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『意訳』播州佐用軍記  作者: 川嶋正友(訳:おこぜの尻尾) 
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三、政範の籠城のこと


その後、評議が行われ、足軽大将の小寺庄之助(こでらしょうのすけ)別所左門(べっしょさもん)丸山八助(まるやまはちすけ)の三人に命じて、熊見川の上下の兵糧や苅屋までの川筋にある渡し船をすべて奪い取り、砕いて捨てた。さらに、敵が渡ろうと考えるだろう瀬ごとに乱杭を打ち、水底には藤綱をたくさん張り巡らせた。


このように政範が戦の準備をしている間、秀吉殿は高嶋右馬助からの返事を待っていたが、手持ち無沙汰のまま、十日以上もあれこれと返事を引き延ばされていた。


一方、佐用では、城の要害を修理し、各所から一族郎党が駆け集まっていた。


その兵力は、武士が三千八百余人、足軽が七百余人、雑兵が千人であった。城内の各持ち場に手分けして弓や鉄砲を構え、詰めていた。また、険しい山の峰の上には、大きな木、大きな石、石弓を積み上げていた。大手口や搦手口の橋の外には、鹿垣、棚、逆茂木を巡らせていた。


上月の城は、東に向かって大きな堀が一重あり、橋が渡され、橋の南北に矢倉があった。城の追手は小山崎と呼ばれ、南方にある二の丸の谷口までは真篦嶽まびだけといい、大雪が積もったような岩が滑り落ちそうな切り立った峰で、城の際まで連なっていた。大手堀から東の河原までは下り坂で、平福川までは五町あまりあった。北の方には小さな山が連なり、城山と谷の間を猪之谷といい、大手堀から城の裏側にある大沼まで続いている。


城山から数十丈下を見下ろせば、南方の下上月の上山を二の丸といい、搦手と定めている。


搦手の土橋の外、九折坂を一町あまり下ると荒神谷という場所で、その坂下から西の方には大きな沼がある。南へ四、五町離れたところに、形見山(かたみやま)という大きな山がある。本城の裏、西側に当たる大嶽の麓には、沼や沢、田畑が続いている。そこを熊見川の渡しといい、大手道筋であるため、大きな川を隔てて防御していた。


右馬之助正澄(うまのすけまさずみ)大田新兵衛尉則近(おおたしんべえのりちか)小林宇右衛門尉満末(こばやしうえもんのじょうみつすえ)ら五百余騎は、弓鉄砲や足軽を率いて、青野原の裏の山を経由して出陣し、山の端から、わざと馬を城へ戻した。上流の浅瀬には太田新兵衛尉則近の配下二百余人、足軽八十人にて馬上の左右の大藪林の陰、堤の北方に控えました。下流の浅瀬は馬に乗ったままでは少し川幅が広いため、高嶋、小林が川の上下に分かれ、こちらも藪林の陰に兵士を隠し控えさせた。


南方の九崎くざき(久崎)の渡しには、搦手から早瀬帯刀正義はやせたてわきまさよしとその子である権太郎正継ごんたろうまさつぐ川嶋三郎四郎頼村かわしまさぶろうしろうよりむら鵜野彌太郎吉則うのやたろうよしとし廣戸五郎左衛門尉ひろとごろうざえもんのじょうが兵五百騎あまりと、弓や鉄砲を持った足軽二百人あまりを引き連れて、九崎の上下三ヶ所に出張し、藪林の陰に控えさせさせ、馬は城へ戻させた。(このとき)もし敵が南方から攻めてくるようならば、国見という所から赤松という所までの岬道(ほき)を切り崩せ、という命令も下されたという。


これが天正五年(1577年)九月十日のことである。


秀吉卿はといえば、佐用の上月こうづきからとにかく返事がないことを不審に思い、策略に明るい者を軽装の馬に乗せて上月に派遣し、物見として手分けさせて城の様子を探らせた。


派遣された偵察兵が、翌月になって所々から帰ってきて報告したことには、上月(城)が籠城していることに疑いはない、というものだった。


まず近隣の端城はしじろはことごとく開城し退去しており、大川筋の北方の田畑はすべて刈り取られていた。さらに、要所々々の渡し舟も一艘もなかったため、川から西の様子は見聞きできなかった、と申し上げた。


『上月が謀反を起こしたことは明らかだ。こうなった以上、うかうかしていては播磨の国人衆が皆敵となるだろう。急いで押し寄せ、上月城を攻め落とすべきだ。』


秀吉卿の軍勢は、一万五千騎あまりを三手に分け、姫路を出発した。


第一軍は三千余騎で、小寺官兵衛尉(こでらかんべえのじょう)竹中半兵衛尉(たけなかはんべえのじょう)を大将として、同じ播磨の佐用郡福岡野に籠城している福原藤馬允(ふくはらとうまのすけ)の城へ攻め寄せた。


第二軍は三千余騎で、堀久太郎(ほりきゅうたろう)木村源蔵(きむらげんぞう)を大将とし、少数の国人衆を交えて、上月城の搦手にあたる九崎の渡しへと向かった。


その翌日、秀吉卿は千余騎を五手に分け、先手として、これも少数の国人衆を交え、熊見川を越え、上月城の東にある二位山を攻め登ろうと出陣した。熊見川とは、上の渡しを上津こうづ、下の渡しを九崎といい、中の道にある渡しを熊見川という。


また、その次に秀吉卿は三千余騎を三手に分け、中道通りから出陣なさった。その頃、秀吉卿の先鋒である堀尾茂助(ほりおもすけ)蜂須賀彦右衛門尉(はちすかひこえもんのじょう)は、同日の夕暮れ頃に熊見川の渡しに着き、馬から下りて兵糧などを配り、馬に飼料を与えてしばらく休ませていたところ、間もなく日が暮れてしまった。


かくして、敵にどのような計略があるか分からず、明日兵士らを渡河させよ、との命令を受けたため、秀吉卿の軍勢は川岸から少し退き、二十余町の間に先陣と後陣を打ち連ねて陣取ってかがり火を次々と焚いたので、空に輝き、山野を照らし、ほとんど古い書物に書かれている通りであった。


一方、上月城から出陣していた兵は、態勢を整え、かがり火も焚かずに鳴りを潜めて控え静かに時を待っていた。


そのうち、翌日の明け方ごろ、攻め手の陣中にて動きがあった。出撃先の陣地に兵糧などを運び込み、矢の束を解いて備え、火縄に火をつけて敵の来訪を待ち構えていた。


※上津……佐用町には『うわづ』と読む地名があり、上津中学校がそれに該当する。しかし上月こうづきの地名の由来のひとつに、『上津こうづがある場所』という説が存在する。正直この軍記が書かれた時代、上津を何と読んでいたかはよく分からない。その為、ここでは上津を『こうづ』と読んでいる。

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