十、福原城攻め落とすの事
こうして二日が過ぎたが、寄手の諸大将が集まり、これまでの失敗を悔やんだり残念だと嘆いたりする者はいなかった。
『この城がたとえ鉄壁であっても攻め破れないはずはない。何度でも仕寄や竹把を支度させて攻め寄せ、防ぐ暇を与えなければ、必ず城の中に攻め入ることができるだろう。』と、決意を一つにして、仕寄、竹束などの準備するように皆で話し合った。
これによって兵士たちの中にも、『臆病神よ鎮まりたまえ。攻め入って討ち死にすれば、その名は子孫の誇りとなる。無駄死することこそ不名誉なことだ。』と勇んで進み出る者が出始めた。諸大将はこうした言葉に力を得て、『各自一枚盾を用意せよ。』と号令をかけたので、ざわめき立ち、外様の者たちの中には、『これはまた無謀な強引な攻め方ではないか。哀れな作戦だ。』とぶつぶつ言いながら、動こうとしない者も多かった。
とにかく陣営の人々は、それぞれ勝手な考えで心が一つにならないのは頼りないことである。
このようにして福原藤馬允の城を、小寺や竹中、明石、梶原、その他の播磨国人たちも協力して、ここでも昼夜を問わず城を攻め立てた。しかし、城は名も誉れも有る堅固な要害で城を守る兵士も多かったので、寄手は毎度打ち負かされ、死者の数は数えきれないほどになった。
今となっては、寄手は向城(攻城中の城の対面に作られる簡易式の砦)に退却し、遠距離からの攻撃するだけとなり、城からはさっと夜襲を仕掛けてくるので、防ぎきれずに疲れ果てていた。
『全く情けないことだ。そもそも兵法において策略を最も重要なものだ。それなのに、最初から我々は血気に任せるだけで、諸大将同士が相談しようとせず、各自の考えで心を一つにしようとしなかった。ただひたすらに力攻めをしただけだ。城の方はもともと要害堅固で、相手の兵士たちは代々伝わる家来たちである。(福原城の軍勢は、今回の播磨遠征の)軍勢を我が事の一大事だと受け止めて、皆が心を一つにし、敵の不意を突こうと昼夜を問わず懸命に防戦している。そのため寄手は毎回多くの討ち死にが出て、痛手を受けて、攻めきれないようにも思える。』
そうしたある十一月三十日の晩、福原城を攻めている者たちの中で、伝令として配属されていた桑名と樋口の二人が山脇の本陣に駆け戻って報告した。
『福原城は強く、味方の大勢が討ち取られ、今では攻める兵力も少なく、しかも疲弊しております。味方の援軍をいただかなければ城を落とすことは難しいでしょう。』
と伝えたところ、秀吉卿はこれを聞き、
『どうして福原の城が強いからといって、策略で落とせないことがあろうか。遠巻きにするだけでは攻略できまい。昼夜を問わず攻め続けるべきだ。』
と仰せになり、機嫌を損ねてしまったので、二人はどうすることもできずに退出していった。
さて、先日、宇喜多勢が攻めて来た時、宇喜多勢の背後に回り込んで挟み撃ちにするべきだと考え、先陣となった蜂須賀は、去る二十日の早朝、山脇を出発して下郡、竹間越へ向かっていた。
しかし、宇喜多勢の後方から脅かし、追いかけて挟み撃ちにしようと出陣したところ、この道筋は大酒という場所から赤松という場所までは山が突き出た細道の難所が続くため、あちらこちらで苦労し、馬から降りて馬を牽いたり、あるいは腰を押したり手を引いたりして、険しい峰を越えて谷の下り坂を越えいかなければならなかった。
そうして、心は急いでいたが、山道で日が暮れてしまい、各自がその場で陣を敷くしかなかった。
このため、古赤松の里山での合戦には間に合わず、(蜂須賀は)虚しく帰陣したことを残念に思っていたという。
秀吉卿がこのことを内々に聞きつけると、すぐに蜂須賀を呼びつけ、『福原城を攻める兵士たちに加勢し、策略を巡らせて攻め落とすべきだ。』と仰せになったので、蜂須賀は恐れ多いことだと返事をして承諾した。
翌日の早朝、蜂須賀は二位山の陣を出発し、わざと福原城の搦手に回り、明石、梶原、樋口らと打ち合わせをして、大手に向かっていた小寺、竹中、桑名の方にも使者を送り、城を落とすための評議を重ね、
『自分は城の西北にある山手から攻め寄せ、竹把を持って押し寄せて、鉄砲を撃たせ、弓矢を射させた。鬨の声を上げて大声で城内に乗り込もうと攻めかかってみせよう。』
と、提案してみせた。
大手側も蜂須賀に言葉に力を得て、仕寄や竹束を隙間なく持ち場に並べて埋め尽くし、遠方から矢を射かけ、鉄砲を撃ちかけて攻め立てた。
しかし、この城は要害堅固で、弓や鉄砲の腕の立つ者も居り、隙間を見つけては正確無比な狙撃をしてきたため、大手と搦手の寄手はまたも大勢が討たれ、負傷者も非常に多く出してしまい、寄手は力攻めでは攻め落とせないと判断して、攻撃口からは兵を退かせ、士卒を休ませた。
その後、寄手は一息入れてはまた攻めかかるといった波状攻撃を繰り返した。
しかし、城兵らは一人も討たれず、疲労の色も見せなかったので、逆に寄手の方がうんざりして攻めあぐねていた。それに対して、城兵は、敵が攻勢に出ればぴたりと防ぎ、敵が退けば打ち破られた場所の要害を補修し、石や材木を運び入れて、敵軍が乗り込もうとする場所の防御を固め、貝や鐘、大太鼓を打ち鳴らして、士卒を励ましながら防戦してみせた。
それゆえ、福原と上月の二つの城は寄手の手に余る状態であると噂されていたので、浅野(浅野長政)と宮部(宮部継潤)の二人が、秀吉卿に申し上げた。
『上月と福原の両城は、要衝にある山城で攻めるには利がありません。味方の兵も多くが失われております。このまま、今までの如く力攻めを続けるのであれば、すぐにでも攻め落さない限り、かえって味方の兵士は疲弊するだけで御座います。お願いで御座いますから、今はただ、城内から一人も漏れ出さないよう攻め口を少し後退させ、鉄砲を持った足軽を配備し、諸大将のうち三、四人のみを残して守らせ、総軍を率いて国府へ一度退却したしましょう。敵や要害が原因で御座います。急に攻めるのではなく、包囲して攻め上げる方法もあるはずで御座います。
そう決まれば、私どもがまずここに残り、敵がどこへ向かおうとも正面から立ち向かいます。今すぐにでも二、三人をおつけください』
と勇んで申し上げた。
秀吉卿がおっしゃったのは、
『二人の意見は感心な事であり、誠に喜ばしい。しかし、このまま遠巻きにして城が疲弊するのを待つのは、あまりにも無駄である。その上、味方につこうとしている国人たちが心変わりをするかも知れぬ。また、他国から援軍が来た時に後悔しても無益であろう。このことを思うがゆえに、たとえこの場所で命を落としても、退くことは許可できない。紅葉が散ってしまった大山でも花の盛りを見て心を慰めることができるように、松や楢柴を折って寒さをしのぎ、春までここに長陣すると考えよ。』
と、事もなげに仰せになったので、二人も不機嫌に思いながらも頭を下げてその場を離れた。
この話が諸軍勢に伝わると、『なんと情け容赦のない命令だ。和をもって強を制する方法も知らないとは、全くもって残念なことだ。』と嘆く者が多かった。
実際、上方や東海道、南海道から遥々付き従ってきた兵たちが無駄に命を落とすことになれば、その罪は一人の将に帰することになる。将の身の上はどうなることか、と心配する者も心配しない者も、眉をひそめない者はいなかった。
そうしたところ、福原の城が攻め落とされたと、小寺と蜂須賀の陣から早馬に乗った秀吉卿の軍使がやってきた。
秀吉卿は三人の使者を近くに呼び寄せ、その様子を直接尋ねさせた。
使者が申し上げたのは、
『先頃、蜂須賀が加勢して以来、搦手から鉄砲を撃ちかけ、休むことなく昼夜攻撃を仕掛けました。そのため、城中はこぞってこれを防ぎ、特に矢を放ち鉄砲を頻繁に撃ち返してきましたので、寄手に死傷者が大勢出ました。互いにここを防ぎ、守りを固めておりましたところ、遂に城中の矢種と弾薬が尽きまして御座います。すると蜂須賀は勝機に乗じて、さらに厳しく鉄砲を撃たせました。そのため城中の者たちは、搦手に皆で走り寄り、竹束や土嚢、板などを集めて木戸を固めて防衛しましたので、大手門を守る兵士たちが疎かになったように見えました。その時、小寺の精鋭三十騎ほどが大手の橋近くに馬を走り寄らせ、城中の兵士たちを冷たく見下したような荒々しい言葉で罵り、味方の兵士を叱咤激励したかと思うと、わざとゆっくりと騎兵を後退させました。ちょうどその時、藤右馬允が大手の矢倉におりまして、彼は元来、血気盛んな勇者だったため、近くにいた兵士三十人を呼び集め、門を開けて走り出て、後退する小寺勢に戻って来いと呼びかけ、疾風のように追いかけました。小寺勢ははこれを見て、わざと馬を一か所で踊らせ半町ほど彼らを誘い込みました。そうこうしているうちに、福原城が間近になり、その瞬間、小寺勢は声を揃えて、おう、と叫び、引き返して、四方八方に兵を分散させ、槍や長刀を馬の右の口元に突きつけながら襲いかかりました。
福原の郎党も、代々仕えている家臣たち、特に福原(福原藤右馬允)に劣らないほどの力がある年頃の二十八人を近習として召し集め、普段から力比べや相撲を好んでいた彼らが、今だとばかりに、鉄棒や手鉾、大長刀を持って走り来て、敵(小寺勢)の馬の首筋や関節など、当たれば幸いだというように伏せて走り抜けてきました。小寺の騎兵は、敵が進んでくれば手綱を繰りてすれ違わせ、敵が走り抜ければ追撃を仕掛け、縦横無尽、八面六臂に切り回りまして、正面から小寺の軍勢を相手しようとする者はおりませんでした。
こうして城の中から我も我もと打って出ると、寄手もここぞと集まり、敵味方が入り乱れました。北へ追いやられれば南へ追いやり返され、西へ靡いたかと思えば東へ崩れ、千騎がたった一騎になるまで互いに引き退くまいと励まし合いました。戦いが続くうちに、両陣営で討たれた者の数は分かりません。
そうした状況で、まだ勝敗が決しないところへ、竹中と桑名がこの戦場を放置して、騎馬兵十四、五騎に弓鉄砲足軽を多く連れて、城の大手橋のたもとへ馳せ寄りました。そこで弓と鉄砲を構え、藤右馬允が引き返してきたところを、討ち取ってしまおうと手筈を整えました。
それから騎馬兵や歩兵の士を城内へ送り込み、出くわした者を射伏せたり突き伏せたり、あるいは生け捕りにしたりしました。降参する者は、すぐに刀や脇指を取り上げました。こうして城内を荒らし回りますと、竹中、桑名、英積、中桐らは大手橋の上に控えておりましたが、それぞれ鞍の上高く立ち上がり、口々に声を張り上げて、この城、竹中、桑名、英積、中桐らが早々に攻め取ったぞ、と大音声で喚き立てました。
藤右馬允は遠くからこれを聞き、樊噲(漢の時代の英雄。剛勇で忠義深い人物として知られていた)のように勇んだ心もたちまち萎え、太刀を打つ力も弱り果てました。福原の郎党は城へと引き返すこと叶わず、最早ここまでかと思ったのでしょう。それでもなお、小寺勢を目がけて、大勢の敵兵の中を打ち破り、打ち破っては斬り回るうちに、福原が頼りにしていた家臣たちがほとんど討たれてしまい、福原はただの独りの武者となり、敵を防ぎ戦っておりましたが、ついに小寺の手にかかり、槍に貫かれて討ち取られました。
福原の家臣の中からは、依藤弥七郎と中吉新右衛門尉という者が名乗りを上げ、鉄棒を杖にして突撃し、たった二人立ち並んで敵を欺いて呼びかけ、しばらく休息を取っておる様子でしたが、彼らに打ち取られた者の数はどれほどかは分かりません。
このため、あえて近くに攻め寄せてくる敵も居らず、「二人だけで、今一度戦場に出撃してやろう」と思っておりましたが、「冥途に赴く我々の罪深さも驚嘆せよ」と、最早これが最後だと覚悟したのか、鉄棒を投げ捨て、互いの槍で刺し違えて死んでしまわれました。
ああ、実に惜しく、なんと勇ましいことか。武士の誉れとして、手柄を立てるべき者たちでありました。しかしながら、これらの人々が西播磨において広く知られていれば、(二人の)名誉と引き換えに、命を惜しむという人はいなかったでしょう。
搦手からは、蜂須賀、明石、樋口、梶原らが同時に搦手の木戸を打ち破って乱入し、屋形(館)に入りますれば、男と見れば幼い子どもまで奪い捕らえ、刺し殺しました。そのとき、藤右馬允の奥方と見られる女性が、赤い腹巻を着け、長い髪を振り乱し、白い鉢巻をして長刀を振るって出てきました。乳母や女房(侍女)が二、三人、弓や槍、長刀を携えて先に進み、局(部屋)に押し入ろうとする敵を七、八人まで射殺したり、突き伏せたりしました。
寄手(攻め手)は歯が立たず退却したので、女性たちはその隙にさっと奥の間に引き入りましたが、ついに皆自害してしまったとのことです。誠に立派な最期でした。
このほか、女性が何人か見えましたが、それらは放置して外へ出ました。大手から乱入した寄せ手と一緒になり、屋形(館)の前に人数を集め、一同に勝鬨を三度上げて止めました。』
と、報告すると、秀吉卿(豊吉秀吉)は次第に詳しく報告を聞き、並々ならぬ思いだと仰せられ、まず使者三人に、その場で引き出物を与え、
『しばらく城中に残って待機せよ。ここから次の命令があるだろう。』と仰って、使者を帰らせた。
その後、評議があって、福原の城跡には、諸大将の兵士と足軽を分けて駐屯させ、桑名、樋口に加勢する者たちを加えて、在番を仰せつけ、小寺、竹中、蜂須賀、明石、梶原、英積らに『山脇の本陣に参上せよ。』との軍使が遣わされたので、その翌日の昼には、それぞれ兵を引き連れて、山脇の陣に加わったという。




