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おから村正  作者: 鵜狩三善
ひもじヶ原雪追分(ひもじがはらゆきのおいわけ)

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2/23

縁切り宗介

 名輪(なわ)家の前にひとりの浪人が立ったのは、文化5年(1808年)が訪れて(いく)ばくもない、寒風肌を切る午後のことだった。

 名輪は苗字を許された、土地の豪農である。

 主街道脇街道のいずれからも外れ、人足(ひとあし)(まば)らなこの寒村に、定期的に商人が足を運ぶよう手を尽くした功労者であり、それゆえ頭抜けた権力者だった。村の実質的支配者と言ってもよい。

 ゆえに名輪の屋敷は(ひな)びた村のそれとは思えぬほど豪奢なもので、構えられた門、巡らされた塀の端々からもその繁栄が窺い知れる。


 が、この浪人は邸宅の見事さに見入るではないようだった。

 彼が目を注ぐのは家屋の更にその少し上、屋根と空の境界辺りへである。


「想像以上だな、これは」


 やがてぽつりと、そう呟いた。

 聞き取りやすく低い、静かに落ち着いた声音だった。


「大丈夫だ。気後れはしていない。名乗り出て任されたんだ。大角(だいかく)さんに顔向けできない真似はしないさ」


 何者かと問答するように続け、そっと刀の鞘を撫でる。

 落とし差しに差すその刀は、明らかに異彩だった。

 藤色糸が菱巻に巻いた柄。鍔は真鍮に藤花をあしらい、鞘では黒漆地(くろうるしじ)に塗り込められた刻み棕櫚(しゅろ)が、冬の光で金色(こんじき)に煌めいている。

 なんとも金のかかった(こしら)えで、余程の名刀か、愛刀であるのだろう。


 到底浪人者の本差(ほんざし)とは思えない刀に対して、彼自身の風体はよくある旅人のものだ。

 三度笠、脚絆(きゃはん)、道中合羽、振り分け荷物に早道(はやみち)を帯留めしている。動きやすく軽衫(かるさん)ふうに仕立てた袴が強いていうなら特色だが、これも剣客にはままある支度で、取り立てて述べるべきものではなかろう。

 笠の下の顔はまだ若い。まだ青年と呼ぶのが相応しい年頃と見える。

 けれどそうありながら、彼は不思議な威風を纏っていた。

 威風と言っても、この浪人が獰猛の気配や殊更な巨躯を備えるというわけではない。およそ中肉(ちゅうにく)中背(ちゅうぜい)、体格に特筆すべき点はない。

 それはひどくしなやかに鍛えられた五体が、静かに発する品格であった。

 肉体と精神の両面を、相当な鍛錬で(つちか)ってきたのだろう。背筋は鉄棒を通したようにすっと伸び、腰も据わって重心がよい。遅滞は全身の何処(いずこ)にもなく、指の先、爪の先にまで意識が行き届いている。

 どのような事態が発生しようと、即座に雷光のような反応を示すに違いないと、心得のない者にもひと目でそう知らしめる(たたず)まいだった。


「……あの」


 だからそんな彼へ呼びかける声が、恐る恐るとなったのは致し方ないことであろう。

 呼びかけられて青年が目を落とせば、そこにいたのは少女だった。年の頃なら十二、三。子供と大人の境目といった時分である。名輪家の使用人めくが、にしては着物がいささか上等で、肌は日に焼けず白い。


「先ほどから、何をご覧になっていらっしゃるのですか? 当家に御用でも?」


 やはりおっかなびっくりに、娘が続けた。

 遅ればせながら青年は、家屋内から自分へ注ぐいくつもの視線を感得する。そうして門前に佇む怪しげな浪人の誰何(すいか)に、立場の弱い子供が押し出されてきたのだと悟った。


「しまったな」


 漏らしてから青年は笠を脱いだ。如何にも人の好さそうな、優しげな目元が明らかになる。

 月代(さかやき)を剃らない、これまた浪人風の総髪をしていた。が、決して伸び放題に乱れた蓬髪(ほうはつ)ではない。手入れが行き届いた、清潔の感がある。きちんとした身づくろいするだけの金銭的余裕が、この浪人にはあるのだ。

 気まずげに頭を掻いた彼は膝を折って身をかがめ、少女と目線を合わせる。


「蛇を見ていた」

「蛇!?」


 途端びくりと蒼褪(あおざ)めて、娘は身を震わせた。

 長虫(ながむし)に対する生理的嫌悪感だけでない、露骨な恐怖の反応だった。


「まったく、ひどいありさまだ」


 呟きつつ、息を呑む少女から屋根の上へ、青年は鋭くその視線を移す。


「これだけの縁なら、あんたにも見えるんじゃないか?」


 指さされて振り仰ぎ、娘はあっと声を上げた。

 晴天の日差しの下、彼が示したその場所にだけ、暗く影が(わだかま)っている。広大な屋敷の屋根中に、何かが黒雲のようにべったりと貼りついてる。

 当初は(もや)としか見えなかったそれが、やがてすいと像を結んだ。

 少女の目が映したのは、ありえぬほど大きな蛇体だった。

 屋敷の上にほの暗く蜷局(とぐろ)を巻くのは、一匹の(おお)くちなわである。

 鎮座するそれは、家屋ごとその下に住まう者たちを圧し潰そうとするようにも、ただのひとりも逃すまいと監視するかのようにも見えた。


「ひッ!」


 堪えきれず出た、その悲鳴が悪かったのだろう。

 蛇が首をもたげ、ぎょろりと娘を睨んだ(・・・)。認識したがために、認識されたのだ。

 しゃっと剥いた牙からは毒液が滴り、それがたちまち無数の小蛇へ変化(へんげ)する。小蛇とは、この大蛇に比しての言いだ。蛇群はそれぞれが半間(はんけん)(1m弱)ほどの体長を有する。そんな蛇どもが、鬼灯のような目に爛々と赤く敵意を漲らせ、蛇行してくるさまは空恐ろしいかった。

 少女は怯えて後ずさり、尻もちをつく。

 そこへ、ちん、と澄んだ響きがした。

 音を発したのは青年の刀だ。半寸だけ抜いた刃を、鍔鳴りを立ててまた納めたのである。

 それではっと我に返れば、蛇の群れも、屋根上の大蛇も、もうどこにも見当たらなかった。だが気がつけば屋敷のうちには、ぬめりと澱んだ空気が確かに漂う。毒気めくそれは決して残滓にあらず、垣間見た蛇が幻ではないことを、強烈に少女へ思い知らせる。


「悪いことをした。あんた、随分と見る目(・・・)がある」


 手を伸べながら、心底申し訳なげに青年は詫びた。「違う。断じて怖がらせるつもりはなかった」と誰かへの抗弁のように付け加えつつ、片手で娘を軽々と引き起こす。

 裾の土汚れを払ったのち、彼は改めて娘と向き合った。


「とまれまあ、こういうわけだ。家の主に伝えてもらえるか。金四ツ目が来た、と」

「きんよつめ……?」


 怪訝(けげん)にする少女へ、浪人は懐を探り、印籠を取り出して見せる。

 黒漆塗りの上には金線で菱形が四つ、正方形の配置で象嵌(ぞうがん)されていた。それぞれの菱形の内には金円が、瞳のように描かれている。

 つい顔を寄せた少女をからかうように、装飾のはずの瞳たちがは揃ってぱちりと瞬きをした。浪人は困ったように苦笑して、無言で印籠を合羽へ戻す。

 

「それで通じなければ、蛇についての話だと言ってくれ。俺は縁切り――つまりは、この手の事柄に心得がある」


 ただ耳にしたなら荒唐無稽の言葉でしかない。だが蛇を見、鍔鳴りに救われた直後のことだ。

 娘はこくんと唾を呑み、なお半信半疑で青年を見返す。


「ああ、もちろん無理押しをするつもりはない。俺に用がないってならそれでいい。後は俺も勝手にするさ」


 慌てて言い募る、その素振りが踏ん切りをつけさせたのだろう。

 娘はひとつ頷いて母屋を振り返り、それからもう一度青年を見上げた。


「あの、あたし、みよって言います」

「ああ」

「……」

「……」


 浪人がただ頷き、やや間の抜けた沈黙が落ちる。

 だがみよが再度催促する前に、彼は叱責を受けたかのように目を(しばた)いた。


「そうか。名乗りか」

「はい。お名前を」


 まるで不慣れな仕業を強いられた風情で、青年はぐっと口を(つぐ)む。

 それからゆっくりと、噛み締めるように重く(いら)えた。


「常州浪人、巾木(はばき)宗介(そうすけ)

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