため、ますます多くの者が射落とされ、その上、馬から刎ね落とされる者も多く出た。そのため、後方の軍勢は驚き、逃げ崩れ、お互いに押し倒されて、そこかしこに死者の山が築かれた。


残党は東西の方へ逃げ去り、また、出撃中の上月方の陣の者は、箙を叩き、声を合わせて鬨の声を上げた。それから川辺から退いて、藪や林の中に隠れ、兵士たちは食事などを取りながら、しばらく様子をうかがっていた。翌二十三日の明け方、向かい側の川原に敵が一人も見えなかったので、その日の夜にひそかに九崎を退き、形見山の尾根を通って、二十四日の明け方には上月城の裏門に全員が入り込んだ。


また、秀吉はこの日、上月城正面の山々に軍使を派遣して、城の様子を報告させた。


帰ってきた軍使が報告することには、


『まず城の大手口と思われる場所には、東向きに堀があり、橋が架けられ、門や高矢倉があります。城から五、六町離れた平福川は南の方に滔々と流れ、城の麓には町家や民家が南北に続き、民家と川の間には棚田が段々と連なり、ところどころに溝もあり、鹿垣や逆茂木も設置され、正面の橋から二町ほど北には、西側の山の中腹から川端にかけて鹿垣や逆茂木が頑丈に張り巡らされ、南北の道を塞いでいます。城山に続き、南の小さな山の上には屋形と櫓があり、恐らくここが二の丸や搦手と言われている場所かと思われます。この要害から南に四、五町離れて、また一つの山があります。この山の尾根から東に雲が立ち込めておるのですが、ここも川から山涯まで二重の柵が巡らされ、その上には彫り刻んだ装飾があります。川から南北へと遥か遠くまで山が続き、山の麓には民家が所々にあり、民家と河原の間には段々になった棚田や畑が広がっております。この山から城の正面の大手門までは、近いところで五町、遠いところでは十町、二十町と距離があります。城山のほうも北へ山が続き、麓に所々民家があります。』


と、細かく申し上げたところ、秀吉卿はこれをお聞きになり、その地形を図に描かせた。


明くる日から秀吉卿は、本陣の位置を上月城からおよそ二十余町離れた北東に位置する、山脇という山に定められた。この山続きの南へ五十余町の間にある山々に、寄手の軍勢が配置された。


同十月の始め頃から、各々兵員や物資などが行き渡り、青野原と二位山の麓に陣屋を並べて囲んだ。昼間は旗が空にはためき、夜は通宵の篝火で山や川、野原が明るく照らされ、その壮観さは大変なものであった。この山脇という場所は、平福川を隔てて、西北は福原藤馬允が立て籠もる城と上月城の間という立地から、ここからそれぞれの城を見下ろして指揮を執ろうとしていた。


その頃、福原の城へは小寺、竹中、明石、櫛橋らが入り乱れて向かっていったのだが、福原城からは、川を越えて東の山々へ出陣し、あちこちに伏兵が配置されていて、寄手の不意を突いて防衛していたところ、寄手の大勢が討ち取られ、傷を負う者が多かったので、なかなか城に攻め寄せることができず、ようやく九月二十五日の暮れ方に、佐用姫という所の東の川原近くに攻め寄せ、同二十六日に川を渡って押し寄せたのだが、ここでも城から城兵が打って出て川端で防戦したために、寄手は毎回川に追いやられて打ち負けていた。


ようやく、佐用姫の前の川を渡ることができなくなり、佐用姫の社を型取って、二町四に鹿垣を二重にめぐらせ、さらに逆茂木の柵を設けた。この内側を向城に構え、ここから昼夜を問わず足軽を出して鉄砲を撃ち、遠矢を射かけて、遠攻めに徹して攻めた。


しかし、城は遥かに見上げる山城であり、要害の地であったので、(城兵は)これを何とも思わなかった。城方は遠見を置き、寄手の油断を見つけると、打って出て、あるいは鉄砲を撃ち、あるいは遠矢を射かけた。そのため寄手は毎日手負いや死人が続出していたので、竹束の陰に隠れるばかりで、はかばかしい戦果はなかった。


寄手は、陣を敷いている場所が平地であったため、その後、城に連なる裏山三ヶ所に陣を張り、守りを固めるだけであった。


このようにして上月城も、西河原に陣を寄せようとすれば城方から直接見下ろされ、寄手としては弓や鉄砲を撃ちかけるのに地の利が悪く、また、川を前にして攻め寄せようとすると、河原も狭く、特に河原と山の間の南北にわたる広い範囲が、棚田や棚畑で段々になっていて、平地もなく、人や馬の出入りが困難であった。


そのため、まず田を埋め、畑を切り崩して、平地のようにして軍勢を自在に展開させよ、と秀吉卿からの命令が下された。


この命令に従い、諸大将は各自の陣屋の前から河原までの間に町場を定め、人夫や足軽はもちろんのこと、若侍に至るまで、山々の尾根を切り崩し、田畑を埋め立てた。こうして四、五町ほど過ぎると、棚田の三分の一ほどが埋め立てられ、南北五十余町の間が、広く平坦な街道のようになっていた。


城の中からこれを見た城兵は、『恐らく攻め手が近いうちに川のこちら側に攻め寄せてくる。山の麓にある町屋や民家をそのままにしておけば、敵の隠れ家になってしまうだろう。急いで焼き払え』と、丸山八助、衣笠新助、広戸五郎左衛門尉の三人へ命じ、城の麓へ向かわせた。


この時、広戸と衣笠は足軽三十人ずつを率いて、大手門近くの河原に上下二か所に分かれて足軽を配置し、もし寄手が川を越えて攻めてくるならば、川端で打ち合って払いのけようと控えていた。丸山は、足軽人夫を使い、町屋や民家を全て焼き払い、橋の外側にある逆茂木さかもぎを捕って修繕した。


その後は、足軽人夫を引いて退くことができたので、衣笠と広戸の二人も足軽を率いて、段々と城の中へ引き入った。


さて、城の麓や河原は一面が広野のようになり、どれだけ城から迎撃の兵士が向かっても、寄手は応戦せず、普請を中断するだけなので、城の者たちはただそのまま引き籠もっていた。そうこうしているうちに、日も暮れそうになったので、寄手もそれぞれの小屋に引き入り、篝火を焚き連ねて、用心している様子で陣を敷いた。


これほどの大勢での普請だったので、十月の末頃には、段々と築かれていた田畑や、所々の片側の岸、山々の尾根は全て平地となり、人馬の出入りも自在になったと寄手は励み合って勤めていたが、この日もすでに日が暮れかかっていたので、寄手の足軽人夫奉行や頭人たちも、町場から退くか退かないか、と、皆が不安な空気になっていた。


ちょうどこの時、十月二十七日未の刻(午後1時から3時頃)のことだった。城の大手門と搦手門から鵜野弥太郎、小寺庄之助、同じくその息子の右衛門佐うえもんのすけ、小林宇右衛門尉、同子息左衛門允さえもんのじょうの三組の足軽三十人ずつが一隊となり、同時に打って出た。


橋の外柵を越えた彼らは、三手に分かれて走り出、鵜野の足軽は川端の正面へ出て、青野ヶ原の前にいた人夫たちに鉄砲を何度も何度も撃ちかけた。この三か所に集まっていた寄手らは、城の足軽に鉄砲を撃ちかけられ、押し合いへし合いもみ合いながら逃げ崩れた。城の足軽が飛び出して鉄砲を撃ちかけると、混乱した寄手は否が応で倒され、ある者は押し倒され、あるいは将棋倒しのように幾重にも重なるように寄手が倒れていく光景は前代未聞であった。


山の方には、諸大将や奉行、頭人らが集まり、応戦しようする者もいたが、大勢の足軽や人夫らは皆、山の方へ逃げていったので、応戦しようとする者らと揉み合いになり、城の足軽がそこに鉄砲で撃ちかけたため、大勢が討ち倒され、応戦できなかった。


一塊となって敗走し、応戦できた者が一人もいなかったことは嘆かわしい。


そういうわけで、寄手の諸大将は、山の中の所々に出て普請の良し悪しを指示しながら控えつつ、城兵らが打って出てくるのが見て、川端で味方と合流して防ごうと思ったが、人が大勢居たにもかかわらず、手勢の足軽などは皆普請場にいたため、敵と組み合って戦うことはできなかった。


その間にも、城兵は早々と川を半ばまで渡ってきて、鉄砲を撃ちかけ始めた。


寄手らが退却しようとすると、味方同士が揉み合いになり、このあたりの地形は、新しく平らにならされたばかりで泥濘み、踏みとどまるにも進むにも心もとない状況だった。とにかく寄手が揉み合っているうちに、城の兵士は早くも鉄砲を盛んに撃ちかけたので、大勢の者がここで討たれていった。


城の足軽たちは、川の浅瀬まで攻め手を追っていき、鉄砲を撃ちかけ、遠矢を射かけた。


その時、鵜野、小寺、小林らが盛んに鐘を鳴らしたので、先行していた弓兵や足軽たちは少しも足を止めず、そのまま次々と城内へと引き退いていった。一声一声『大手へ』と叫んで迎撃に出ていた者を引き入れようとした時、殿しんがりを務めていた小林親子が足軽を鶴翼の陣にして引き上げてきた姿は非常に勇ましく見えた。


さらに、大手門の柵の外側一町ほど左右に、林隼人正はやとのしょう、鵜野小太郎、同庄官、浦上七郎兵衛尉が、足軽二十人ずつを配置して、控えさせていた。


これは、寄手の迎撃を受け、味方の先駆けが困難に陥った場合、ここから彼らと入れ替わり、防御に当たるためであった。しかしながら、敵の中に着いて来る者もいなかったので、小林親子が最後に引き上げてきたのを確認すると、柵を補修し、橋の詰め板を引いて城に籠もっていった。


(こうした経緯を)実に大勢の敵と味方が事の一部始終を目の当たりにして、多くの敵を討っただけでなく、武士の心得にかなった優れた指揮官なのだと、敵も味方も感心した。


搦手からは、横山藤左衛門尉、頓宮亦兵衛尉、その息子の新八郎、神吉太郎左衛門尉が、足軽百人一組になって土橋坂の下から左に下り、上月川の河原方面へと出向き、河原の泥地の岬々に群衆が溢れる中、寄手に向かって鉄砲を撃ちかけた。


この場所は、東の山根に近く、棚田や棚畑が多くて狭い地形なので、『敵が打って出てきたぞ』と、寄手は騒ぎ立ち、押し合い揉み合い、ただ南北に敗走していくところに、鉄砲を撃ちかけられた。この時、どれほどの者が撃ち抜かれたかは言うまでもない。


寄せ手が南北に退き散っていくと、城の足軽が西の川原を二手に分かれて、鉄砲を撃ちかけながら執念深く追撃した。新たに切り開かれたばかりの地形なので、ここで倒れ、あそこで転び、さらに上から倒れてきた者に押し殺されたり、踏み殺されたりする者も非常に多かった。


こうして城の大手の方から頻繁に鐘を鳴らすのが聞こえてきたため、搦手方面でも横山(藤左衛門尉)の手勢が鐘を鳴らして合図し、足軽を退かせ、徐々に搦手へと引き上げていった。搦手にも敵が出てきて応戦した場合、防ぎ戦う兵と入れ替わろうと、下上月のあたりまで、別所左門べっしょさもん衣笠虎松きぬがさとらまつ丸山八助まるやまはちすけ廣戸五郎左衛門尉ひろどごろうざえもんのじょうが、足軽二十人ずつを率いて三か所に控えていた。


しかし、この時は合戦になる敵もいなかったので、この人々が殿を務め、静かに搦手へ引き籠もった。


このようにして、霜月の初めまでは、寄手も疲れていたのだろうか、埋め立てて城に近づく工事も止めていたが、秀吉卿から下知があり、『いつまでこのようにしているのか。竹の束や木を突いて城下に押し寄せよ。山々に遠見を置き、城から打って出たら、すぐに知らせるように合図を定めておけ。』とお命じになった。


このため、十一月三日から、再び大勢の寄手が(工事のために)行き交うようになったのだが、工事のための竹束や柱、材木などをたくさん持ち寄り、川原と城の間の敵が寄せやすい地形を測量し、こちら側には竹の束を突き立て、これに柱となる材木を揺るぎなく立ててぬきを通し、竹束を結びつけ、矢を射るための狭間さまを空けて、こちらからも鉄砲が撃てるように足軽を配置して人夫らを守っていた。


上月城前の岸や田畑も一面に平地にしようと人々が群がり、土木工事を行う者や田畑を埋め立てる者が居て、走り回ることが非常に多かった。



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