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与えられたもの

 この季節にしてはやや強い日差しが照りつけ、私の頬に汗が伝う。時刻は正午を少し過ぎたあたりだろうか。暑さに耐えつつ歩を進めていた私たちの前に、ようやく街の影が姿を現した。

 山を切り開いた斜面に石造りの家々が並んでおり、周囲は木製の城壁で囲まれている。


「もうすぐだよ」


 私は足を止めて、手をかざして示す。

 ルナは少しだけ息を乱しながらも、顔を上げた。

 疲れの色は濃いが目的地が目前にあると知って、表情にはかすかな明るさが差していた。


「あの街の外れにある林の奥に、私の知っている孤児院があるんだ」


「ずいぶん詳しいみたいですけど、行ったことあるんですか?」


 ルナの問いを受けて、視線の先に見える街を眺めながら、ゆっくりと記憶の底をたどる。


 ――四つの頃、私は母を病で亡くした。生まれてからずっと母とふたりきりだった私には他に身寄りもなく、気づいたときにはあの孤児院で暮らすことになっていた。それから十年。私はあの場所で日々を過ごした。身を立てた今でも、折りにふれて訪れている場所だ。

 その話を聞いても、ルナは特に詮索をしなかった。

 ただ静かに「そうだったんですね」とだけ呟いた。声は優しく、目はどこか遠くを見るように揺れていた。






 街の中は人であふれていた。国でも指折りの大都市だけあって街全体がどこか熱を帯びているようだった。人々は皆、活気と胆力に満ち、足早に行き交っている。

 なかでも中心部の市場はとりわけ熱気に包まれており、注意しなければ前に進むのもままならないほどの混雑ぶりだった。

 隣を歩くルナも人の波に圧倒されているようで、驚きを隠せない様子だった。


 市場には人々の欲望を満たすあらゆるものが並んでいた。食料品や日用品を売る屋台、色鮮やかな民族衣装の露店、そして宝石を扱う商人たち――。

 私の目を引くものもいくつかあった。とりわけ目を奪われたのは農具の専門店だ。

 そこにあったのは立派な鉄製のくわ。あれがあったら農作業もずいぶん捗ることだろう。その重厚な造形美にも心を惹かれるものがある。

 あいにく今は手持ちがないため買うことはできなかったが、眺めているだけでも、不思議とどこか満たされる気がした。

 私はつい吸い寄せられるように歩を進めていた――ふと我に返って隣を見やると、そこにルナの姿はなかった。

 しまった。どうやらはぐれてしまったようだ。


 あたりを見回すが、人の波に紛れてルナの気配すら見つからない。「おーい。ルナ」と何度か呼びかけてみたが、返事は返ってこない。

 どうしたものかと足を止め、思案していると――


「こんなところで会うとは奇遇だな」


 と、不意に声をかけられた。振り返ると、そこには短い銀髪を風になびかせた甲冑姿の男が立っていた。かつて戦場を共にしたあの頃のまま――少しも変わっていないように見えた。


「久しいな。ノーレ」


 私は数年ぶりに、その名を呼んだ。


「お前も相変わらずのようだな。アルテ」


「今日はどうしたんだ?見たところ非番というわけでもないだろう」


 騎士といえど、休みに甲冑姿で出歩く殊勝な者はそうはいない。


「ただの野暮用だ。お前は買い物か?」


「いや、たまたま通りかかっただけさ」


「そうか……」


 ノーレはそこで言葉を切り、どこか懐かしむような目をした。そして、少しの沈黙ののち静かに口を開く。


「こうして話していると、あの頃を思い出すよ。共に死線をくぐり抜けたあの日々を」


「なあアルテ。お前は戦場で誰よりも輝いていた……また戻る気はないか?」


 何度となく向けられてきたその問いに、私は目を伏せるしかなかった。

 風が吹き抜ける。喧騒に包まれた市場の中で、時間だけが一瞬、静かに止まったような気がした。


「……すまない。……それは、できない」


 ノーレはふんと鼻を鳴らし、言葉を鋭く重ねてくる。


「聞いていた通りだな。お前はそうやって戦場から逃げ続けている。だというのに、剣は捨てていない。今なおその力を振るっていると聞く」


 彼の視線が、腰に差した私の剣に注がれる。


「お前のその中途半端な態度が、皆の不満を煽っている」


 胸の奥がきしむように痛んだ。


「……すまない」


 なんとか声を振り絞り出てきたのは、頼りない謝罪の言葉だけだった。


「アルテシアさん!」


 幼くもはっきりとした声が響く。

 はっとして顔を上げると、目の前にはルナがいた。

 困惑をにじませながらも、まっすぐな眼差しで、私とノーレとを交互に見つめていた。

 ルナは心配そうに私を見つめたあと、その視線を鋭くノーレへと向けた。


 その眼差しを受けて、ノーレはわずかに目を細め、穏やかに、しかし毅然と応じる。


「そんな怖い顔をするのはやめてくれないか。お嬢さん」


「あなたが何に怒っているのか知りませんけど、アルテシアさんにひどいことを言うのはやめてください」


 その声には怯えも迷いもなかった。ただまっすぐな言葉だった。


「私はただ、彼女に戦場に復帰してほしいだけだ。皆それを望んでいる」


「それって、あなたが勝手にそう思ってるだけでしょ。それを決めるのはアルテシアさんです。誰かに非難されるいわれなんて、ない!」


 力強いその声が市場に響いた。燃えるような熱がそこにはあった。


「――そいつは違うなお嬢さん」


 ノーレはゆっくりと息を吐いた。


「力ある者には、その力を正しく行使する義務がある。アルテの戦いの才は、ごく一部の者にのみ与えられた特別なものだ」


 語気は穏やかだったが、言葉のひとつひとつには重みがあった。


「彼女が戦わずとも、戦争はなくならない。代わりに誰かが血を流す。才能を持ちながら、戦場から逃げている彼女の方こそよっぽど身勝手だと私は思うがね」


 ルナはノーレを睨みつけたまま、なおも言葉を探していた。けれど、唇は動くものの、その先が続かなかった。


「……変わってしまったようで残念だ」


 そう呟くとノーレはそれ以上何も言わず雑踏の中に消えていった。


 彼が立ち去ったあとも、彼の言葉は私の胸の奥で反響し続ける。ひとつ響くたびに、鋭くも鈍い痛みとなって、私の心を締めつける。


「……大丈夫ですか?すごく、辛そうです」


 ルナが不安そうに、私を見上げる。


 私はなんとか顔を上げ、「大丈夫だ」とだけ言った。

 けれど全身に滲む汗、乱れた息、胸の奥に残る鈍い痛み――

 そんな私が、大丈夫に見えるはずはなかっただろう。


「どこか、休める場所に行きましょう」





 喧騒を避けるようにして人波を抜けた私たちがたどり着いたのは、路地裏にひっそりと佇む小さな茶屋だった。

 木の椅子に腰を下ろし、私はひとつ深く息を吸う。胸の奥で燻る何かを静めるように、ゆっくりと吐き出した。

 ほどなくして運ばれてきた湯気の立つお茶に口をつける。けれど乱れた呼吸はまだ整わず、胸の痛みも響くのをやめない。


 ふいに、隣りに座るルナがそっと距離を詰めてきた。触れそうなほどの近さで私を見上げ、静かに口を開く。


「……あの人の言っていたこと、私にはよく分かりません。アルテシアさんに何があったのかも」


 ルナの瞳はどこまでも澄んでいて、迷いなくまっすぐだった。


「でも――こうして、そばにいてあげることはできます」


 見上げてくるその瞳に射抜かれるようで、私は思わず息を呑んだ。


 頬が熱い。

 これは、きっと――暑さのせいだ。


「お触りはだめですからね……」


 そう言って、顔をふいと背けるルナ。

 その小さな照れ隠しに、私は思わず微笑んでしまう。

 だが次の瞬間、そっと私の手に、小さな手が重ねられた。

 その手はやがて指先を絡めるように、優しく――ぎゅっと、私の手を握る。


「……手くらいなら繋いでいてあげます」


 顔をそらしたまま、ルナがぽつりと呟く。


 その温かな手のひらから伝わる体温が、私の胸を静かに満たしていく。

 その細い指先にこめられるささやかな力が、私のこわばった心をほどいていく。


 ――こんなにも安心したのは、いったい何年ぶりだろう。


 私は目をつぶり、ただそっと「ありがとう」と感謝の言葉を口にした。

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