代償
不意に雲間から日差しがこぼれ、白い光が目を刺した。やわらかな秋の昼の光すら、今は鬱陶しく感じてしまう。きっと気持ちに余裕がないのだろう。
一人で飲むスープはほとんど味がしなかった。こんなことをしていていいのか。
そう思いながらも、私はスプーンを動かす。罪悪感と焦りが、ぬるい湯気の向こうにぼやけていた。
黒猫の事件から三日が過ぎた。事件が終結してから、ルナはずっと眠り続けている。三日間、一度も目を開けていない。呼吸も脈も整っている。熱もない。病気には見えないのに、目を覚ます気配がない。
雲が日を隠し、部屋はふたたび陰に沈んだ。ふと空の様子が気になり、窓の外に目をやると――そこには異質なものがあった。
白い少年の形が見える。窓の外からこちらを見つめるように髪も肌も服までも白に包まれた小さな人影が不敵な笑みを浮かべている。遠目にも整った顔立ちをした美少年であることが分かる。しかし、彼を形容する言葉があるとしたら、それはやはり異質が適切だろう。そこにあるだけで感じる違和感。断言してもいい。あれは人間ではない。私の直感がそう告げている。彼と周囲の世界の間に大きな溝があるような、まるで別次元の存在が無理やり世界の法則を捻じ曲げて存在しているかのような、そんな異質さだった。
「こんにちは。はじめましてだね。月の巫女の保護者さん」
窓の外から透き通った声が響く。その瞬間、頭の中で警報が鳴り響く。私の理性が危険を知らせる。だが、身体は動かない。いや、正確に言うなら動かす気にならなかった。この存在を前にして戦う気など最初から起きなかった。数多の死線をくぐってきた私だが、こんな感覚ははじめてだった。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。僕に敵意はない。僕は今代の月の巫女との友好を結びに来た」
――月の巫女。聞き慣れない単語が、脳の中でやけに反響する。
月の巫女。月の巫女。月の……巫女。彼は確かにそう言った。そして、その“保護者”が私だと。保護者。どうにも語感がしっくりこない。だが、否定もできない。今の私の立場を外から見れば、確かにそうなのだろう。他でもない――ルナの保護者。つまり、彼の言う月の巫女とはルナのことだろう。
「やはり事情をあまり知らないみたいだね。聞いていた通りだ」
白い少年が、淡々と言う。
「見たところ、ルナを訪ねに来てくれたようだけど――生憎、彼女は今、体調を崩している。直接話したいなら日を改めてくれ。伝言があるなら、私が伝えておく」
沈黙。風が、少年の白い髪を動かした。
風に揺られながら彼は笑っていた。相変わらず、感情を伴わない笑みで。
笑っているのに、何も楽しくなさそうな笑みで。
「知っている。使いの者から事情は聞いているよ。僕は今日、君に会いに来たんだ。月の巫女の保護者さん」
「アルテシアだ」
「……アルテシア。うん。確か、そんな名前だったね」
少年は軽く頷き、目を細めた。何気ない仕草だが、その所作にはどことなく気品が感じられた。
「僕はライプニル。竜の王子だ」
――――竜の王子。 白い少年は、自らをそう名乗った。ああ、そうなのだろう。不思議と驚きはなく、納得していた。まず人間ではありえないその超然とした存在。竜と言われてなるほどと得心がいった。
「それで、竜の王子が私に一体なんの用なのかな」
「ただの挨拶だよ。もう用事はほとんど終わっている。ただまあ、もう少しだけ――僕とそして月の巫女のことを君に話しておいたほうがいいだろう」
ライプニルは少し上を見て、そして再び視線を私に戻し、語り始めた。
「僕たち白き竜の一族と、月の巫女の一族は――遠い昔から、親交があるんだよ」
ライプニルは空を見上げるように言った。
「巫女の先祖が僕たちの先祖を助けたことから交流は始まったらしい。詳しいことは知らないけどね。それ以来、僕らと彼らは互いに助け合ってきた。僕らは力で争いを鎮め、彼らは巫女として魂を導いた」
――魂を導いた。その言葉を聞いてルナの不思議な力のことを思い出す。彷徨える思念の声を聞き、あの白い光で全てを包み込んだ――あの猫の街の夜を。
「君は、もう目にしたんだったね」
ライプニルが私の心の動きを見透かしたように言う。
「そう。あの猫の街で起こったこと――あれが巫女による“魂の導き”だよ」
彼は微笑んで、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「巫女の一族には、特別な力がある。万物の声を聞き、伝える力。そして、魂を浄化し、導く能力。
あの少女――ルナ、と言ったかな。彼女が振るった力も、それだ」
ライプニルは一拍置き、ほんの少し目を伏せた。
「そして彼女が今、眠っている理由も――まさにそれだ」
眠っている理由。原因不明の意識の昏睡。それが力を振るったことによるものだとライプニルは言った。
「力には代償が伴うものだ。とりわけ、巫女の声を聞く能力は大きな代償を必要とする。彷徨える魂の声を聞く――それが、どれほど巫女の精神に影響を及ぼすと思う?
どれほどの痛みを伴うと思う?」
僕ならそんな苦行はごめんだねと静かに呟いて、目を伏せた。
――――痛み。
あの街で彼らの声を聞いたルナ。ああ、私はなぜ想像しなかったのだろう。それがどれほど彼女の小さな身体を締めつけ、どんな跡を残したのかを。
「……ライプニル。ルナの痛みを少しでも和らげる方法を知っていたら教えてくれないか?」
私の問いに、ライプニルは静かに微笑んだ。まるで、その言葉を待っていたかのように。
「うん。僕が来たのは、それを伝えるためでもある」
そう言って、彼はゆっくりと袖の奥から小包を取り出した。
「薬草だよ」
彼はそれを掲げ、穏やかに言った。
「これで――少しは良くなるはずだよ」
私は窓を開けて、その包みを受け取り、竜の少年に礼を言った。
「ありがとう。ライプニル」
「うん」
ライプニルは短く返し、わずかに口元を緩めた。
「ところで、君に頼みごとがあるんだけど良いかな。仕事の依頼だよ。君たちにとっても仕事があるのは好都合だろう?」
ライプニルは何もかもを見通すように言う。
「この薬草は、採れる場所が少ないんだ。でも最近、森の奥で自生しているのを見つけてね。ところが――その場所には、少し厄介なものがあって」
彼の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「それを、片付けてほしいんだ」
片付ける、という言葉に不穏なものを感じ、問い返す
「私は人を斬る依頼は受けないことにしている」
「人じゃない。何ならそれは生き物ですら無いよ」
ライプニルはまた不敵に笑って、私の手の中にある包みに目をやった。
「別にこの依頼は断ってくれても良い。ただ、君がこの仕事を片付けてくれたら、それの調達もしやすくなる。君にとっても望ましいことじゃないかな?」
薬草をもらった手前、依頼を無碍にするわけにもいかず、私は答えに窮する。
ライプニルは、私の沈黙を了承と受け取ったのだろう。
「十日後に、使いの者を送る。詳細は――そのとき伝えさせるよ」
そう言って、彼はゆっくりと私に背を向けたかと思うと、次の瞬間には姿が消えていた。
***
ベッドで眠るルナの横で私は彼女の手を優しく包み込んでいた。意味があるとは思えない気休めの行為。この三日間、私ができたのはそんなことくらいだった。
昼にライプニルからもらった薬草を飲ませてから、どれくらい経っただろう。私はふと、その効果に疑いを抱き始めていた。
――その時。
握っていた手が、ぴくりと動いた。
「アルテ……シアさん」
ルナはゆっくりと目を開け、私の名を呼んだ。
「…………やっと起きたか。目覚めはどうだい?」
心配を悟られないように努めて軽薄に、まるで何でもないことのように声をかけた。
「変な夢を見ていました。暗い。どこまでも続く暗い中を歩く夢。すごく冷たくて、すごく不安で、窮屈な場所でした。でも――」
ルナは私を見上げて、にっこりと微笑んだ。
「手のひらだけは、不思議と温かかったんです。優しい気持ちに包まれて……だから、歩いていられた」
ルナは私の手に目を落とし、そして言った。
「ありがとう」
その一言に、胸の奥が静かに波立つ。
何を返せばいいのか分からない。だから私は、そっと彼女に顔を寄せて、黒髪を指でなでながら、呟いた。
誰もが知っている、挨拶を。
「――おかえり」




