表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
播州佐用軍記  作者: 川嶋正友(訳:おこぜの尻尾) 
18/18

十七、政範諸大将集め饗応の事


明けて十二月十一日。


政範が大広間へ出て、粉骨砕身奮戦する諸大将を集めて仰せられたことには、


『ここに集まってくれた全員が、私が籠城を始めて以来、昼夜を問わず戦い、粉骨砕身の働きをしてくれた。今日この日の明け方の戦いにおいて、勇戦、計略、応変の働きは、古今無双と称されても然るべきことである。当家の面目を保つ上で、これに過ぎるものはない。ついては宇喜多殿をはじめ、諸大将の働きは抜群であり、感服に堪えない。軍旅とはいえ、人々の辛労、推し量るばかりである。これらに報いることは、私の期するところである。おそらく今日も敵は攻め寄せてこないだろうから、少し心身を休められよ。手に入れた酒があるから、共に飲もうではないか。』


と、酒宴を催され、宇喜多殿をはじめ満座の人々も喜び、興に乗じられた。


この間、西の大嶽を堅守してきた神吉太郎左衛門と衣笠新助が、高嶋、早瀬らが駆けつけ、


『なんともまあ、今日この日の明け方、敵が無二の戦働きをしておりましたが、大手も搦手も共に終わり、皆様の幸運をお祈りするばかりです。さて、申し上げたいことには、この明け方の騒動の最中、城中へ兵糧を運び込もうとする者の姿が見えておりました。しかしその時、城の西方を持ち場としていた寄手と遭遇したと見え、しばらく防戦をしておったそうです。この時、坂の途中まで寄手が迫り来ており、(兵糧を持った者らは)交戦の最中にあって、城に入ることが叶いませんでした。そうこうする間に、戦闘も止んでしまいました。おそらく備前か美作の人間か、そうでなければ近隣の者であったかと思われます。先夜はこういった具合で、城から助けを出すこともできず、ただ見殺しにしてしまいました。この先、我々はどうなるのでしょうか。』


と、ささやいた。


正澄はこれを聞き、


『それは本当に苦労をかけた。志ある者がこのような時節に城内へ入ることが出来なかったのは天命ではある。もし兵糧を運んでいた者らが、赤松山や秋里、桐山辺りのどこかでも良いから、合図である螢火や流星などを上げれば、城から先んじて兵を出していただろう。(そうしていれば)たとえ寄手が攻め寄せたところで、敵は不意を突かれ、城兵が勝利を得ていたはずである。そうもいかず、二度まで敵に奪われたことは本意ではない。兵糧を届けようとした者を無駄死にさせ、敵に付け入る隙を与えてしまったことは、嘆きを重ねるばかりである。とは言え、籠城にはつきものではあるから互いに悔やむことはない。今はただ、時節の到来を待て。』


と申された。


これを聞いた神吉太郎左衛門と衣笠新助の二人、その他の人々は、


「恐れながら、こうなった以上他は当てに出来ませぬ。運を天に任せ、勝負を急ぐべきではないだろうか。』


と、申し上げた。


一方で、寄手側も山脇から秀吉卿の加勢があり、青野原の東の山に陣を張られた。


秀吉卿には、宮部、小田垣、中條らが追随し、足軽五十余人や弓を持った兵士を一括りに、槍や長刀の兵、その他合わせて凡そ三百余人を引き連れられていた。彼らは、二位山の山裾を経て、美作の瀬頭せがしらに至った時、少し猶予ちゅうよしたかと思われたが、騎馬の兵十六騎を呼び集め、瀬枕へ馬をさっと川に乗り入れられた。


足軽たちも騎馬の兵に続いて、少し川上の方へわめき叫びながら渡って行った。


その次に弓の兵、槍や打物うちものの兵たちが順番に川を渡り、すみやかに西河原へと上がっていった。


ここからは足軽や弓の兵たちは少しも留まらず、下上月しもこうづき辺りから形見山かたみやまの山裾まで、鷹の羽のように連なって鉄砲を構え、弓杖を突いて陣を整えられた。これより半町余り隔てたところに、くだんの騎馬十六騎や打物の兵が相互に支え合って陣取っていた。


大手おおてにある青野原の上の瀬頭、東河原には、糟屋かすや、中村、杉原らが配属され、鉄砲を持った兵士五十余りを川端から少し離して控えさせていた。また、川上へ少し引き上がったところには弓の兵の集団が陣を張り、これより一町余り東の方へ引き上がった場所では、糟屋の兵士二百人ばかりが陣を敷いていた。


本来の渡り口である川瀬には、竹中英積たけなかひでつみ、岸本、梅津孫八郎うまずまごはちろうらが配属され、川端よりニ、三十間離れて足軽五十名余りが鷹の羽のように連なって立っていた。


川上の方には、弓の兵の集団が三十人ほど控え、そこからさらに東へ一町余り離れたところに、竹中の勢が二百人ほどで陣を張り、これより先の山裾では、蜂須賀、小寺、谷、梶原、中嶋、山口、木巣などが陣所を設け、それぞれの陣所の前には兵を立たせては、足軽などを集めてささやかな陣を敷いていた。


さて、秀吉公はこの城外において、昨夜の夜討ち騒動をお尋ねになり、軍使をもってお聞きになったところ、寄手の軍は大負けに負けて、おまけに大勢の者が討死し、諸将は皆無傷の者は居ない、との報告をお聞きになったので、後詰援軍を出そうと触れを出し、人馬を催促なされた。


しかし、軍兵は急には揃わず、すでに巳の刻になって、ようやく先陣の者らが各所に馳せ着いた。秀吉公御自身の手勢が到着した頃には、すでに城兵は一人も残らず城へ引き籠もってしまっていたので、どうすることもできず、ただ残念がられるばかりであった。


この状況において、竹中は、


『このように手間取っていては、城兵らが打って出てくる可能性もございます。そうすれば、味方の敗残兵をかき集める事も難しくなりましょう。すぐに攻め口へ押しかけて、足軽を張るべきです。』


と、申された。


秀吉公がこれを聞かれ、


『城兵はなかなか打って出てはこないが、その通りだ。ならば、搦手方面に、味方の軍勢を川の向こうに進軍させよう。宮部、小田垣らの手勢を始めとして、川を渡って陣を張らせよ。城の正面には、川のこちら側に足軽を配置させよ。味方が川のこちら側に陣を張れば良いのだ。』


と、仰られた。それによって、このように軍を配置なさったのである。


兵士らは重症を負って死ぬ事もできず、引き止めることが出来ない者も多く、彼らはこれ(援軍の到着)に力を得て、自力でようやく川端まで出てくる者もいた。また、戦友らの呼ぶ声によって、援軍の諸大将の中から、侍、足軽、人夫を遣わして、西の河原の周辺や、あるいは、形見山かたみやまから寄場までの間で、点々と散らばっていた手負いの者たちを回収していった。


また、その他、敵味方の死骸が満ち溢れていたので、あれを見これを見しているうちに、今日の我身である、と思い、胸を痛めない人はいなかった。


さて、一方、城中では声を掛け合い、大宴会の最中であったが、『敵が攻め寄せてきた。』との各所の櫓からの報告を受け、どれほどの規模であろうかと思いつつも、各自の持ち口へと、我も我もと出陣していった。


そのため、大広間はたちまちのうちにさびしくなってしまった。


とは言え、寄手が攻め口から攻め寄せるわけでもなく、また城から討って出るわけでもなかったので、敵も味方も、この日は何もせず、無事に日が暮れた。


寄手の方では、今宵も城からの夜討ちがあるかもしれないと用心し、夜通し篝火を焚き、それを少しも注意を怠らなかったため、城兵らが討って出てくる様子もなく、ただただ沈黙が辺り一面を支配していたのだとされている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ