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播州佐用軍記  作者: 川嶋正友(訳:おこぜの尻尾) 
17/18

十六、十二月十日ノ夜太平城搦手合戦之事(※)


そうして搦手の人々も敵の小屋群の近くにまで忍び寄り、合図を待っていたところ、大手の方角より太鼓の音が聞こえ、(大手の人間が)太鼓に合わせて一斉に鬨の声を上げるのが聞こえてきた。


だが(搦手より)出陣していた人々はわざと声を出さず、足軽たちが敵の小屋に走って行き、竹束を突き破って、あちこちから乱入し、そして、敵勢が茫然として驚き慌ててもみ合っているところに鉄砲を打ちかけた。


敵は密集していたので、外れ弾出すことなく夥しい数の者を討ち取ることができた。


かねてから、(寄手も)鉄砲や弓を放つ準備していたのだが、急な出来事に驚き戸惑い、暗闇の中でもみ合ってしまっては、弓や鉄砲もどんどんと折り重なって倒すだけで、右へ左へバタバタと多くの者が討ち死にしたために、残党たちはどうすることもできず、一かたまりになって逃げ散ってしまった。


夜討ちの兵たちは、勝ちに乗じて各自弾を込め替え、二発、三発と射撃しながら進軍を続けた。


足軽が退却を始めたところで、早くも引き鐘の合図が鳴り響いたため、林の手勢も鐘を鳴らし、足軽は兵を引き返し、横山や鵜野も鐘を合わせて順番に兵を引き返すことにした。


そこから諸大将は足軽を一つの集団としてまとまらせ、殿軍となって後退することにした。


寄手の堀尾と山中は、かねてよりこの機を待っていたのだろう。城の夜討ちの兵士らが思う存分敵を追討して引き上げる時分を見計って、形見山の東谷に陣を敷いていた堀尾と山中の弓兵らが進み出て、後退中の夜討ちの兵らの追跡を始めた。


そうして、夜討ちの軍勢が早くも半ばほどが土橋まで引き上げ、もう半分が坂の下や坂の中ほどまで差し掛かっていたところ、堀尾の弓兵が疾風のように追撃し、二、三十間の距離まで近づくと、鉄砲を撃ちかけ、矢を射かけてきた。


夜討ち側の殿しんがりは、横山藤五郎と浦上七郎兵衛尉の二人が足軽を率いていたという。


彼らは以前変わらぬ様子で引き上げており、また、夜明けが近づき、ことさら風が激しく吹いていたために、敵が追従して来ているとは思わず、ただ『先陣は急げ、先陣は急げ。』と声をかけ、足早に後退していたところを、件の弓や鉄砲を打ちかけられて敗北した。


寄手の後陣では、横山と浦上が、足軽らの指揮を執って立て直し、『鉄砲を撃て、矢を放て、敵を追い返せ。』と命令していた。しかし、追手の弓や鉄砲に当たり、左に右にとバタバタと討ち倒れていった。


もともと矢も弾も尽きていた。


そこに士気を保てる者もいなくなり、誰もが我先にと逃げ崩れる中で、横山と浦上はわずかな兵力で必死に踏みとどまっていたが、堀尾と山中の弓や鉄砲がだんだんと近づいてきた。


彼らは勝ちに乗じて矢を放ち、鉄砲を撃ちかけてきたため、横山と浦上もついにここで討ち取られてしまった。


堀尾と山中が勝ちに乗じて矢を放ち、槍や長刀をひらめかせて追討していく様は、あまりに急すぎる出来事だった。


加えて、堀尾と山中が敵を追う様子を見て、以前に追い立てられた寄手の兵が、その場所から引き返し、堀尾と山中の後に引き続いて押し寄せたために、夜討ちの兵は大勢討たれてしまった。


城からも、かねてから坂の下の左右に、太田先生、林対馬守、衣笠虎松、岡田半左衛門尉らかれこれ四人ばかりが出陣し、足軽を配置し、寄手の兵の追撃をここから追い返そうと待ち構えていた。


ところが、引き返してくる味方の後続が坂の下に近づいた時、寄手の大軍が押し寄せてきたが、夜討ちの殿しんがりを率いる者たちに鉄砲を撃ちかけられ、右へ左へとバタバタと討ち倒されていった。


そうして、(寄手の大軍が)敗走し、坂下の方へ逃げ崩れる中、かねてより、この軍勢を防ごうと出陣していた太田や梶原の陣に味方の兵士が逃げ込んできた。


太田と梶原の軍勢は、この敗走中の兵士らと合流しようと試みたが、城の方には堀があり、内部も狭く、(城内も夜討ちの兵士らも)共に足軽が混乱してしまい、引き分け、かねてから追ってきた敵とは交戦できなかった。


このため、夜討ちの殿を務めていた諸大将をはじめ、足軽などは可能な限りの数の敵を討ち取りはしたももの、衣笠と岡田らも、次第に追討の手を徐々に止めざるを得ず、追撃してきた敵の左右の手勢に向かって、自軍の足軽を展開させていった。


追手もこうなっては鉄砲を撃つことができないと判断したのか、槍や長刀をひらめかせながら間近に迫ってきた。


そこで、衣笠と岡田は追手の敵勢を見て、『撃て。』と、号令をかけて鉄砲を撃たせると、追手の兵たちは将棋倒しのように次々と倒れていった。その様子に、後続の兵は堪えきれず、たちまち隊列を崩して右往左往して逃げ惑っていった。


そこに、太田と林はさらに足軽を進軍させ、衣笠と岡田の足軽と入れ替わり、鉄砲を撃ちかけながら追討を始めると、寄手はいよいよ討ち取られ、堀尾と山中は重傷を負い、かろうじて彼らの郎党の肩を借りながら九死に一生を得て逃げ去っていった。


さて、寄手の陣からは堀と木村が、形見山の東の裾野に引き返してきた手練れの足軽を集め、堀尾と山中を遥か後方から追いかけていた。


追手の先陣を務めていた堀尾と山中は、敵の反撃を受け、大勢の者が討たれ、生き残りもまた敗走をしていた。


そんな状況において、堀と木村の軍勢が(堀尾と山中に)追いつき、堀尾と山中が敗走していたのに入れ替わり、追撃中の上月城の兵士に向かって、鉄砲を撃ちかけ矢を放った。


そのため、城の兵士、太田、林、山田、衣笠、岡田らの軍勢は、右へ左へとバタバタと大勢の者が討ち倒され、敗北した。


堀と木村は勝利に乗じ、兵と足軽を交代させながら鉄砲を撃たせると、太田、林、山田、衣笠、岡田らに(矢弾を)防ぐ術などなく、どうと叫んで寄手に突撃を仕掛けた。


しかし、堀と木村の弓兵が何度も何度も被せるように矢を放つと、ついに太田、林の二人が倒れ、彼らの郎従(家臣)である、鵜山、橋本、井澤、岡部などの名のある者たちも次々と討ち死にしていった。


城兵らは一塊となって坂下の方へ潰走を始め、寄手は勝利に乗じて追撃し、坂下まで追い上げていった。さらに、堀と木村は声を張り上げて進み出て、『城の中へと乗り込め。』と大声で呼ばわった。


その声は近隣の山や谷に響き渡り、獅子が怒り吠えるときの声でもこの時の声には及ばないほど、なんとも身の毛もよだつばかりであった。


夜討ちの兵が、兵の半数を土橋まで退かせたその時、寄手の兵士が追いすがって来た。


後方での戦いが急を要すると聞いた、早瀬、丸山、鵜野らは、土橋から引き返し、坂の途中で追いかけてきた敵と彼らの間で激しい乱戦となった。


隅櫓からその様子を見ていた早瀬帯刀正義と佐用次郎政直は、出陣中の諸大将らがすでに危険な状況にあると判断し、『彼らを見殺しにするのは末代までの恥である。打って出て敵を追い払おう。』と、政直が先駆けとなって下りて行くと、上月権正、佐用三郎をはじめ、近習や外様八十余人が、我も我もと走り出た。


木戸の内では、東矢倉の早瀬正義の配下の将、真嶋と端山が物見に出ていたが、政直が(城外へ)打って出る姿を見て、正義(早瀬帯刀)の許に向かい、政直出陣の報を註進した。


これにより、帯刀ももはや躊躇している暇はないと、自分の持ち場を離れ、百余人の部下を引き連れて出陣なされた。


木戸の前では、木戸を持ち場とする人間を始め、政直に会うことができた。


門倉を守備していた国府寺左近が両将(政直、正義か?)の前に出向いてきて、


『今夜は敵味方ともに攻撃の手を止める気配がないように私は思う。戦は時の運に寄るべきもので、必ず勝つべき者は決まっていない。ただ、自分たちの兵をどのように使うか使わないか、その決断が後世まで評価されていくものだとされている。ゆえに、進退の決まりを違えてはならぬ。私の愚見を申し上げますと、(両軍が)ただ夜襲による戦闘で競り合っている状況であるため、夜討ちの兵士たちのことはさておき、殿(赤松政範)達も攻め入られるのはいかがだろうか。』


と、申し上げた。


早瀬はそれを聞いて、あえて仰ぎ見ず、


『確かにその通りである。敵味方ともに血気盛んになっており、しかも今戦いに疲れている。この機会に、敵に先の失敗を悔いる者が居り、加勢に駆け付けてくるようであれば、味方は皆討ち取られてしまう。確かに我々が坂の途中まで追い、出陣して鬨の声を上げて集結する勢いを見せつければ、敵はきっと恐れ慄くだろう。味方がこれによって士気を得て、奮起するための計略に他ならない。退却中の味方を奮い立たせて流れを引き戻すための方法となる。ご安心召されよ』


と、申している時間はあったが、政直は弓を持った兵士を先頭に立てて、早くも木戸の外へと走り出ていた。


すると、正義はすぐに二の陣に押し寄せ、弓兵を真嶋、神吉、柏原に附随させて、先頭に立って押し出した。そして先を進んでいた政直にも、『坂の下は道が狭うございます。ゆえに二手に分かれ、貴殿は南の加作見かさくみ方面から、私は北から敵陣へと近づきましょう。』と、使者を立てさせていた。


政直は、『心得た。』と返事をして、すぐに坂下から少し引き返して向かうと、正義は堀に沿って弓を持たせた兵を進めさせた。


その間、先陣の義祐、正継、鵜野、丸山ら二百人ほどが、ここを最期の場所にせん、とばかりに防戦に努めていた。


敵は、堀尾、山中、英積、英賀、羽栗、春日部らで、彼らはいままで毎回毎回夜討ちや昼討ちに遭い、味方がそのたびに追い立てられたことを無念に思っていた。


そのため、今夜こそは夜討ちの兵などを追い返してやるぞと決意していたため、思い切り喚き叫びながら交戦し、両軍が激しく戦い合っていた。


両軍とも勇ましく戦う者が多かったがために、討たれる者の数もまた夥しく、互いに『引くな、引くな。』と味方を励まし合いながら戦い続けていた。


このような状況の中、正義と政直は、二百人ほどの手勢を率い、南方と北方から二手に分かれて弓兵らを進軍させ、義祐、正継、鵜野、丸山らが、激戦続きで押されかけている最前線へと躍り出ると、(敵勢に向かって)矢を射かけさせた。


特に、この正義と政直という二人の将の手勢には、強弓を誇る兵士がいて、彼らの矢に当たった者は将棋倒しのように射倒され、たちまち寄手の兵は散乱してしまい、やがて一塊となって敗走していった。


城兵らが勝ちに乗じて追討してくる勢いがあまりにも急だったので、山中や堀尾も、この時何度か途中で引き返し、敵を防いで味方を退却を助けようと試みたが、逆に討ち取られそうになり、かろうじて難を逃れた。


このため彼らは重傷を負い、家臣に支えられて退却していったとされている。


その時なって、早瀬は追討する兵を制止し、段階的に兵士を城内へと引き返させた。正義と政直はまだ戦わない元気な軍勢であったので、二百人ほどで後退を続け、殿しんがりとなって山を登りかかっていた。


そこに、寄手の明石、櫛橋、板垣、三澤らが、堀尾と山中、羽栗が二度も(城兵らを)引きつけているのを見て、『我々がただでいられるものか。堀尾や山中と力を合わせねば。』と、近隣をうろついている誰彼を問わず、『毎度このように追い立てられて無念ではないか。引き返して日頃の鬱憤を晴らせ。』と励まし、自分たちが真っ先に進み出て、弓や鉄砲を持つ者を少々招集しながら、十余人を先頭に立てて、百人余りで堀尾と山中の後を追って走り来ていた。


この新たな寄手の軍勢には、近くを敗走していた味方も、我も我もと引き返して合流し、明石や櫛橋も加わったので、軍勢としての兵数に不足はなかった。


さて、堀尾、山中、春日部らは再び追い立てられ、重傷を負いながらも、なんとか退却を続けていた。


城の兵士らは、彼らを早くも捕縛したものと思い、『城の兵士がどんなに退却しても、一度追い払ってこそだ。』と、旗を揚げながら足軽を進めていた。彼らが走り進んでいくと、退却してくる城兵らが坂の途中でこちらを見上げていた。


彼らは(仲間との再会を)大いに喜び、もう少し進んでいった時、正義が武者である真嶋と川嶋に申した。


『敵の新手が追ってきている。二人とも手勢を連れて左右の岩間に伏せておけ。私が引き返すまでは立ち上がってはならぬ。敵を包囲して討ち取ろうではないか。』と、言い含めた。そのため、両名が左右に走り抜けると、彼らの従者はわずか十四、五人ばかりが引き分けられ、主と共に身を潜めることにした。


さて、明石と櫛橋の軍勢が坂の下まで追ってきた。


彼らは、敵との間は遠かったが、『鉄砲を撃ちかけろ。』と号令をかけたので、足軽たちは直ちに坂の下へ後退していき、敵から一町余り離れたところで鉄砲を撃ちかけた。


この場所は、本当に九十九折りの坂となった場所で、後退中の夜討ちの兵は、見えたり隠れたりはっきりとは分からなかった。


しかしながら、急に駆け付けてきた夜討ちの軍勢であったがために、件の鉄砲に当たって将棋倒しのように次々と倒れていった。


夜討ちの兵たちも、弓や鉄砲の弾薬が尽きており、敵の射撃を防ぐ術はなかった。


この時、次郎政直(佐用次郎)が近習の兵三十余人を引き連れて、甲斐甲斐しく殿しんがりを務めていらっしゃったが、ここにおいて数多の鉄砲にあたり、政直も鉄砲傷を負ってしまった。しかし、従者たちが一度で政直を引き返させ、どうと声を張り上げ、しころを傾け、鎧の袖を組み合わせ、散らばっていた兵士をかき集めて激しく敵勢に向かっていった。


第二陣にいた正義(早瀬帯刀)も、太鼓を打ち鳴らし、鬨の声を上げて引き返しながら戦ったため、木戸や土橋まで引き上げていた人々も、夜討ちの合図と見て、鬨の声をあげて兵士を引き返させた。


これによって、門矢倉、東西の隅矢倉、出塀などの守備を固めていた城兵が、法螺貝を吹き鳴らし、鐘や太鼓を打ち鳴らし、鬨の声を上げることが三度もあった。


その時の声は山や谷に非常に響き渡ったため、『城から大勢の兵士が討って出たのだ。』と理解し、明石や櫛橋の先頭に進んでいた足軽も、矢弾を絶やすことこそ無かったが、為す術なく、皆鉄砲を投げ捨てて逃げ去っていった。


後方の弓兵がわずかにいて、先頭の者たちと入れ替わろうとしたものの、先頭の足軽や弓を持つ者たちが明石や櫛橋の前備まえぞなえの兵に逃げ入ったために、軍全体が混乱してしまい、弓兵らも入れ替わろうとしたがそれも叶わなかった。


この機に、政直の精鋭兵二十余騎が、大長刀おおなぎなたの鉾を揃えて走り下り、正義の伏兵も、今その場に溜まり続けるのは無駄だと一度に立ち上がり、どうと叫んで討って出た。


このため、明石と櫛橋の先陣は、さらに大混乱に陥り一気に敗軍となった。


城兵の真嶋と川嶋が兵を進めて追討を始めたので、政直の兵も攻勢を続け、玉を押し付けるようにたちまちのうちに敵勢を追討してみせた。正義は、政直が重傷を負ったものと見て、郎党に介錯かいしゃくさせ、そのほか手負いの兵を指し添えて引かせた。


正義は、なおも坂中に留まって見届けようと控えていた。


その時、芳賀七郎左衛門尉と舟越安永寺が申し上げた。


『我々はこれから真嶋、川崎らと力を合わせましょう。早々に城内にお引きください。』と申したので、正義は『いやいや、私が今ここで引いてしまえば真嶋と川崎を見捨てることになる。先に敵勢を討たねばなるまい。』と返し、『兎にも角にもお引きください。』、『いやいや敵の殲滅が先である。』と問答しているところに、土橋の方角から、竹林と井口も加勢に走り下りてきた。


さらに、横山、丸山、早瀬、その他太田兄弟も、段々と坂の中まで加勢しようと前線へと下りてきた。正義(早瀬帯刀)はこの様子を見て、途中で彼らをその場に押し留めることにした。


さて、(寄手の)明石、櫛橋、春日部らは共同で、あちこちで引き返しながら城兵の攻勢を防いだ。敗走していく味方の兵を庇うため、城兵を引きつけようとして彼らも討たれそうに見えたが、家臣たちが取り囲んで、ようやくこの窮地を逃れたという。


この時の戦いにおいて、寄手側でも名のある武将として、神東西じんとうざいかけいという者が討ち取られたと伝わる。


こうして、帯刀正頓(早瀬帯刀正義)が鐘を鳴らすと、追撃していた城兵は、かねてからの合図と心得て、逃げる敵を追うのをやめて、段々と引いて城へと登っていった。


太田、早瀬、横山、林、丸山らの手勢から弓兵を分け出して、他の者たちが殿しんがりと入れ替わり、国府寺庄兵衛尉と芳賀兵衛尉が殿の大将として、百人余りを引き連れて(敵を)引きつけていった。攻め手に加勢する者もなく、各自無事に、正義、義祐をはじめとする諸将の軍勢は皆土橋や木戸の内へと引き上げることができた。


殿を務める国府寺、芳賀は土橋に控え、坂の上に逆茂木さかもぎなどを結い立たせて、木戸の内へと引き入れたところ、早くも夜が明けた。そうして次郎政直(佐用次郎)が重傷を負っていたために、木戸の内側で家臣らが介錯かいしゃくを入れたために、政直は間もなく意識を失われた。


惜しむべき人物であった。


政直と申す者は、城主政範の弟で新次郎と呼ばれていた。以前、政直は備前の浦上や宇喜多、安芸の吉川、小早川らが軍を発した時、播州勢と共に幾度も戦った。その戦いで西国の軍勢が勢いに乗じ、政直の一軍が味方の先鋒に加わり、弓矢の勢いを以って大軍を追撃し崩したことが度々あった。その力強さは孟賁もうほんに勝り、射術は后羿こうげいも欺くやと、山陰山陽で褒め称えられていた。


今回の籠城戦においても、寄手が城外に二、三町の距離にまで攻め寄せ、楯や竹把を立てて攻撃してきたことがある。その時、政直が遠矢を放つたび、矢は寄手の楯や竹把を貫通し、後ろに控えていた兵まで鎧や兜を射抜かれて死んでいき、その数は計り知れない。


嗚呼、なんとも惜しいことに、死生に命は有るというが、ついに討ち死にして果ててしまった。


その夜、討ち死にした城内の名のある人々は、太田先生則近、小林宇右衛門満末、鵜野彌太郎吉則、小馬新兵衛尉、下河原傳右衛門尉、林対馬守、その子息の次郎左衛門尉、横山藤五郎、浦上七郎兵衛尉、岡田半左衛門尉、山田彌右衛門、大谷新左衛門尉、衣笠虎松らがおり、これらを宗徒の人々として、政直を筆頭に、諸大将が十四名、その家臣は四百名余り、その足軽も大勢討たれたという。


この夜、寄手も大勢討たれ、傷を負う者が非常に多かった。


名のある者らでも、小寺、竹中、蜂須賀、掘、木村、櫛橋、山中をはじめ、深手を負わぬ者はおらず、全軍で討たれた者は七百人余りと記録されている。実際に大手からの攻め口から十町余りほどの間には、敵味方の死骸の山が築かれていた。


この場に至り、最早なにか打つ手は残されていなかった。『何を悲しみ、何を喜ぼうか』という心境であった。


昨日の夜、攻め手の諸大将をはじめ、下々の者までが秀吉卿から金銀米銭をそれぞれ大量に賜ったために、軍勢全体が行軍の疲れをたちまち忘れ、陣中の賑わいは大変なものであった。


しかし、その勇み進んで楽しんだのも一夜限りのことであった。


討ち死にした人々はどれほどいたであろうか。昨日、仲間とふざけて話したことでも、『明日からは攻め口から堀を巡らせ、堤などを築き、皆がそれぞれ故郷の国へ帰ろう』と、勇み誇っていた。


そうした声も、(一夜が明けた今となっては)もう何処にも無い。


本当に生死の区別もつかず、是非の判断もつかない夢の中に夢を見ているのが今の有様であると、討ち死にを逃れた人々が非常に心細く思われたと伝えられている。



※塙保己一版では、十二月十六日ノ夜太平城搦手合戦之事。書籍版の方が誤植している。

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