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『意訳』播州佐用軍記  作者: 川嶋正友(訳:おこぜの尻尾) 
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一、羽柴秀吉卿が播磨国へ下向されたこと。


天正五年(1577年)七月上旬、羽柴秀吉(はしばひでよし)卿は、織田信長(おだのぶなが)公の代官として、その勢力一万ハ千余騎を率いて、府中城(兵庫県姫路市)の城主である小寺氏の館へ下向された。


小寺氏は赤松氏の一族で、播磨国の飾東郡、飾西郡、揖東郡、揖西郡を領地としていた。


しかし、当国の赤松氏の統領は近年滅び、その一族らは播磨国内に散らばって、安芸の毛利輝元(もうりてるもと)に属していた。


播磨は東の八郡は三木郡の別所長治(べっしょながはる)が治め、国府の二郡は小寺(こでら)氏がこれを統治し、残る西と北の五郡を佐用の上月城主の赤松蔵人(あかまつくろうど)が領地としていた。その他の一族も残っていたが、ある者は家臣として、ある者は播磨の所々の端城(小さな城)に居を構えているに過ぎなかった。


さて、小寺氏であるが、彼らは最初は御着(ごちゃく)という場所に住んでいたが、その後、府中に隣接した別の場所に城を築いて居を構えていた。


小寺氏の当主、小寺政職(こでらまさもと)がどのような考えを持っていたのかは分からない。


だが、政職は、秀吉卿が播磨国に入られたと聞くと、家老たちを呼び出してこれまでのいきさつを大まかに話すと、刀と脇差を投げ出して(もとどり)を切り落とし、そのまま簾の中に入ったきり、その日の暮れ時ごろには行方知れずとなってしまった。


このため、家老をはじめ、小寺の家臣たちは騒ぎ立てそれぞれ退散してしまった。


このような状況下において、小寺氏の家臣に小寺官兵衛尉高孝(こでらかんべえのじょうたかすえ)(おそらく孝高の誤記。後の黒田官兵衛)という者がいた。


高孝は播磨国の端城である別府(兵庫県加古川市)に居を構えていた。


高孝は(政職の行動が)思いがけないものではあったものの、秀吉卿と以前からの約束があったので、主君が不在になったとて黙っているわけにはいかないと思ったのだろう。


すぐに秀吉卿をお迎えするために道中まで出向かい、まず自分の館に招き入れた。そして、自分には裏切りの心などないのだと、秀吉卿の無二の家臣となることを誓った。


秀吉卿も大変喜ばれて、互いに誓約を交わされたといわれている。


その後、秀吉卿が播磨国に下りて来られた。


二人の出会いのきっかけを尋ねると、以前、小寺政職が自身の才覚であろうか、高孝と父の職隆、その他の家老たちを集めて相談し、当時の織田信長公の武威を聞き伝えて、信長公に帰服することを決定したことに始まるという。


この時、高孝が本姓を黒田と称していたところを、小寺へと改名させている。


そして、信長公への使者として申し上げたことには、『主君の小寺政職は播磨は信長公に御味方するべきだと考えております。しかし、播磨の一族は旧来からの付き合いのある毛利一族を裏切るような行動は取ろうとはしないでしょう。そのため、(信長公の武威と播磨諸侯への信頼の証として)信長公の息子たちのうち、一人を大将として播磨国へお下しください。こちらからも人質として一子を差し上げましょう。』と申し伝えるために、小寺が密かに岐阜へ使者を送ったとされる。


その頃、信長公は美濃国の岐阜にいらっしゃったので、高孝は急いで岐阜へ参上し、その由を詳細に申し上げると、すぐに奏者(取り次ぎ役)である木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)(秀吉の変名前の名前)が出迎えた。


高孝が密かな心の内を詳しく述べると、秀吉は快く承知し、高孝の事を信長公へ申し上げた。


信長公は幸いなこととお思いになり、すぐに高孝を御前へ召し出され、その趣旨を詳しくお聞きになった。


高孝がその計略や方便を細かく申し上げると、信長公は感心されていた。


信長公が仰せになったことには、


『我は天下のために義兵を起こしている。しかし、摂津国や播磨国をはじめ、中国地方や西国へは、まだ志を同じくする者が集まっていない。そのような時に小寺が帰服してくれるとは、まことに喜ばしいことである。早速大将を下向させたいところだが、上方(京都周辺)はまだ治まっておらず、畿内を鎮撫している最中である。一年か二年ほど経てば、畿内を鎮めた後、すぐに大将として秀吉を遣わそう。この由を詳しく小寺に伝えよ。それに、汝も器量のある者と覚える。存分に忠節を励め。その功績によっては汝を一人前の大名に取り立てよう。まずは藤吉郎とよくよく相談せよ。』


と、高孝にお聞かせになった。


高孝は様々に褒められた後、信長公自身の手ずから太刀一腰を与えられて帰るよう促されたため、高孝は使者としての面目を保ち、身に余る光栄を感じながらその場を退出した。


そこから秀吉と人質などのことが語られ、すぐに姫路へ駆け帰り、小寺政職(こでらまさもと)にそのことを話すと、小寺も思いがけない厚遇を受けたものだと織田家からの申し出を喜んで承諾した。


さて、人質の件についてだが、小寺には男子が一人しかおらず、証人(人質)として立てる子がいないため、すぐに高孝の一子である松千代丸(後の黒田長政)という今年12歳になる者を人質として、密かに岐阜へ参上させた。


その忠勤は類を見ないものだった。


小寺政職は信長公へ人質を遣わし、時節が到来するのを待っていたので、信長公との密約については播磨の者どもには隠していた。


そのため、播磨国内の一族でも(政職の思惑を)知る者はいなかった。


それから政職は、播磨国内の一族と会う機会があるたびに、世間話のついでとして、信長公の武勇を様々に語り出した後、今後はただ皆々信長公に帰服するように、と述べていた。


政職が言うところでは、


『自分が思うところによれば、近々上方の軍勢がこの播磨へと攻め下ってくる。その時になって降参するのでは先祖に対して面目が立たない。また、戦おうとすれば必ず味方は織田の軍勢に敗れ去り、ことごとく滅びてしまう。ともかく今は子孫に家を継がせていくことこそが大事なのではないか。』


と、度々小寺は、信長公への帰順を西播磨の諸侯たちに勧めたとされている。


だが、佐用の別所氏をはじめ、同じ小寺一族やその他の国人に至るまでが、『毛利輝元様の心遣いは浅くない。』と判を打ったように政職の言葉を取り合おうとはしなかった。


皆が信長公に協力しようとしないことを、政職はただただ恨めしく思ったという。


このため、政職は播磨で孤立してしまい、政職だけが毛利に背いて、信長公へ降るのもどうかとためらわれるようになった。


しかし、今さら信長公との約束を違えるのも、それはそれでいかがなものかと思い、進退窮まって途方に暮れた政職は、出家を決意して世に隠れ住むようになってしまった。


さて、高孝に話を戻す。


今回高孝が秀吉卿に味方するのは、一朝一夕で考えたような短慮な理由によるものではない。


以前の岐阜での会談において、高孝は信長公との約束の重大性を理解していたため、小寺は織田家に人質を立てねばならない、と、信長公に直接約束申し上げていた。


今、小寺政職(こでらまさもと)が世捨て人となり、政職の家臣たちがそれぞれの心で退散する中、(小寺の姓を継ぐ)高孝が秀吉公に味方するのは、まさに義にかなった行いであり、この時期の播磨の状況下においては、どちらが正しくてどちらが誤りだったのかを判断することは非常に難しい。


加えて、同州三木の別所長治(べっしょながはる)も、叔父の諫言(ざんげん)によって、先年、同姓の孫右衛門尉(まごえもんのじょう)を使者として、信長公に帰服する旨を密かに伝えていた。


これら播磨のことがまとまったので、秀吉卿は播磨に下向された時、道中で三木へ使者を立てて、『府中へ参上するように』と伝えられた。


これに対して長治は、家臣の別所吉親(べっしょよしちか)三宅忠治(みやけただはる)を伴って秀吉卿の陣へ赴いたが、一両日逗留しただけで、あとは病と称して三木に帰り、その後は出仕しなかった。


秀吉卿がその理由を尋ねてみると、長治の年若い兄弟三人、および家臣の三宅忠治(みやけただはる)と、別所山城守吉親(べっしょやましろのかみよしちか)別所孫右衛門尉重棟(べっしょまごえもんのじょうしげむね)との間に意見の対立があったためであった。


そのいきさつを尋ねると、長治がまだ若輩の時分、長治は叔父たちの策略によって毛利家を裏切り、織田信長公に帰服したために、国中の一族たちとは近年疎遠になってしまっていた。


このことを長治は不本意に思っていた。これが一つ目の理由である。


また、今回の播磨入りの大将が、信長卿のご子息の中から選ばれるだろうと思っていたが、そうではなかった。これが二つ目の理由である。


今、羽柴秀吉を大将として迎え入れ、秀吉の軍勢の先陣に立つことは、先祖に対して顔向けができないので、それならばと、病を称して出迎えなかったのである。


また、三宅忠治の計略によって、信長卿は秀吉へ使者を送り、『長治めは、疱瘡(ほうそう)の病が治れば姫路へ罷り出るつもりでいる。それゆえ、播磨国においてはまず西播磨の者を攻めよ。佐用の大平城は、西播磨第一の要害の山城である。また、上月城とその他の支城は皆、要所は山城となり、それぞれが毛利と深く関係している。それゆえ、備前の宇喜多を先に攻めれば、後から毛利も援軍を送ってくるに違いあるまい。』と伝えさせた。


信長卿の命令を受けた秀吉卿は、


『ならば三木で(敵対する)毛利の増援に対する準備をすべきである。この先、播磨では合戦が何度も起こるだろう。あるときは攻城戦となり、あるときは平地での遭遇戦を行い、またあるときは国境での争いが十度二十度も起こりうる』


と、お考えになられた。


ところが、秀吉卿が三木へ出陣しようとすると、長治ら別所の者は、味方の城々へ引きこもり、城兵らを休ませて防戦するという。


そして、長治は『三木の城は父の代から大破しており、籠城に適していない。今、この間に我が城を修理するのだ。』と言い訳をして出仕せず、秀吉からの提案は聞き届けられなかった。


初めのうちはともかく、別所の方からそれ以降一度も音信がないので、秀吉は不審に思い、三木城外へ物見の密偵を配置して周辺の様子を探らせると、夜な夜な、近隣の武士と思われる者たちが三木城の周りに集まり、夜遅くになって退散しているのが分かった。


このことを、密偵は詳細に府中にいた秀吉卿に報告した。


これにより、三木城周辺の城々にも多くの密偵を配置したところ、長治の周りでは夜々の往来が頻繁にあったため、秀吉卿は諸大将を召集し、


『別所の謀反は疑いようがない。東方、北方の武士たちで府中に居る自分の元へ参る者は一人もいないではないか。自分がこの国へ下りてきてから全てが思う通りにならないのはおかしい。今また、別所が出仕せず、しかも自分の館を修理すると言っている。これを時間をかけて処理すれば、国人たちが皆、別所方に味方してしまうだろう。早く攻め寄せて攻め落とすべきだ。』


と焦って騒いでおられた。


その様子を見ていた小寺(こでら)浅野(あさの)(たに)堀尾(ほりお)蜂須賀(はちすか)らの家臣が一同に秀吉卿に申し上げるには、


『まず播磨の国人たちへ回状(=手紙)をお送りになり、諭して落ち着かせて様子を見られてはいかがか。もし、それでも彼らが強情に(秀吉卿のもとに)参らないようであれば、止むを得ません。三方から攻め入るようご計画をなさってください。』


と申し上げたので、


秀吉卿も『まことにもってその通りだ』とお思いになり、『お前たちの言うことにも道理がある。その通りにしよう』とおっしゃって、ご自身をなだめられた。


その後、信長卿の手紙に秀吉の回状が差し添えられ、播磨国中の国人衆のもとに回状が通達された。


中でも、佐用の上月には、西播磨の本城大名(盟主)であるとして、森源蔵(もりげんぞう)山中鹿之助(やまなかしかのすけ)に、儒者を一人付けて派遣されたのだと伝えられている。

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