縁切り宗介
名輪家の前にひとりの浪人が立ったのは、文化5年(1808年)が訪れて幾ばくもない、寒風肌を切る午後のことだった。
名輪は苗字を許された、土地の豪農である。
主街道脇街道のいずれからも外れ、人足も疎らなこの寒村に、定期的に商人が足を運ぶよう手を尽くした功労者であり、それゆえ頭抜けた権力者だった。村の実質的支配者と言ってもよい。
ゆえに名輪の屋敷は鄙びた村のそれとは思えぬほど豪奢なもので、構えられた門、巡らされた塀の端々からもその繁栄が窺い知れる。
が、この浪人は邸宅の見事さに見入るではないようだった。
彼が目を注ぐのは家屋の更にその少し上、屋根と空の境界辺りへである。
「想像以上だな、これは」
やがてぽつりと、そう呟いた。
聞き取りやすく低い、静かに落ち着いた声音だった。
「大丈夫だ。気後れはしていない。名乗り出て任されたんだ。大角さんに顔向けできない真似はしないさ」
何者かと問答するように続け、そっと刀の鞘を撫でる。
落とし差しに差すその刀は、明らかに異彩だった。
藤色糸が菱巻に巻いた柄。鍔は真鍮に藤花をあしらい、鞘では黒漆地に塗り込められた刻み棕櫚が、冬の光で金色に煌めいている。
なんとも金のかかった拵えで、余程の名刀か、愛刀であるのだろう。
到底浪人者の本差とは思えない刀に対して、彼自身の風体はよくある旅人のものだ。
三度笠、脚絆、道中合羽、振り分け荷物に早道を帯留めしている。動きやすく軽衫ふうに仕立てた袴が強いていうなら特色だが、これも剣客にはままある支度で、取り立てて述べるべきものではなかろう。
笠の下の顔はまだ若い。まだ青年と呼ぶのが相応しい年頃と見える。
けれどそうありながら、彼は不思議な威風を纏っていた。
威風と言っても、この浪人が獰猛の気配や殊更な巨躯を備えるというわけではない。およそ中肉中背、体格に特筆すべき点はない。
それはひどくしなやかに鍛えられた五体が、静かに発する品格であった。
肉体と精神の両面を、相当な鍛錬で培ってきたのだろう。背筋は鉄棒を通したようにすっと伸び、腰も据わって重心がよい。遅滞は全身の何処にもなく、指の先、爪の先にまで意識が行き届いている。
どのような事態が発生しようと、即座に雷光のような反応を示すに違いないと、心得のない者にもひと目でそう知らしめる佇まいだった。
「……あの」
だからそんな彼へ呼びかける声が、恐る恐るとなったのは致し方ないことであろう。
呼びかけられて青年が目を落とせば、そこにいたのは少女だった。年の頃なら十二、三。子供と大人の境目といった時分である。名輪家の使用人めくが、にしては着物がいささか上等で、肌は日に焼けず白い。
「先ほどから、何をご覧になっていらっしゃるのですか? 当家に御用でも?」
やはりおっかなびっくりに、娘が続けた。
遅ればせながら青年は、家屋内から自分へ注ぐいくつもの視線を感得する。そうして門前に佇む怪しげな浪人の誰何に、立場の弱い子供が押し出されてきたのだと悟った。
「しまったな」
漏らしてから青年は笠を脱いだ。如何にも人の好さそうな、優しげな目元が明らかになる。
月代を剃らない、これまた浪人風の総髪をしていた。が、決して伸び放題に乱れた蓬髪ではない。手入れが行き届いた、清潔の感がある。きちんとした身づくろいするだけの金銭的余裕が、この浪人にはあるのだ。
気まずげに頭を掻いた彼は膝を折って身をかがめ、少女と目線を合わせる。
「蛇を見ていた」
「蛇!?」
途端びくりと蒼褪めて、娘は身を震わせた。
長虫に対する生理的嫌悪感だけでない、露骨な恐怖の反応だった。
「まったく、ひどいありさまだ」
呟きつつ、息を呑む少女から屋根の上へ、青年は鋭くその視線を移す。
「これだけの縁なら、あんたにも見えるんじゃないか?」
指さされて振り仰ぎ、娘はあっと声を上げた。
晴天の日差しの下、彼が示したその場所にだけ、暗く影が蟠っている。広大な屋敷の屋根中に、何かが黒雲のようにべったりと貼りついてる。
当初は靄としか見えなかったそれが、やがてすいと像を結んだ。
少女の目が映したのは、ありえぬほど大きな蛇体だった。
屋敷の上にほの暗く蜷局を巻くのは、一匹の大くちなわである。
鎮座するそれは、家屋ごとその下に住まう者たちを圧し潰そうとするようにも、ただのひとりも逃すまいと監視するかのようにも見えた。
「ひッ!」
堪えきれず出た、その悲鳴が悪かったのだろう。
蛇が首をもたげ、ぎょろりと娘を睨んだ。認識したがために、認識されたのだ。
しゃっと剥いた牙からは毒液が滴り、それがたちまち無数の小蛇へ変化する。小蛇とは、この大蛇に比しての言いだ。蛇群はそれぞれが半間(1m弱)ほどの体長を有する。そんな蛇どもが、鬼灯のような目に爛々と赤く敵意を漲らせ、蛇行してくるさまは空恐ろしいかった。
少女は怯えて後ずさり、尻もちをつく。
そこへ、ちん、と澄んだ響きがした。
音を発したのは青年の刀だ。半寸だけ抜いた刃を、鍔鳴りを立ててまた納めたのである。
それではっと我に返れば、蛇の群れも、屋根上の大蛇も、もうどこにも見当たらなかった。だが気がつけば屋敷のうちには、ぬめりと澱んだ空気が確かに漂う。毒気めくそれは決して残滓にあらず、垣間見た蛇が幻ではないことを、強烈に少女へ思い知らせる。
「悪いことをした。あんた、随分と見る目がある」
手を伸べながら、心底申し訳なげに青年は詫びた。「違う。断じて怖がらせるつもりはなかった」と誰かへの抗弁のように付け加えつつ、片手で娘を軽々と引き起こす。
裾の土汚れを払ったのち、彼は改めて娘と向き合った。
「とまれまあ、こういうわけだ。家の主に伝えてもらえるか。金四ツ目が来た、と」
「きんよつめ……?」
怪訝にする少女へ、浪人は懐を探り、印籠を取り出して見せる。
黒漆塗りの上には金線で菱形が四つ、正方形の配置で象嵌されていた。それぞれの菱形の内には金円が、瞳のように描かれている。
つい顔を寄せた少女をからかうように、装飾のはずの瞳たちがは揃ってぱちりと瞬きをした。浪人は困ったように苦笑して、無言で印籠を合羽へ戻す。
「それで通じなければ、蛇についての話だと言ってくれ。俺は縁切り――つまりは、この手の事柄に心得がある」
ただ耳にしたなら荒唐無稽の言葉でしかない。だが蛇を見、鍔鳴りに救われた直後のことだ。
娘はこくんと唾を呑み、なお半信半疑で青年を見返す。
「ああ、もちろん無理押しをするつもりはない。俺に用がないってならそれでいい。後は俺も勝手にするさ」
慌てて言い募る、その素振りが踏ん切りをつけさせたのだろう。
娘はひとつ頷いて母屋を振り返り、それからもう一度青年を見上げた。
「あの、あたし、みよって言います」
「ああ」
「……」
「……」
浪人がただ頷き、やや間の抜けた沈黙が落ちる。
だがみよが再度催促する前に、彼は叱責を受けたかのように目を瞬いた。
「そうか。名乗りか」
「はい。お名前を」
まるで不慣れな仕業を強いられた風情で、青年はぐっと口を噤む。
それからゆっくりと、噛み締めるように重く応えた。
「常州浪人、巾木宗介」




