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泥に染まる

 黒猫はひらりと身を翻し、細い路地へと消えた。

 私たちは雑貨屋の主人に礼を良い、その後を追うことにした。


「今の猫……魔力の反応がありましたね」

「ああ。事件に関わっている可能性がある。――気を抜くな、慎重に行くぞ」


 曲がり角を曲がるたびに、あたりは薄暗さを増し、人の気配も次第に遠のいていった。路地の突き当たりに差しかかったところ、黒猫がこちらを見据えるようにして静かに佇んでいる。その瞳は、こちらを値踏みするように鋭く光っていた。


「先ほどから吾輩の後ろをついて来ておるようだが、何か用でもあるのかね、お嬢さん方」


 黒猫はそう言うと、大きなあくびをひとつ漏らし、前足で顔をゆっくりとかいた。


「私たちは近頃この街で起きている事件について追っている。関係していそうなものを見かけたので、後をつけさせてもらった」

「ふむ、事件とな。……君たちの言うそれは、先ほどあの女主人と話していた件であろう?」


 黒猫はしっぽをゆるやかに揺らしながら、低く艶のある声で続けた。


「ならば先に断っておこう。吾輩は――その事件の犯人であり、犯人ではない」

「どういう意味だ?」

「いや、実に単純な話だ。

 霧煙る夜更けに化けた姿で出歩いたのは他でもない、この吾輩である。

 しかし吾輩は人に危害を加えた覚えはないし、今後もそのつもりはない。

 無益な加害などという珍妙な趣味は、生憎持ち合わせておらぬでな」


 黒猫はふん、と鼻を鳴らし、皮肉げな笑みを浮かべた。


「どうして霧の夜に、化けて出歩いたりしたんですか?」


 ルナは率直な疑問を投げかけた。


「――ようやく身についた魔術を、少々試してみたくなっただけのことだ。

 霧の深い夜更けであれば、人の目にも触れまいと思っていたが……どうやら目算が外れたようだ」

「墓地で人が襲われた件については関係がないんだな?」


 そう尋ねると、黒猫はふっと息を吐いて答えた。


「関与しておらぬ」


 わずかに不快の色がにじんでいた。


「吾輩が疑われていることは、重々承知しておる。

 しかし、濡れ衣というものはまことに心地の悪いものだ。

 吾輩としても、この冤罪を晴らす手立てがあるなら歓迎したい。

 君たちの“調査”とやらに、吾輩の手を貸すことも――やぶさかではないが、いかがかな?」


「私たちはこの街のことはあまり詳しくないんだ。ちょうど誰かの手を借りたいと思っていたところだ」

「ならば、話が早い」


 黒猫は尾をゆるりと揺らしながら、満足げに笑みを浮かべた。


「吾輩はこの街の隅々を知っておる。――怪異の臭いがする場所も、な」


「私はアルテシア。そっちはルナだ。あなたは?」

「生憎名乗る名を持ち合わせておらぬものでな。好きに呼ぶがよい」

「じゃあ……」


 ルナが少し考えるように首を傾げ、柔らかな声で言った。


「“クロ”でいいですか? その毛の色、とてもきれいだから」

「……悪くない響きだ」


 黒猫――いや、クロは小さく頷いた。ルナはほっとしたように微笑む。


「じゃあ、改めてよろしくお願いしますね、クロさん」


 どこからともなく冷たい風が吹き抜ける。街の屋根を越えて、霧がゆっくりと動き出した。



 ***



 墓地は街の外れの林の奥にあった。夕暮れとともに街のざわめきは遠のき、風の音だけが墓標の隙間を抜けていく。古びた墓石には苔が張り付き、西日が石肌をかすかに朱に染めていた。


 私とルナ、そしてクロは、並んで石塀の影に腰を下ろしていた。あたりには夜の気配が濃くなっていく。クロによれば怪異は夜更けになると現れるという。

 夜を待っている間、クロがふと口を開いた。


「この街には、根深い偏見がある。黒猫は不幸を呼ぶ――そう語り継がれてきた。罪のない同胞が命を奪われるのを何度も見てきた。昔ほどではないが、今でも路地を歩けば目を逸らされる。不可視の鎖のようなものが、まだこの街を締めつけている」


 ルナが眉を寄せて、小さな声で言った。


「とても辛いことですね……」


 クロは小さく息を吐き、尾をゆるやかに揺らした。


「無論、愉快ではない。だが、吾輩は誇り高き存在である。

 憎しみに身を委ねれば、結局は奴らと同じ泥に染まるだけだ。

 ――高潔とは、己を濁らせぬことにこそあるのだ」


 その言葉に胸の奥が静かに熱を帯びるのを感じた。

 戦場で見た憎悪と、それに飲まれていった数多の兵たちの姿が脳裏をよぎる。

 クロの言葉は、遠い昔の自分自身に向けられた戒めのようにも思えた。


 いつしか墓地は冷気に満ちていた。吐く息が白く濁り、墓石の間にぼんやりと白い霧が漂い始めた。

 クロの瞳が細められる。


「来るぞ――」


 風が止み、夜が音を失った。

 世界が息を潜めたような静寂の中で、霧だけがゆっくりと広がっていった。


 次の瞬間、ルナが声あげた。


「……あそこに何かあります!」


 視線の先、墓の影がひとつ、ゆらりと動いた。

 黒い影は地面に染み渡るように移動していく。やがてひとつの墓石の前に闇は集まり少しずつ形を成していく。


 ――それは、黒い“猫”の形をしていた。


 だが、毛並みも眼もない。ただの黒い闇が、魔力のうねりによって“姿”を与えられているだけだった。

 空洞のような瞳がこちらを見た。


 私は剣を構えた。月光を受けた刃が蒼く光っている。

 黒い影が跳ね、目前に猛然と迫る。

 地を滑るように回避し、刃を横に払う。鋼が空を切り、霧が弾ける。


 再び襲ってきた影に一歩退きざまに剣を返し、斜めに振り抜いた。

 刃が闇を裂き、黒い体が二つに割れた。


 耳をつんざくような悲鳴が、闇の中から響き渡る。

 ルナが顔を歪めて耳を塞いだ。


「声が……聞こえます。黒猫たちの悲鳴が……」


 刃を構えたまま、ただその声に立ち尽くす。胸の奥が重くなる。――これは、虐げられ、傷つけられ、居場所を奪われた者たちの叫びだ。

 クロが一歩、前へ出た。


「……そうか。お前たちは、吾輩の同胞であったか」


 影が揺らめいた。次の瞬間、闇が一斉にクロへと押し寄せた。

 黒い靄が彼の体を包み、尾の先から頭の先まで飲み込んでいく。


「クロ――!?」


 ルナの叫びが夜に響く。

 闇とクロの魔力が共鳴し、爆ぜるように影が広がった。

 月光の下に、巨大な影が姿を表した。漆黒の毛並みを持つ獣。だがその瞳の奥には、クロの理性がかすかに感じられた。

 ――黒猫たちの怨嗟と、クロが混じり合っている。


 獣が叫んだ。その叫びは怒りや悲しみ、そして憎しみの色で染まっていた。

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