第11話 初めて見る外の世界
数日間、俺はその要請書のことを考えないようにしていた。
見なかったことにしよう、そう思ったのだ。
異世界まで来て、なんで俺が村の復興なんて面倒なことをしなくちゃいけないんだ、と。
しかし、ふとした瞬間に、鑑定グラスで見た「より切実になっている」という文面と、想像される村の窮状が頭をよぎる。
無視しようとすればするほど、妙に気にかかってしまう。
(……気になる。気になって仕方ない。ああもう!)
一度気になり始めると、もうダメだった。
それに、もし本当に村が近くにあるなら、何かの時に助け合えるかもしれない。
完全に孤立しているよりは、近隣との繋がりがあった方が、結果的に俺たちの安全にも繋がるはずだ。
アステリアのような大きな街はもうこりごりだが、小さな村なら、あるいは……。
(……よし、決めた。偵察だけだ。あくまで様子を見るだけで、深入りはしない。それで判断しよう)
俺はエリに隣村へ行ってみることを告げた。
もちろん、要請書のことではなく、「近くに村があるらしいから、どんなところか見てくる」という名目で。
「隣村? 人がいるのですか? まあ!」
エリは驚き、そしてすぐに目を輝かせた。
「でしたら私もお供しますわ! 外の世界を見てみたいと、ずっと思っておりましたの!」
やっぱりそう来たか。
家にこもりきりだった彼女が外に興味を持つのは自然なことだ。
しかし……。
「いや、だからエリは留守番だって。どんな村かも、どんな人がいるかも分からないんだぞ? エルフである君が行ったら、変に目立つかもしれないし、まだ君の国の追手の危険だってゼロじゃない。ここが一番安全なんだ」
俺はできるだけ優しく、しかしきっぱりと断る。
「ですが、コウスケ一人で行かせるわけにはまいりません! わたくしにもエルフの魔法が少しは使えますし、鑑定グラスだってあります。それに、コウスケだってまだこの世界のことをよくご存じないのでしょう? 二人の方が安全ですわ!」
エリは珍しく強く反論する。
確かに、俺一人より二人の方が安全、という理屈も分からなくはない。
それに、彼女の言う通り、俺もまだ異世界初心者だ。
エルフである彼女の方が、森での行動には慣れているかもしれない。
「それに……わたくし、コウスケが心配なのです。一人で危ないところへ行くなんて……」
最後は少し声を落とし、不安げな表情で俺を見上げてくる。
その大きな青い瞳が、潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
(うっ……そんな顔で言われると……弱いんだよなぁ)
心配されている、という事実に弱いのかもしれない。
俺はしばらく悩んだ末、ため息をついた。
「……分かった。じゃあ、一緒に行くか。ただし、絶対に無理はしないこと。俺の指示には必ず従うこと。何かあったらすぐに俺の後ろに隠れること。いいな?」
「はい! 約束しますわ!」
エリは嬉しそうに、そして力強く頷いた。
その笑顔を見ると、まあ、連れて行ってやるか、という気持ちになるから不思議だ。
こうして、俺の単独偵察行は、急遽、迷子のエルフの王女様との二人旅へと変更になった。
コロッサスとゴレムスには、「家と畑を頼む。何かあったら念話で知らせろ」と指示を出し、俺たちは食料と水をリュックに詰め、隣村へと出発した。
*****
「まあ! 見てくださいまし、コウスケ! あんなに大きな鳥が!」
「綺麗な花ですわね……これは薬草でしょうか? 鑑定してみますわ!」
「この木は、わたくしの国の森とは少し違いますわね……。空気が乾燥しているのかしら?」
森の中を進む間、エリはずっと興奮しっぱなしだった。
見るものすべてが新鮮らしく、目をキラキラさせながら俺に質問攻めだ。
王女としての教育で得た知識と、俺から譲り受けた鑑定グラスを使いこなし、植物や動物を熱心に観察している。
その様子は、王女というより好奇心旺大きなフィールドワーク中の学生のようだ。
(楽しそうで何よりだけど……少しは警戒心を持ってくれよな……。まあ、隠密スキル効いてるから大丈夫か?)
俺は周囲への警戒を怠らず、鑑定グラスと『サーチ(小)』で危険がないか常に確認しながら進む。
時折、エリに注意を促すが、彼女の興味は次から次へと移っていく。
まあ、大きな危険がないなら、今は彼女の初めての「冒険」を楽しませてやるのもいいだろう。
そうして半日ほど歩いただろうか。
森を抜け、少し開けた土地に出ると、遠くに小さな村が見えてきた。
地図にあった通りの場所だ。
しかし、近づくにつれて、その様子がおかしいことに気づく。
家々は小さく古びており、屋根には穴が開き、壁が崩れかかっているものも少なくない。
畑らしき土地は広がっているが、作物はまばらで、雑草が生い茂っている。
村全体に活気がなく、まるで時間が止まっているかのようだ。
「……これが、村……ですの?」
さっきまで弾んでいたエリの声も、今は沈んでいる。
「ああ、みたいだな……。想像以上に……ひどい状況かもしれない」
実際に村に足を踏み入れると、その印象はさらに強まった。
道行く村人たちは皆一様に痩せこけ、着ている服も擦り切れている。
その目はうつろで、俺たち新参者を見ても、好奇心すら浮かべていない。
子供たちの姿も見えるが、元気がなく、ただ家の前で力なく座り込んでいるだけだ。
村全体が、長い貧困と諦めに覆われているような、重苦しい空気が漂っていた。
「ひどい……。どうして、こんなことに……」
エリが小さな声で呟く。
彼女も、エルフの国では見たことのないであろう、厳しい現実を目の当たりにして、ショックを受けているようだ。
王族として、民の暮らしを見てきたであろう彼女にとっても、ここの状況は想像を超えていたのかもしれない。
俺たちは、村の中心にあるひときわ大きな(といっても他の家より少しマシな程度だが)家を訪ねた。
村長の家だ。
要請書に名前があったエルドという老人を探す。
ドアをノックすると、中からしわがれた返事があり、ゆっくりと扉が開いた。
現れたのは、深く刻まれた皺と、疲れ切った表情をした老人だった。
腰が大きく曲がっている。
「おお……あなたは、もしや先日お見えになった、コウスケ様……では?」
エルド村長は俺の顔を見ると、驚いたように目を見開いた。
俺のことを覚えていてくれたらしい。
隣にいる美しいエルフの少女を見て、さらに驚いている。
「はい、コウスケです。こちらは連れのエリです。村の様子が気になって、また来てしまいました」
「まあまあ、わざわざこのような辺鄙な村へ……! しかも、このような美しいお連れ様まで……。ささ、どうぞ中へ。汚いところですが」
家の中へ招き入れられ、古びた木の椅子に座るよう促される。
家の中も質素で、物が少ない。
俺たちは、改めて村の窮状を詳しく聞くことになった。
村長の話は、要請書に書かれていた以上に深刻だった。
土地は元々痩せており、作物は満足に育たない。
数年前から続く異常気象(おそらく日照り)がそれに追い打ちをかけ、備蓄していた食料も底をつきかけている。
男たちは遠くの鉱山や街へ出稼ぎに出ているが、危険な仕事の割に賃金は安く、仕送りもほとんどない。
若者は将来に希望を見いだせず、次々と村を捨てて出て行ってしまい、残されたのは老人と子供、そしてわずかな女たちだけ。
医者も薬もなく、病人が出てもただ回復を祈るしかない。
冬を越せるかどうかも分からない、まさに瀬戸際の状態だという。
「もはや、我々には神に見放されたとしか……このまま、ただ滅びを待つだけなのかもしれません……」
力なく語る村長の目には、深い絶望の色が浮かんでいた。
エリは黙ってその話を聞き、唇を強く噛みしめている。
その青い瞳が潤んでいるように見えた。
俺も、かける言葉が見つからなかった。
ただ、このままにはしておけない、という気持ちだけが、先ほどよりもずっと強く、確かなものとして込み上げてきていた。