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『意訳』播州佐用軍記  作者: 川嶋正友(訳:おこぜの尻尾) 
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四、熊見川の渡しにて攻め手を防ぐこと


翌朝、九月二十二日の暁(明け方)。


熊見川の上下二箇所の瀬頭に、攻め手が同時に馬を乗り入れて、夜が明けた。互いに矢弾を撃ち交わし、叫び声を上げながら渡河してきたので、目の前の川がどれほどの大河だろうと、水の色が区別もつかないほどになっていた。(秀吉卿の軍勢の攻めかかりは)大山が崩れるかの勢いであった。


しかし、高嶋、大田、小林は皆、戦い慣れた者だったので、足軽らも少しも騒がせず、音も立てないよう指示し、手配して待機させていた。


敵兵が川を渡ろうとしていた場所では、水底に張っておいた藤の綱が邪魔をして、渡りあぐねていた。


この時、高嶋と太田が太鼓を打ち鳴らすと、隠れていた足軽二十人ずつが鬨の声を上げながら走り出て、川の真ん中にいる敵に向かって次々と鉄砲を撃ちかけた。 


さらに、大藪の陰に控えていた五百人余りの兵が同じように鬨の声を上げたので、鉄砲に当たったり、鬨の声に驚いたりして、川の中で人や馬がもみ合ううちに、(敵兵は)逆巻く水に押し流された。人馬もろとも一塊となって流されて転がりいく様は、前代未聞の出来事だった。


まだ対岸に渡りきっていない大勢の敵兵は、鉄砲の響きと鬨の声に、馬もろとも狂乱して揉み合っているうちに、水の流れが速いので、これも一塊となって押し流された。


川は敵兵が浮いたり沈んだり、濃い赤色に染まりながら連なり、溢れ返っていた。


川に入らなかった者たちも、あれこれと騒いでいるうちに、これも一団となって流されたため、人も馬も共に騒ぎ立て、ある者は馬から振り落とされ、ある者は馬もろとも川に落ち、ますます多くの者が水に落ちた。


城から迎撃に出ていた兵士は、この様子を見て、箙をたたいて鬨の声を上げた。


また、大藪の陰に隠れていた兵士は、日光が頭上に輝いているのを見て、ありがたいことだと拝んだ。


秀吉卿は、無念の事と思われた。諸大将の元へ軍使を立て、『竹の束を用意して盾として渡れ』と命令を飛ばすと、足軽や人夫は言うまでもなく、軍兵は皆近隣を走り回って竹を切り取ったがために、その日は(何の戦功を上げることもなく)無駄に暮れてしまった。


上月城から迎撃に出ていた兵士は、なおもこの場所に押し留まっていた。


上月城から軍使が来て、『一端、防備のために城まで引き上げよ。』と伝えた。しかし、高嶋は『今一度、ここで敵の渡河を防いでみせよう。』と言って引こうとしなかった。


このため、また城方の加勢として、太田民部少輔、同美作守、高嶋七郎兵衛尉、小林左兵衛尉、浦上刑部、衣笠頓宮をはじめ、中心的な人々十余名、軍勢三百余名、足軽百五名を率いて、同日の未の刻(午後2時頃)には、熊見川の渡しに加わった。


夕暮れになり、高嶋の手勢から、原六郎左衛門尉と奈波権正をこの山の麓に遠見(斥候)として配置した。これは、『もしかすれば秀吉卿が夜中に陣替えを行うかもしれぬ。』と思ったからである。


一方、攻め手の方でも様々な評議が行われていた。


『このように大きな川を境にして(こちらの進軍を)防ぐ兵が多いのであれば、地の利を失うことは明らかである。しかも、川底には綱が張り巡らせてあるように思われる。どうにかしてこれを切り流さなければ』


と、口々に申したので、堀尾茂助(吉晴)が


『私も同じ意見だ。早合点な者たちにはそっと言い含めておいた。どうかこの件は私にお命じ下され。』


と申し上げた。


秀吉卿は吉晴の申し出をお聞きになり、『そのつもりならうまく計らえ』と仰れたので、吉晴は『畏れながら』を許しを得て自陣に戻った。


それから武者に足軽や人夫をつけて近くの村々へ派遣し、小舟を二艘手に入れさせると、夜の闇を幸いとして、戌の下刻(午後8時頃)、舟に泳ぎの上手な足軽二人と侍一人ずつを乗せ、上流の瀬より二町ほど上から舟を出し、密かに上流の瀬に縄が張ってあるかどうかを探させた。


すると、案の定、杭の周りで水が渦を巻いているのが見つかった。


これに舟を近づけて見ると、藤蔓でできた綱が何本も張られていた。


そこで、すぐに杭を揺り動かして押し流し、藤綱を切っては流し切っては流しを続けていくと、杭も綱も一塊となって流れていった。


先ほどの上流の瀬から杭も綱も無くなったので、舟に乗った者たちは声を掛け合いながら出て行き、『敵が居るかいないかは分からない。だが、まずは無事にやり終えた』と喜び合った。


それから下流の瀬にも舟を漕ぎ下ろしてあちこちと探したが、それらしい杭も綱も見つからず、『不思議なこともあるものだ。本陣の若者たちが泳ぎ来て綱を切り流したか、それとも、上の瀬で切り落とした綱や杭が川の流れで(下の瀬の)乱杭に引っ掛かり、大きな河の強い流れによって杭を水が穿ってしまったのか。(いずれにしても)幸運なことだ』と喜んで、虎口を逃れる心持ちで、東方の川岸へ舟を指し寄せて、元の陣に戻っていった。


翌二十三日、寄手が大勢渡ってきた。二十三日の巳の刻(午前10時頃)、寄手が雲霞のごとく川端までやって来てはじっと川を覗き込んで身支度を整えているように見えたが、一度に『とう』と叫ぶと、瀬枕へ馬をさっと乗り入れた。


(寄手は)今度は二十騎ほどが一組になり、各自一枚、楯の竹束を馬の頭に押しかざして、浮いたり沈んだりしながら渡っていった。


まさに昨日、この渡しで数えきれないほど味方に多くの死者を出したのにも関わらず、恐れ知らずに渡っていく兵たちの心は実に勇ましいものだった。


一方、上月方の陣では、足軽三十人ずつを一組として、先日の様に藪の陰に伏兵を置いて、敵の兵士が川の中で(罠に足を取られて)漂っているところを走り出て、『撃て』と号令されるのを待っていた。


しかし、予想に反し、敵は川の半分まで容易に渡りきり、馬に乗ったまま、四、五間の距離にまで近づいてきた。


その時、高嶋が太鼓を鳴らし、軍勢が同じ声で鬨の声を上げると、足軽は次々に走り出て鉄砲を撃ち始め、車懸かりのごとく、足軽が入れ替わり立ち替わり鉄砲を撃ちかけた。


川の中で、ただ標的となるしかない者が相手では、城兵らも外れ弾を出すこともない。


この状況下、(敵兵は)なんとかしようと揉み合っているうちに、水の流れも速く、人も馬も一塊となって夥しい数が押し流され、川の中に浮かんでいた敵はたちまち一人も見えなくなった。


まだ川に入っていない者たちは、続けて渡る手立てがなく身悶えするばかりで、その様子を見た迎撃の大将である高嶋右馬之助正澄は、半日以上も地面に突き刺さっていた旗を一本抜き取り、馬に乗って堤の上に姿を現し、扇を上げて招きながら言った。


『皆、よく聞け。天上方の人々(中央の貴人たち)は、このあたりの事情をご存じないだろう。


この川で不覚を取ったからといって恥ではない。何故なら、この川は急に湧き出したものではなく、当国一番の大河である。それなのに、御手の人々の中には、当国育ちの者も集まっているように見える。見覚えのある旗もあるではないか。


なぜ彼らに先陣を譲らないのか。このようにものを申している自分とて、ただの人間ではない。そのままというわけにもいきますまい。


軍旅の思い出として名乗り申そう。自分は当国山家育ちの古狸である。このようにああだこうだと物を申しては、毎度怪しい振る舞いをして、多くの人間を騙す信用できない人間であると、播磨の者どもは戯れに申す。我らは、高嶋右馬之助正澄、太田先生則近、小林宇衛門尉満季と申す者なり。またの機会にお見えいたしましょう。』


と、言い捨てて引き退いた。


高嶋七郎兵衛尉、小林左兵衛尉、奈波権正、浦上、衣笠の手勢は弓の手練れで、郎党四、五人を連れて川端に出て、代わる代わるに矢を射かけると、向こうの川端に控えていた攻め手の大勢が射落とされ、不覚をとって退却し、矢が届く範囲には敵は一人もいなくなった。


上の瀬では、太田父子三人組と頓宮が弓と鉄砲を撃ちかけ、大勢を流した。向こうの川端に集まっていた敵に向かって矢を射かけると、たちまち敵は敗走していった。高嶋右馬之助は鐘を鳴らし、川端に出張していた弓兵たちを両勢ともに堤の上に引き上げさせた。


この時、高嶋は旗を差し上げて、一番先に引き退いた。上も下もすべての兵たちが、次第に川端から四、五町も引き退くと、日は既に西山に傾いていた。


このように秀吉卿は、昨日今日と、立て続けに味方を大勢討たれ、その上、敵に欺かれたので、歯ぎしりをして無念に思われた。


と、その時、寄手の陣営から、わずか十四、五騎が川端に集まり出で、『敵は引き下がった。皆、川を渡りきらねばならぬ。いざ続け者ども』と、高らかに声を張り上げて颯爽と川に打ち入った。


彼らの言葉に乗せられ、あちこちに控えていた味方の寄せ手の中から、五、六十騎が駆け出し、『人に先を越されてたまるか』と、口々に叫びながら、ざんぶと馬を川に乗り入れた。


どの馬も丈夫で、川の中では一か所に固まりながら川を渡っていった。


今こそ敵を防がねばと、馬上の武者らも矢竹の様に真っ直ぐ陣形を整えて川に乗り入れた。


堀尾と蜂須賀はこうした兵士らの様子を見て、『今制しても止まらない。味方を討つな。者どもいざわたれ。』と号令すると、集まっていた他の軍勢も、主君の号令を待たず、我先にと百四、五騎ばかりが浮いたり沈んだりしながら川を渡っていった。


このため、全軍が騒ぎ立ち、皆が川端に集結するようになっていった。秀吉卿がこれを制止しようとしたが、軍使が来て、制止を止めさせた。


こうして、先に渡った二百ほどの兵たちは川を容易に渡りきり、馬に乗ったままで堤の上まで乗り上げようと試みたが、堤は急な切り立ちになっていたので、馬で乗り上げることはできなかった。


川の左右は大きな藪となり、狭い場所で馬に乗ったままもみ合っていたが、それぞれ馬から降りて、馬の鞍を堤に付けて、一段一段馬を牽き上げて見てみると、二、三町ほど近くに、上月の兵士が千騎、鉾先を揃えて陣を張って控えていた。


寄手は、堤の上からこの様子を見せられ、予想と違ったことに茫然とした。


そこに後ろから川を渡ってきた兵たちが、馬に乗って堤に上がり、稲や麻、竹や葦のように次々と押し寄せてきた。堤の上にいた先陣の兵は、引き返そうにも引き返せず、唾を飲み込みながら身構えていた。


そこへ出張って陣を敷いていた兵が、馬の鞍を叩きつけたのか、足軽たちが出てきて、堤の上に集まっていた寄せ手の兵たちに鉄砲を撃ちかけた。すると、将棋倒しになって、人馬が弥次郎兵衛の上の部分のように次々と打ち倒され、馬もろとも堤の下に転がり落ちた。


そもそも馬に乗った兵には、後続の兵がついてきてはいたものの、弓や鉄砲がなかったので、入れ替わって防ぐ方法もなく、互いにもみ合い苦しんでいた。


そこに上月から迎撃に出ていた兵たちの陣から、槍や長刀を打ち下ろす兵が出撃し、足軽たちと入れ替わりながら、堤の下で馬に乗って集まっていた寄手の兵たちの中に、鉾を並べて突き込んだところ、ある者は討たれ、ある者は後ろの川に転落し、その数を知らないほどであった。


こうして上月城から出撃していた兵士たちは、勝鬨を上げて、各自堤の上へ引き上げていった。


向こうの川端で控えていた寄手は、目を覆いたくなるほど味方が大勢討たれ、不安に思っていたが、救助に入ることも、身動きを取ることもできずに居た。そこへ、迎撃用の陣から、高嶋兄弟、奈波、猶原などの将を先頭に、馬に乗った上月方の強者、十四、五人が川端へ走り下り、川向こうに群れ集まる敵の中に矢を射掛けた。


寄手らが密集している中へ射掛けたために、矢が外れる事なく命中し、寄手は弓手妻手(左右)へと射落とされ、『何として良い。ここは耐えろ。』と、ハッと川端の集落から潰走を始め、あっという間に川端から敵の姿が一人も見えなくなった。


そのため、高嶋、奈波らも土堤の上に引き上げ、正澄が鐘を鳴らすと、弓を持った足軽も次々と引き退いた。ここからは一隊一隊、城の方へと後退していった。殿軍は、太田美作太郎、小林左衛門、高嶋七郎兵衛尉が務め、足軽三十人ずつを先立てて後退していく様は意気揚々としたものであった。


四、五町ほど過ぎた頃、後方より、秀吉卿の軍勢が百四十、五十騎ほどが馳せつけて来たため、撤退中の城の兵士たちは、『(兵を)戻せ、戻せ』と呼びかけた。高嶋七郎兵衛尉は追手の姿を見て、『天晴れな敵だ。闘志に逸る武士なのだろう。弓や鉄砲で撃つべきではない。この敵を転ばせて、自分が防いでみせよう』と言っては、草の袋に入れて持っていた鉄菱てつびし竹菱たけびしを、退却する後ろの細い道に百歩ほどの間隔で蒔き散らした。


そして全軍に、『わざと足早に退却するように見せかけよ』と、先行していた者らにも軍使を立て、殿しんがりにいた三人の郎従や足軽が騒動を起こしているかのように見せかけながら退却を行った。


すると、敵の追手は件の菱に馬を乗りかけ、たちまち馬が倒れて、馬上の人間はひっくり返り、その上に馬が重なって落ちてくるほどの被害が出た。後続の軍勢はこの様子を見て、牛や馬を止めて待機させた。


古人の言う、『前車の覆るは後車の戒め(前の車の失敗は後の車の教訓となる)』という言葉を、この人々は知っていたのだろう。とはいえ、川を渡る前より、川のこちら側は足を踏み入れるのに躊躇する場所ではあった。道の左右は深い田んぼや水辺ばかりで、他に迂回する道がなく、追手はただ呆然と立ち止まるしかなかった。


その間に、迎撃に出ていた上月城の兵たちは、道筋の橋を落とし、西の山道を経由してから青野ヶ原へ出て、静かに大手門から城の中へ引き入れてもらうと、まもなく黄昏たそがれ時になった。


この時の追手は、昨日、熊見川の渡しで大勢の者が討たれたと姫路にまで報告が入ったので、羽柴秀吉が府中にて招集した者達で、この日の朝、五百騎余りが東の空に薄雲が掛かる時間帯に府中を立ち、馬に湿らせた米を飼い付け、揉んで撫でて(馬の疲労を癒し、機嫌を取りながら、できる限り急いで)駆けつけて来たばかりだった。


同二十三日の申の刻(午後4時頃)、この増援の先鋒の百余騎が熊見川の渡しに到着していた。


あくまでも血気盛んな増援の先陣は、秀吉卿が川岸から四、五町離れた北方に陣を張っていたにも関わらず、秀吉卿に挨拶せず、また、諸大将たちが各地に陣を張っているところにも寄らず、まっすぐに川岸に乗り付けて、馬に水を飲ませ、そのまま川に乗り入れながら、皆で声を張り上げ適当な事を言い合っていた。


彼らが言うには、『なんでも、この川を味方の兵たちが渡り損ねたそうだ』と、胸を張り、馬に声をかけて勇気づけて川を渡り、あっさりと向こう岸へ馬に乗って上がっていった。


確かに到着したばかりの増援では、昨日今日と敵の旗印を見ていない。ましてや鉄砲の音も聞いておらず、どれほどの人馬がこの川で打ち流されたとしても、大河の水に押し流されてしまい、積み重なる遺体が横たわるのを見たわけでもない。水底に張った綱すらも今はなく、川に不審な点が無くなっていたため、『人より先に。』と、一気に思い切って渡ってしまったのだろう。


このような味方の惨状を目の当たりにして、東の川岸で待機していた寄手は、やっと後続を制止することができたという。


そういうわけで、寄手の先鋒は分散して攻め寄せたが、熊見川でそのうち二つが討たれ、残りの兵士もその日の夕方にはほとんどが川を越えたものの、その場所は皆、深い田んぼや水沢、または山が高く谷が深い場所で、馬に乗った武者たちが百騎も駐屯できるような平地もなく、夜の闇は酷く暗かった。


大川を越えてきた兵士たちは、ちょうど野分(非常に強い秋風)が吹き荒れたので、軍兵は皆、寒さに凍えていた。また、更に食料を炊く場所もなかったので、人々は安心できる事は何も無かった。


『どうしたことか。秀吉卿は中国地方の管領を賜り、多くの兵士の命を司る身でありながら、敵勢に無謀に押し寄せ、ただただ兵の命を水の泡にしてしまうばかりではないか。』と、心ある者も心ない者もこっそり語り合う者が多かったので、『なんと今度の城攻めは馬鹿馬鹿しいことか』と、人々は眉をひそめていた。


果たして、上月城の兵士らが不覚をとるような事があるだろうか。


だが、(城方が不覚をとる)前兆はすでに明らかで、その夜、月が満ちている頃に全軍が川を越えたので、秀吉卿もその明け方に川を越えて、城下の田のほとりの水辺を前にして陣を張られた。


この日の夜に上月の城から足軽を出して、今日この場所で急襲を仕掛ければ、寄手は浮き足立って退却していただろう。


城主がこの策を用いなかったのはどのような思惑があったのだろう。


寄せ手からすれば幸いな事であった。



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