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おから村正  作者: 鵜狩三善
ひもじヶ原雪追分(ひもじがはらゆきのおいわけ)

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7/23

過ぎた追分

 いつしか雪が止んでいた。

 厚い雲は失せ、しかし空には月どころか星ひとつの姿とてない。どこまでも均一な黒一色が、布を被せたように天を覆い尽くしている。

 尋常な夜の表情ではなかった。

 言うまでもなくこれは、ただの天候の変化ではない。彼岸に入ったがために起きた事象だった。


 彼岸とは、仏道において涅槃(ねはん)に至る境地を言う。転じて極楽浄土を指す言葉でもある。

 が、宗介ら金四ツ目の用いる彼岸とは、妖魅の築く領域を意味した。


 (あや)しの中には己を核とし、独自の閉鎖空間を生成するものがある。

 常世(とこよ)幽世(かくりよ)とも呼ばれるこれは、周囲と隔絶した異界であり、その内外は相互に著しく認識しがたい。

 たとえば白昼の目抜き通りで殺人が行われたとする。通常ならばのっぴきならぬ騒ぎがたちまち起ころう。

 が、これが彼岸での出来事であったなら話は別だ。通りを行く誰の目も惨劇を見ず、誰の耳も悲鳴ひとつ聞かない。そのような状況が生じうるのだ。

 現実空間たる此岸(しがん)より、遥か隔たる向こう岸。

 ゆえにこれを彼岸と称する。


 彼岸の強度は、構築する妖魅に依存する。

 例に挙げた通り、完全に認識を遮断する彼岸もあれば、蚊帳程度の遮蔽効果しかなく、至極容易く踏み入れてしまう彼岸もある。

 規模もまた同じくで、手のひらほど小さなものから、海中の竜宮や深山の仙境といった類まで、それこそ千差万別である。

 他にも生成と除去の随意、不随意や彼岸自体の動、不動といった差異もあり、最早変幻自在と言う以外ない。妖魅の術は人の心のかたちと同じだけあるとされる通りだ。


 さておき、ひもじヶ原の彼岸は元の原と同規模と思われた。

 周囲を昏黒の夜と変じるから、まるで天空までの領域と誤解しそうになるが、そうではない。

 ちょうどネズミに桶を被せたようなものだ。覆われたネズ公は天地が閉ざされたと勘違いもしよう。けれど実際は、狭隘(きょうあい)な空間に封じられただけのことである。

 また、宗介たちが容易く侵入で来たこと、三味線が漏れ聞こえることからも知れる通り、この彼岸はさしたる強度を備えない。陽光に月光、細雪を弾くくらいの仕業はするが、人の出入りを阻めはしない。

 ここへ遣わされた名輪の小者がひと晩迷い歩いたは、感覚を晦まされたからに相違なかろう。おそらくは同じ場所をぐるぐると、気づかぬまま歩かされ続けたのだ。


 それでも彼岸の闇は心の闇に応じるが如くに深く、手にした提灯は、光源としてひどく頼りなかった。数歩先を照らすも危うい。

 宗介が彼岸の核を、異界の(ぬし)を過たず追えたのは、(ひとえ)に三味線の音色のお陰である。


 か細く響く音曲を辿った先。

 苔生(こけむ)す塚のその前に、女はひとり立っていた。

 それが身に纏うのは、襤褸(ぼろ)としか言いようのない装束だった。

 あちこちが裂かれ、破られ、血の気のない白い肌を覗かせている。その肌もまた、無惨なものだった。各所に青痣が浮き、幾筋もの血の痕跡を這わせている。

 (さお)の折れた三味線を奏でる指は折れ曲がり、それでどうして音が鳴るのか、不思議しかない状態だった。

 髪はおどろに乱れ果て、俯いた唇は殴打を示して腫れ上がり、それでも声にならない歌をもぞもぞと紡いでいる。


 心を閉ざした幽鬼そのもののありさまへ更に凄惨を加えるは、女の全身に巣食う蛇どもだ。

 ちょうど水面(みなも)を浮き沈みするさまに似て、死色の肌のあちこちから、半透明の蛇どもが或いは首をもたげ、或いは蛇体をくねりを見せる。これは我々のものだと、そう主張するかのようだった。

 女は呪いの核であり、幻体の蛇はそれに纏いつく怨念のかたちである。

 名輪伊右衛門より、聞き及んだ通りの姿だった。



 未遂に終わった駆け落ちの翌晩。

 押し込められた蔵を逃れて名輪伊右衛門は、ひとりひもじヶ原へ向かった。

 もう間に合うはずがないとわかっていた。さとの末路については、嘲笑うように父から聞いていた。

 それでも、行かなければと思った。

 自らの愚かさが、愛した女を死に追いやった。最早詫びようもないことである。

 ならばせめて後を追おう。

 同じ場所で死出をすれば、せめて六道の辻で追いつけやしまいかと、そう考えていた。


 そこで、出会った。

 もう会えるはずのない人に。心より愛おしいと感じた女に。

 彼女は――さとはひどい姿をしていた。

 それは殺められた時そのままの(なり)なのだろう。満身に暴行の痕跡を残し、全身を蛇に巣食われ、それでも折れた指が、壊れた三味線が、ふたりの愛した調べを奏でていた。

 まるで見つけられることを願うようなそのさまに、伊右衛門は叫んで駆け寄った。

 けれど。


 死んだ女は目蓋を開き、決別のように伊右衛門を見た。

 どろりと濁った瞳が伊右衛門を刺す。紫に変色した舌を踊らせ、さとは言った。


 ――(われ)(はじ)見せつ。


 伊右衛門は、逃げた。

 恐れたからではない。死者の言葉に、胸を刺し貫かれたからだ。

 全身を貫いたのは恐怖ではなく悲嘆だった。身を引き裂きそうに凄まじい寂寞だった。


 どんな姿を目にしたところで、おれがさとを醜いなどと思うものか。さとに恥じる箇所など少しもない。

 そう言ってやりたかった。否。ずっと、そう伝えてきたはずだった。

 弱いところも、脆いところも、醜いところも。

 全部受け止めて、支えるつもりだった。守り抜くつもりでいた。

 いつもどこか困った風情で口説きを受ける彼女の愁眉を、いつか開かせてやりたいと思っていた。きっとそうできると信じていた。


 だのに心は、何ひとつ伝わっていなかった。

 自分はさとにとって、頼れる相手でも心許せる相手でもあり得なかった。

 ただの、一方的な片恋だった。

 少し、頭を冷やして考えてみればわかることだ。

 自分の心持ちは、恵まれた者の傲慢である。自分が手を差し伸べる側だと疑いもしない倨傲(きょごう)である。


 名輪の家は、容姿に優れた娘を遊里に売ると既に記した。

 だがその美貌をより見込まれた者は、名輪家で飼われる。一族の妾として、通い商人の慰めとして。

 さともまた、そうした女のひとりだった。

 そんな彼女が、名輪嫡子の求愛を拒めるはずもない。


 そもそも伊右衛門の想いを容れたところで、さとが嫁として親戚筋に認められるはずもないのはわかりきっていた。

 特に伊右衛門の母、たきの反応は想像に易い。夫に続き息子まで奪われたと嚇怒(かくど)するに決まっている。

 けれど伊右衛門は母の憤激がどのような結果を生むか、少しも憂慮しなかった。昨夜、さとが最期を迎えるその時まで。

 何が守るだ、支えるだ。そんな言い、子供の戯れ言と大差がない。

 曹植と甄氏(しんし)の間柄だと酔い痴れていた己を恥じるばかりだ。


 おそらくさとは、伊右衛門のそうした幼さを承知していた。

 けれど伊右衛門を拒むのも恐ろしかったのだろう。

 愛情は容易く憎悪へ転ずる。(なび)かぬ女を御曹司がどう扱うかなど、その父の振る舞いを見れば察しがつこうというものだ。

 つまり彼女に先はなく、自分はそんなことにすら、今の今まで気づかなかった。


 だから伊右衛門とのことは、駆け落ちの約束は、さとにとってきっかけに過ぎなかったのだろう。

 村を逃れたそののちは、自身の才覚で暮らしを立てようとでも考えていたはずだ。

 荷物はなるたけ少なくと伝えたのに、三味線を持って発ったのがその証拠である。


 死者の言葉で醒めた頭が、これまでの景色をようやくに理解する。

 むせび泣きながら、ふらふらと伊右衛門は歩いた。さとと歩むつもりだった道のりを。

 そうしてふと川に行き会い、たまらなくなって身を投げた。

 が、死ななかった。死ねなかった。

 体は無意識に生へ縋り、気づけば伊右衛門は川岸に流れ着いていた。

 もう、涙すら出なかった。


 それから彼は江戸を目指した。

 不意に、旅商人から酒の肴に聞いた話を思い出したからだ。

 本所深川方相長屋。妖魅を伏せる金四ツ目らがそこには住まう。

 信じられないと当時は聞き流した話が、今は唯一の(よすが)となった。

 あの蛇どもから、せめてさとの亡骸を取り返したいと彼は願った。

 切なるその訴えを聞いたのが大角(だいかく)内供(ないぐ)。方相長屋の頭目である……



「あんたが、おさとさんか」


 呼びかけるが、(いら)えはない。

 どころか彼女は、宗介へは目もくれない。ただひたすらに微かな歌いを、三味線を続けるのみである。

 さとにとっては宗介など、路傍の石以下の存在なのだ。

 そう悟って宗介は、ほんの少し心を軽くする。


 ――伊右衛門さん。


 胸の内で呼びかけた。


 ――あんたはやっぱり、おさとさんの特別だよ。


 伊右衛門とさとの身の上を、宗介は自分たちに重ねている。

 それゆえ義心に駆られて、この一件に名乗りを上げた。


「多分あんたはあんた個人として、伊右衛門さんと向き合えばよかった。あんたの思いの丈をきちんと吐き出しておけばよかった。その、調べみたいに」


 提灯を捨て、恐れげなく近づいてくる宗介へ、蛇どもは鋭く威嚇の呼気を吐く。

 無論、それで止まる歩みではない。


「でももう言っても詮無(せんな)いことだ。あんたは死んだ。追分だ。道はとうに分かたれた」


 べん、と三弦が強く鳴った。鳴るなりそれはふつりと切れて、中空へと跳ね上がる。

 棹を離れた糸は身を捩りながら無数の枝分かれを見せ――転瞬、その全てが宗介に牙を剥いた。糸たちはみるみるうちに太さを増して鱗に覆われ、先端へ蛇頭を現したのだ。

 換体変骨の相であった。

 かっと開いたいくつもの(あぎと)から、どろり毒気が滴り落ちる。


「色んなものを恨んでいるんだろう。色んなことを悔いているんだろう。おさとさん、あんたがそうするのは当然だ。でもその心は、多数の中のひとりとして晴らすべきじゃない。そんなものにまとわりつかれて、目も耳も塞がれたまま取り扱うべきものじゃあない。だから――」


 ため息のように言いながら、宗介はわずかに腰を落とした。

 眼光が、ぎらりと蛇どもを()める。

 弓手(ゆんで)に鞘、馬手(めて)に柄。いつなりとも繰り出せる抜刀の姿勢である。


「せん、いいか」

『うん、もちろん!』


 優しく囁く宗介に、凛と応じる声がした。鈴を鳴らすような、それは少女の声だった。

 許しを得て、刹那、刃が閃く。

 たちまち蛇糸は斬り払われ、いくつもの首が地に落ちた。

 それでもなお食らいつかんと蠢く蛇頭が、しぶとくもうねくる蛇体が、次の瞬間、青白く火を噴いて焼尽する。抜き放たれた刀身が纏う、妖火の仕業であった。


「――その悪縁、斬らせてもらう」

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