ニ、秀吉卿より佐用上月への使者の事
その頃、西播磨には赤松蔵人大輔政範という人物がいた。幼名は八十郎。先祖は赤松佐用次郎頼景、最近では赤松左京大夫政則の孫、右京大夫政元の子である。佐用郡の上月太平山城に住み、佐用、赤穂、揖西、揖東、宍粟の五郡を領有して「西播磨殿」と呼ばれていた。
政範の一族は、弟の次郎政直が佐用早瀬城の城主を務め、叔父の高嶋右馬助正澄は赤穂郡の高野須城の城主、早瀬帯刀正義は宍粟郡の柏原城(徳久城)の城主、同じく弟の横山藤左衛門尉義祐は揖西郡の室山城の城主を任じされていたほか、その他の一族や家族も繁栄し、領内のあちこちに砦を築いて西播磨の要所を抑えていた。
政範が一族郎党を集め、話されたことには、
『最近、羽柴筑前守秀吉がこの国に下向し、府中に滞在して威勢を振るっているという話を聞く。しかし、新しく勢いを持つ者とはいえ、この国は代々赤松が長年にわたって治めてきた土地だ。さらに、元弘・建武以来、我が家は並外れた軍功を立ててきたため、代々将軍様から領地を賜り、一族に分け与えて守ってきた。
しかし、近年天下は乱れ、赤松一族は他家と戦い、ついに赤松家の嫡流は滅び、一族は離散してしまった。それでも天文年間から弘治年間までは祖父の代に至るまでこの城を離れなかった。これはひとえに天の助けによるものだ。
その後、北国の尼子氏や山名氏と戦ったことも度々あったが、一度も負けることなく国を保ってきた。父(赤松政元)の時代もまた、西戎(西方からの外敵の蔑称)の陶氏、大内氏、毛利氏らが何度も兵を差し向けてきたが、戦い続けて八年もの間一度も不覚をとらなかった。
その後、毛利氏が益々勢いを振るっていた時、ちょうど赤松政則の家臣である浦上備前守が主君に背いて政則を殺し、国が乱れた。当家はこの地に残って浦上氏を討とうと方策を巡らしていると、浦上氏もまた宇喜多氏によって滅ぼされてしまった。
宇喜多氏も浦上氏の家臣であった。
こうして当国は敵に襲われること凡そ十二度、政元の一族はついに戦に疲れ、家臣も少なくなってしまった。政元は宇喜多によって城を落とされ、山林に身を隠した。その時、宇喜多和泉守直家から和睦の使者が三度もやってきたが、それでもなおこれを受け入れず、当家は計略を巡らしていた。
しかしその後、直家が単身で尋ね、数日に及んで和睦を請うてきた。
直家の真意を聞けば、毛利輝元をはじめ、吉川、小早川、宇喜多らが近々上方に討って出るという。
その為、父の政元をはじめ、別所、小寺の一族全てを毛利に加勢させ、その先陣を頼もうと考えている。それ以外に理由はなく、宇喜多家としては、断じて国を奪おうとは考えていないのだ、と言葉を尽くして申し出てきた。
この申し出を断り、この時に至ってまで、(自分一人が意地を張り)たまたま生き残れた一族郎党を途絶えさせてしまうのはさすがに非道ではないか。
たとえ自分の意志を曲げてでも、ここは一族の命を永らえさせるのもまた世の習いではないか、と考え、政元が和睦を決意し、輝元ら毛利家の傘下に入って以来、この国は元のように一族で分担して統治するようになり、安寧に暮らし続けることができた。
しかし、近年また一家の中で様々な異論が出ている。
今、自分としては、節操を曲げて毛利に背くことはしないものの、信長の傘下に入ることも本意ではない。人々はどう思うか知らないが、自分としてはこの城を枕に討ち死にしようと心に決めているのだ』
と、真剣な面持ちで申し述べた。
右馬助正澄は、あえて聞き返さず、背筋を伸ばし、満座を見渡しながら申し上げた。
『これはこれは。心変わりをした人がいると聞くのは不本意なことだ。この席に連なる者の中に、異論を唱える者がいるだろうか』と申し上げたので、正義、義祐、政直、小寺、小林、太田、林、川嶋、柏原、別所、大谷、浦上、丸山、芳賀、端山、永良、国府寺、鵜野、佐用、上月といった人々が一同に申し出た。
『正澄殿が仰るように、誰が異論を唱えようか。ただ運を天に任せて、早く府中(秀吉公の陣営)へ押し寄せ、攻め落とすべきだ』と、一同で決したその時、秀吉殿から使者がやってきた。
高嶋、早瀬、横山、ならびに瀬川、真嶋らが使者の趣旨を聞くために出向いた。
一族郎党が集まっている最中だったので、幾重にも赤松家の家臣らが並んで座る中、上座に使者を招き、政範と政直が使者と対面した。すると、(使者は)信長公の御教書に秀吉の回状を添えて出したので、衣笠新助がそれを受け取り、政範に差し出した。
政範はこれを恭しく受け取ると、頭の上に捧げ持ち、秀吉卿への敬意を示してから、回状を広げて声高らかに読み上げた。
政範はしばらく考えてから申し上げた。
『御教書の趣旨と秀吉公の回状、謹んで承知いたしました。また、まことにありがたく存じます。とりわけ信長公や秀吉公に対して恨みを申し上げるようなことは少しもございません。しかしながら、我々はここ数年、毛利氏を頼りにしており、これといった理由もなく毛利氏を裏切ることもできません。もし毛利輝元様が味方として参陣されるのであれば、我々が先陣を務め、命を懸けて忠節を尽くしましょう。しかし、もし輝元様が味方として参陣されないのであれば、承諾することはできません。この旨をどうぞよろしくお伝えください』
と、礼儀正しく申し上げた。
三人の使者も当然のことだ、と納得した様子で、あれこれ意見を言うことはなかった。
その時、高嶋右馬助正澄が言った。
『私が思うに、政範は若輩ではございますが、このように考えを貫いております。無礼をお許しください。私は年寄りの身ですので、よくよく話をして、改めてこちらからお返事をいたしましょう。どうかよろしくお伝えください』
と、言うと、三人の使者は政澄の助力を得たものと承知し、退席した。
使者を、政範と政直が次の間まで見送り、正澄、正義、義祐、その他の一族郎党もこれを見送った。その中でも右馬助正澄は、小門の内まで使者を見送り、玄関から屋敷に戻った。
正澄は屋敷に戻ると申し上げた。
『事態は急を要しております。少しなら時間稼ぎもできます。今は躊躇している場合ではありません』と様々な評議を行った結果、『いずれにしても降伏しない』ということが決定した。
『その決定に従い、すぐにでも籠城の支度を始めよ。秀吉とて、四、五日は返事を待って油断しているだろう。その間に、各自の居城を去って、この城へ一斉に籠城せよ。詳しいことは後で伝えるが、幼い子供や女性などを備前や美作方面へそれぞれ退避させよ。兵具や食糧を急いでこの城に運び入れよ。特に、農民たちは今が稲刈りの時期なので、各自の領地で刈り取りを行い、夜も日も継いで城に納めさせよ。』
と政範が申し上げると、
諸大将や家臣たちは『もっともなことだ』と、それぞれに支度を始めた。
本当に、人の世の定めがないことが気の毒でならない。
影が形に寄り添うように、片時も離れることのなかった妻や子、年老いた父母に至るまで、慣れ親しんだ故郷を物詣するように、ただ急に初めての旅立ちを、歩き慣れない山道を、行く先もわからず迷いながら進んでいく。
誰もが心の中に悲しみを抱えていた。
これが永遠の別れになるとは、後になって思い知ったことだった。




