十四、寄手梯子を以て所々切岸登之事
同十二月九日、寄手側は再び雲霞の如く押し寄せ、二つの曲輪の正面には兵士らがひしめき合い、鉄砲を撃ちかけながら控えていた。
切岸の方には、以前から用意していた継ぎ梯子をいくつも持ってきて、真篦嶽のあちこちの切岸に立てかけ、これに取りついて登り、まるで数珠玉のようにつながって登っていく様子は、険しい山とはいえ、今にも乗り込んできそうに見えた。
だが、そうした継ぎ梯子の上から二丈ほど見上げると、前もって用意してあった熊手や打鉤をそれぞれの手の上帯に差しており、先頭の兵士たちはこれを抜き出して切岸に打ち立て、これに頼って登ろうとしていた。
しかし、この場所はすべて岩が滑らかで、熊手も打鉤も跳ね返されてしまい、食い込ませることができず、また、ある場所では湿気で土がやわらかく、掘っても足場にできず、思うようにはいかなかった。それゆえに、鉤や熊手も役に立たず、進退に窮した大勢の寄手がもだえ苦しみ、例の掛け梯子は掛け橋で、次々と強い風を受けてバラバラと崩れ落ちていく有様であった。
そのため、他所から見ている者ですら本当に心胆寒からしめられ、梯子の上に乗った者の心中を押し測り、『ただ静かに振り降りよ、ただ静かに降りよ。』という後陣からの声に応じて、手足の気力を失わせ、走り惑うだけだった。
城兵は寄手のこうした様子を見て、合図があったのだろう。
法螺貝を大きく鳴らし、一斉に鬨の声を上げ、敵の取りついた山の斜面から釣り下げてあった石弓を切り放った。それに加えて、出塀や渡塀の上から、大木を一咫(親指と中指を広げた長さ)ばかりに切り揃えたものを、数十本落としたところ、件の梯子に登っていた者たちの上に落下し、石、材木、梯子、人すべてが一度に巻き込まれて崖の下へ轟音と共に落ちていった。
これは前代未聞の出来事であった。
もともと崖の下にも大勢の兵士がひしめき合っていたが、上から落ちかかってきたものに巻き込まれて倒れ、さらにその上に重なって死んだ者の数は知れない。大手門、搦手門、矢倉、隅矢倉から同時に火矢を射かけると、攻め口の寄手の仕寄や竹束に火が燃えつき、一度に燃え上がってしまったので、寄手の騒動は尋常ではなく混乱した。
九つの城から鉄砲が撃ちかけられ、指矢を射出された。或る者はこれに当たり、或る者は皆で押し倒され、さらにその上に倒れ重なって死んだ者が多かった。
城兵は鬨の声を三度上げたが、城内からは討って出なかった。
その後は静まりかえり、物音一つせず、とにかく日は早くも暮れてしまった。
宵の口になり、月明かりを頼りに寄手の残党は東河原へ引き退くことができたが、その為体はなんとも情けない様子であった。
この日、秀吉卿は青野原の西尾崎へ出陣して陣を構えていらっしゃったが、寄手の負け戦ぶりをご覧になり、歯がみをしておられた。
味方の兵は算を乱して潰走し、仕寄や竹束は焼けて塵になり、(寄手の先陣と)入れ替わりに攻める利はない。そのため、まず川端へ兵を出して城内の敵を追い出し、川を渡らせたところを横合いから攻め入らせようと指示を出していらっしゃった。しかし、城からは討って出てくる様子が無かったため、(秀吉卿は)味方の諸大将のもとへ軍使を遣わし、敗軍の兵を集めて陣を張らせた。
敵がこの機に乗じて城から夜討ちを仕掛けてくるかもしれないとして、桑名、樋口、中條の三人を加勢として残し、秀吉卿は山脇へお帰りになった。
こうして桑名、樋口、中條の三人は、足軽や手下の者たちを引き連れて、青野原の正面に当たる川瀬の、手前にある河原の三か所に出陣し、わざと篝火も焚かず、物音を立てず、城兵らが夜討ちを仕掛けてくるのを待っていた。しかし相変わらず城兵は討って出る様子もなく、ほのかに東の空が白んでくる頃になって、それぞれの将は自軍の足軽を率いて、山脇の本陣へ帰って行ってしまった。(続群書類従版では脱字)
その頃、二位山、青野原、義泥崎の東と西の河原、形見山の東の山裾に身を寄せ合っていた寄手は、夜更けの山嵐や川風に強く吹き晒され、肌を引き裂くほどの寒さに眠れずに死んでいった者が数え切れない程となったために、このような時節に遭遇したことを嘆き悲しみ、戦友らと語り、(この様な策を用いた者を)罵っていた。
『この城の様子を思うに、昔、楠正成が千剣の城に籠もったとき、諸国の武士百万の兵が三か月余り攻めたが、城が強固で、寄手は連日連夜討ち死にする者が多く、攻め落とすこと叶わず、ついに退散したと聞いている。
また、赤松入道は、向こうに見える白幡山(白旗山)の城に籠もり、三千の兵をもって、新田義貞の六万余騎の昼夜を問わない五十日余りの城攻めを、城兵は一人も討たれることもなく、負けずに防ぎ戦ったために、寄手は連日連夜討たれて負傷する者が多く、結局攻めきれずに退いたという。
今のこの城のありさまは、あの千剣山や白幡山に劣るだろうか、いや劣るまい。それにまた、その円心(赤松円心)と今の城主は近しい血筋の一族である。郎党たちもまた代々伝わる家柄の者たちであり、兵法の扱いも規律も寸分違わぬ様子に思える。
今の状況では、味方がたとえ百倍の兵力で攻めても、到底落とすことなどできない場所なのだと、谷殿や堀尾殿が申していたように、攻めるべき場所を攻め、退くべき場所を見て退く。これこそ真に良い武将というものだ。
良将の戦略は、楠木正成や赤松円心が義貞く食らわした様に、今の上月の城主のごとく、いかに臨機応変に時勢に対応できるかどうかだ。
我らの味方の将はどうだろうか。ああ、ああ。今年はなんて酷い年なのだろうか。秋の半ばから師走の今に至るまで、命を落としていった兵士を数えると、およそ三千に及んでいる。その他にも、重傷を負って故郷に帰ってしまった兵の数は知れず、また、足軽や雑兵などのただ虚しく死んでいった者は数える暇すらない。
広いこの世界において、どこに父母が居らぬ者が居るだろうか。皆が手と手を取り合い、助け合いながら、互いの不遇の死を恐れている。どこにお互いを手足のように思わぬ兄弟が居て、どこにお互いを客人のように友人のように思わぬ夫婦が居るだろうか。(人は)何かの恩によって生まれ、何かの咎によって死んでいく。彼らの生き死にを、家族が聞くことも無ければ人が知ることもない。
あるいは、(自らの)将を信じよう(自らの)将を疑おう、という憂いの思いが、寝ても覚めても心から離れる事がない。
ああ、時勢なのか、それとも運命なのか。昔からこのようなものだというが、どうすればよいのだ。このような古い話を、ここ数年他人事としてばかり聞いていたが、今、(現実のものとなって)自分の身の上に起こっている。』
と、溜息を吐きながら囁き合っていた。
その翌日、秀吉卿は青野原に出陣していらっしゃり、諸大将を招集した。
『毎回、味方の利を失ってばかりいる事は、私の瑕瑾(優れた者にある惜しむべきわずかな欠点)だと思う。それゆえたとえ死を共にしてでもこの場所を退くべきではないと心に決めた。
しかし、今、兵士たちも疲れきっている。それならば一旦退き、後日の情勢変化に任せよう。とはいえ、軍勢をすべて引き上げてしまっては、宇喜多や毛利などの軍勢が押し寄せ、この城の攻略することが難しくなる。だからこそ、諸大将の中から二、三人だけを残して、この城を守らせねばならない。
まず足軽人夫を用いて、曲輪の前面、両側の攻め口から一町ばかり手前を堀り切らせ上げ、士(侍)をもちいてこちら側に堤を築け。その堤の上に竹束を置き、これに鉄砲を構えさせて昼夜交代で番をして守らせよ。このようにして城の者どもが外に漏れ出ないように固く閉ざしてやれ。その堀と堤が出来上がった時に、この場所に残しとどめるべき者を申し付けよう。
それまでは私もここに居る。共に普請(土木工事)を急ごうではないか。各々精を出せ。
これは、それぞれ当座の引き出物である。寒風をも防げるようにと、紙子の綿布を下さり、金子十両と米百俵も、諸大将に御自らお与えになった。その他の外様の面々には、浅野(長吉)の前に目録を積み重ね、五人十人ずつと呼び出して、足軽や雑兵たちに至るまで全員にこれを下さったので、身分を問わず有難く思い、その場を後にしていった。
陣営の士気は盛んになり、勇気は増すばかりである。本当に素晴らしい計らいだと聞いている。
そうした計らいによって、昨日までも今日までも、自分たちの主君を恨み、我が身を嘆き、意気消沈していた軍勢であっても、今やどのような鬼や神にでも出会えと豪語するほどに血気盛んになっていた。
まさに、『主君の一日の恩に我が身百年の命を捧げて報いる。』とは、こんな時のための言葉であると思い知らされる。
こうして、谷大膳と堀尾茂助の二人には、
『この間は、渓谷や峰に苦労をかけさせられた。あの谷は険しいので、この攻め口に(城兵らの襲撃が)漏れ落ちてくることはないだろうが、手配りがなければ叶わない。二人には以前の寄場へ帰って欲しい。手勢の者一、二人を残し、あの足軽たちを呼び集めて、遠くから見張らせ、夜にはあちこちに手配りをして城の背後を守るように。』
と、秀吉卿がお命じになられたので、二人は承諾した。
渓間へは、久徳、小嶋、懸樋、藤岡に弓や鉄砲を持った足軽六十人ほどを付けて遣わした。彼らも同じ日の夕方、また以前の谷間へ歩き越え、城の背後の西方にある谷の入り口に兵を分けて配置させていた。
それから切り木を寄せ、谷間に五十余間の柵を結び、その柵の外側の山陰の両方の入り口に陣屋を設け、一晩中、猪ノ谷から二つの大嶽の麓にある沼の外側を巡回させることにした。堀尾茂助と山中鹿之助も搦手に加勢し、普請を急ぐようにと仰せつけられた。
こうして秀吉は、その日の夕方、山脇の陣へとお帰りになられたのだった。




