雨に濡れたペチュニア
その光景を見た時、何故か私は納得した。彼女の真面目さは他の誰もが見て分かるくらいに滲み出ていたものだったから、このような事になる事を私は心のどこかで浅く、なんとなく予想してたのだと思う。だから、彼女に喉元に刺さっているモノを見ても、そこから川のせせらぎのように淀みなく、止まる事なく流れる『ソレ』を見ても、なんら驚きもしなかった。それ以上に「あぁ、やっとか」と自分の中で納得した処はある。 それはたぶん、私がどこか冷めている人間だったからかもしれないが、それに対して嫌悪感なんて有りはしないし、彼女を止めれたのではないか? という罪悪感に苛まれる事もない――それこそ彼女への侮辱であるし、侮蔑であるのだから。
彼女が彼と付き合っていたのは覚えている。あの時の彼女は気丈ではあったが、どこか危うく、吊り橋を目隠しのまま歩いてるように視えたから。そして、どこかその危うさに陶酔しているようにも視えた。『恋は人間を変える』という台詞があるが、確かにそうだったのだ、彼女を見ていればそれが分かった。毎日を切磋琢磨生き、息を吐かせぬ程に全力で走り抜けていた。その危うい吊り橋を走り続けていた。
彼と出会う前の彼女は、私と似ていて……いえ、私が彼女に似ていて、どこか冷めている女性だった。それに対して憧れや羨望の眼差しを向けた事は一度となくなかったが、やはり似てしまったのだ。それに安堵し、まるで鏡を見ているように思えて、彼女を観察していた。だから、彼女が彼と出会い、何処か変化したのを感じ取ったのは、たぶん……いや、絶対に私が最初だった。もしかしたら彼女本人よりも早く、その変化に気づいたのかもしれない。
小さな事からすれば彼女の洗面台の占領時間が長引いていたし、いつもは淡白に済ませていた化粧もどこか彩りを魅せ、週末はいつも二人で本を読んでいた時間も少なくなっていた。それ見て、私は「あぁ、彼女は変わった」という感想ではなく、直結に「あぁ、彼女は恋を知った」と思えたのは私だからだ、と今になって思える。
最初は彼の事を何も言わなかった彼女だが、ある日の週末の夜に、彼女が部屋に入ってきて頬を赤らめながら、私に懇願したのだ。「耳に、ピアスを着けたいのだけど、穴を開けるのが怖いから、手伝って」と。そう言った彼女の右手にはピアスの穴開け用の機械、左手には丸く赤いハート型のピアスを大事そうに握りしめ、その赤いピアスと同じくらいに頬を染める彼女を見て、可愛く思え、何よりそこで初めて羨ましく思えた。
それに対して、私は何故か? など聞かずに、淡白に了承したのを覚えている。あの時の私は恋というもの知らなかったが、そこでそんな事を聞くのが失礼だと思ったのだ。
彼女の長く艶やかな黒髪を束ね、後ろから耳たぶを優しく支え、機械を当てた時、彼女の肩は震えていた。それを見て私は何か声をかけるでもなく、無言のまま彼女の震えが完全に静止するのを待った。親から貰った身体に穴を開けるなんていけない。なんて前時代的な考えは私には持ち合わせていなかったが、少なからず抵抗はあった。それは、単純に他人の身体の中に異物を射れる事への嫌悪感からのくるものだろう。一分程の静寂の後、彼女は小さく擦れた声で、「私、好きな人ができたの」と言った。それはどこか罪人のようで、けどどこか安堵したような声音だった。それを聞いて、私は彼女の髪を二度撫でて、「知ってた」と言った。それと同時に彼女の耳に小さな針が無機質に貫いた。
今の彼女には、その時開けた穴はもうない。それとはまた別の箇所に大きすぎず、小さすぎず、だけど致命的な穴が開いている。そこに刺さるアルミ製の骨は赤く染まり、昔、童話で見た小さな天使の持つ矢に視えた。だから私はその骨を彼女の首から抜き取り、赤く染まった『ソレ』を袖で拭いとった。
「彼女はクピドの戯れに踊らされたのね」
そう呟いた。それは彼女に対して言ったのか、はたまた自分に対して言ったのかは分からない。次の瞬間にはこんな言葉出ていたのだ。
袖に染まった赤い『ソレ』を見つめ、私にも同じものが流れているのだ、とどこか遠目に見つめ、他人事のように見据え、その拭った骨をこれでもかというくらい強く握りしめた。
どれくらいの時間だろう。多分、一分程の時間、そのままの状態を続けた私は、彼女の動かない身体を、まだ温かい身体を後ろから支え、昔と同じように彼女の髪を束ね、シコリの残る冷めた耳たぶに優しく手を添え、その鋭利に尖った骨を刺した。少し硬い感触と人間独特の柔らかさに私の指は震え、恐れたが、それでも適度な力で彼女の耳を貫いた。そこからは『ソレ』は流れる事はなかった。そして、穴が開いてるのを確認すると、私はポケットから赤いハートのピアスを取り出し、彼女に着けてあげる。そのハートの赤はどこか『ソレ』の赤と似ていた。
そして、私は彼女を元の位置の戻し、その骨を最初に有った喉元に再度刺し入れ、もう見る事はない彼女を一度見つめ部屋を後にする。
外に出ると先程の満月が嘘のように大雨が降り注いでいた。これが彼女によって齎された雨だと思う自分を鼻で笑いながら、自分が傘を持ってきてない事を今になって思い出す。少し、頭を巡らしていると、目の前のゴミ置き場に傘が放置されているのが見えた。その傘にはとても大きな赤いペチュニアの花が描かれ、骨の部分は一か所無くなってはいたが、傘として機能するので、それを差して雨の道を一人で歩く。
傘を差して、雨の中、彼女のマンションを一度見て――。
「貴女の真面目さが愛おしいわ。姉さん」
その一言だけ残し、私は暗く、長い雨の道を歩く。
雨が降っています。
雨です。
この雨はどんな傘を差そうが防止できそうにないのです。