月の天使
獣はこちらを一瞥したかと思うと、ゆっくりと街の方へと体を向けた。まるで、戦うべき相手は他にいるとでも言うように、私に気を向けない。
このまま見過ごせば、この獣は憎しみの牙で街を蹂躙することだろう。私は街への道を塞ぐように立ち、剣を構えた。
「……クロ。聞こえているんだろう」
「…………ああ。聞こえている。見えてもいる」
この獣からは、確かな理性が感じられた。以前のように闇雲に周囲を破壊するのではなく、明確な意思をもって、復讐すべき相手を見定めている。
その理性は、知性は――何より、その瞳はクロのものだった。
「これがお前の望みか? 憎しみに身を委ねはしないと、そう語っていたはずだろう」
「これもまた吾輩の意思であり、望みだ。憎しみに染まらんとする高潔さも、同胞たちの無念を晴らさんと復讐心も吾輩の中にある。どちらも本物――それらは常にゆらぎ、ぼんやりとした霧の中にある」
淡々とクロは語った。冷静かつ理知的に――己の中に復讐の心があったと。あの高潔な猫の胸の内には、きっと最初から憎しみが渦巻いていたのだろう。どう声をかけようかと逡巡していると、ルナが叫んだ。
「クロさん! 思い出して! あの女性のことを――毎日ミルクをくれた人のことを! 彼女はあなたを、他の猫たちと同じように撫でてくれた。あなたが来るのを、明日も待っているんです!」
クロは少し考えるように間を置いてから、静かに口を開いた。
「今でも、しっかり覚えている。確かに、あの主人がくれたミルクは温かさをくれた。だが――我輩たちは、一つ良いことがあったからといって、百の不条理を忘れることはできない」
その言葉に私たちはなにも言い返すことができなかった。クロたちの復讐には、ある程度正当性があることを私は理解していた。
それでも――見過ごすわけにはいかない。
この剣に大義はないかもしれない。けれど、それでも。
私は静かに覚悟を決めた。
「――クロ。退かないというのなら私はお前を斬ることになる」
「承知の上だ」
「残念だ」
もう交わす言葉はない。そう思って構えを取った私をルナが静止する。
「待ってください!」
ルナは目を閉じ、両手を胸の前で組み、祈るように言った。
「どんなことがあったのか、私は知らない。けれど――もっと、ちゃんとあなたたちの声を聴かせて」
その声に呼応するように、まばゆい白光がルナの身体から放たれた。
光はやがて辺り一面を包み込み、視界が白に染まる。
気がつくと、そこにはクロが二体いた。
――いや、片方の瞳が闇に塗られているのを見れば、それはそっくりな“別の猫”なのだろう。瞳を闇に揺らしながらその猫は声を出す。
「痛い」「怖い」「どうして」「助けて」「返せ」「許さない」
その叫びは無数の声が重なり合ったように響いた。この猫はあの思念の集合体なのだ。この白い世界で形を与えられ、声を持った。
ルナはその猫を優しく撫でた。その瞳には、涙が浮かんでいる。
「……聞こえてるよ。あなたたちの声。全部、聞こえているよ」
ルナは再び胸の前で手を組んで、そっと呟いた。
「ずっと苦しかったんだね。もう大丈夫。私があなたたちを案内してあげる」
その瞬間、白い花弁を持つ小さな花が、あたり一面に咲き広がった。ほのかに甘い匂いが漂い、心地よい風が体を吹き抜けていく。あたりがより一層強い白い光で包まれる。その中心にいるルナはまるで天使のようだった。
その光を受けてか、猫の輪郭は少しずつ薄れ、やがて霧のようになって風に乗り、空の彼方へと溶けていった。
ふと、クロの方に目をやると、彼の体も薄れており透けていた。
「ルナ、我輩たちを導いてくれてありがとう」
クロは続けて私に言う。
「アルテシア、辛い役回りをさせてすまなかった。ときには正しくない選択肢しかない中から何かを選ばねばならぬときもある。それでもきちんと選んだお前は、自分で思っているよりずっと立派な奴だよ」
「猫に慰められるとは思わなかった」
「年長者の言うことは素直受け取るものだ。なにせ吾輩もまた数多の猫の集合体であったのだからな。あの猫はいわば吾輩の鏡写しよ。今になって気づくとは。吾輩の知性もたかが知れているな」
空へと消えていくクロに、ルナは別れの言葉を告げた。
「……また、どこかで」
白い光が収まったかと思うと、私たちは元いた墓地に立っていた。ふたりきりで、静かに。あたり一面を覆っていた白い花の姿はなく、すべてが元通りになっている。ふっと一陣の風が吹いた。すると、墓地を覆っていた霧がゆるやかに晴れ、白い満月の光があたりを優しく照らした。
墓地のほとりをみると、夜露に濡れた月見草がその光を受けて――まるで微笑むように、静かに輝いていた。




