0706:久しぶりの声
出発を翌日に控え、アルヴィストはイルクリスの部屋の前にやってきていた。扉の向こうからは気配がある。そして魔力も感じられる。
女中などとは話をしているのだろう。扉越しにではあるが、小さく話をする声が聞こえていた。
どうするべきか。
声をかけるべきか、それとも黙っているべきなのか。
声をかけたところで、恐らくはイルクリスを怯えさせてしまうだけだろう。無用に怖がらせる必要はない。
そう思いながらも、アルヴィストは扉をノックしようと、手を伸ばす。
これから、しばらく、長い間会うことができなくなる。
元々、扉越しにしか話しかけることができていなかった。直接会うことなど、もう何年もできていない。
弟の顔が、その姿が、幼いままで止まっている。それがアルヴィストは非常に、もどかしかった。
深呼吸して、アルヴィストは小さくノックする。
そのノックに反応して、扉が小さく開く、アルヴィストの視線の先に、イルクリスの世話をしている女中の顔が映った時、彼女は少し驚いたような、それでいて申し訳なさそうな顔をした。
「アルヴィスト殿下……あの……イルクリス殿下は」
「うん。わかってる。イル、起きているね?」
扉越しにアルヴィストの声を聞いたからか、イルクリスの気配が慌ただしく動き出したのが感じ取れた。
恐らくはベッドの中に入り込んだのだろう。毛布を頭からかぶり、酷く怯えているのが扉越しからでもわかる。
これでもまだましになったほうだ。昔はアルヴィストの、男性の声を聞いた瞬間に大きな声を上げて泣き出していた。
疲れて泣き止むまで、ずっと、ずっと。
それに比べればまだ随分とマシになったほうだ。まだ怖がるだけで済んでいる。こちらの言葉を告げることができるのだから。
「殿下……その……」
「うん。部屋には入らないよ。イル、そのまま聞いて。僕は明日から、王立学院に行く。しばらく、この城に帰ってくることはできない」
怯えているのは変わらない。しかし、言葉を聞こうとしている気配は感じ取れていた。息を殺しているだけなのかもしれないが、声が部屋の中に静かに響くことを拒絶するようなそぶりもない。
アルヴィストは部屋の中の沈黙を、肯定的に受け取ることにしていた。
「僕はしばらく、この城に戻ることができない。僕がお前たちを、姉弟を守ってやることはできない」
あの時も、守ってやることができなかった。そのふがいなさは今でも覚えている。
だからこそ今まで鍛えてきた。あの時のような無力感を感じたくないからこそ、アルヴィストは日々肉体と心を鍛えてきたのだ。
「イル、城に残る姉弟の中で、お前が唯一の男の子になる。今はまだ、お前は怖くて怖くて仕方がないと思う。周りの男の人すべてが怖く見えると思う。けど、いつか、その怖さを乗り越えて、お前も姉弟を守ることができるようになって欲しい」
メイレインがアルヴィストに姉弟を守るその役目を託したように、アルヴィストはイルクリスにも、姉弟を守る様に頼みたかった。
いつの日か、アルヴィストは王族としての務め以外の使命を全うしなければいけない時が来るだろう。
それがいつかはアルヴィストにもわからない。神から託された勇者の使命。その使命が降り注ぐのがいつの日なのかは見当もつかない。
いつかやってくるその日、アルヴィストは王族としてではなく、勇者として行動しなければならなくなる。そうなれば、この城に残る家族を守ることはできなくなる。
自分が姉弟を守ることができなくなるまの間に、少しでも強くなって欲しいと願って、アルヴィストは弟に言葉を綴っていた。
沈黙が続く中、アルヴィストは返事を待たなかった。こうして話しかけられるだけでも怖いだろうに、それを必死に耐えてくれるだけでもありがたいというものだ。
扉越しの女中は涙すら浮かべて嗚咽している。イルクリスへ向けるアルヴィストの言葉に思うところがあったのだろうか。
言いたいことは言った。ここから離れるべきだとアルヴィストが踵を返そうとしたとき、小さな、本当に小さな声が、部屋の奥から聞こえてくる。
「にぃ……さま……ごめん……なさい……こわくて……ごめんな、さぃ…………!」
震えながら綴られるか細い声。鳴き声ではないまともな声を聞いたのは、いったいいつぶりだろうか。
あの時よりも、少しだけ、ほんの少しだけ低くなった声。きっと、背丈もそれに応じて大きくなっているのだろうと想像して、アルヴィストは目頭が熱くなる。
扉越しの女中は目を見開いて、涙をこぼしながらその場に蹲ってしまった。
「謝らなくていい。怖いっていうのは大事な感情なんだ。今は、ここで、お前の声が聞けただけで十分だよ」
嘘はなかった。心からの言葉だった。弟の声を久しぶりに聞けた。それだけで十分だった。
「イル、まだ怖さが勝ってるだろう。でもいつか、その怖さに勝ってほしい。時間がかかってもいい。ゆっくりでいいから」
アルヴィストに帰ってくる言葉はなかった。だがそれでもよかった。アルヴィストは泣いている女中に小さく声をかけてから、弟の部屋から遠ざかる。




