今川の死者
北条家の調停以降も、義信は積極的に今川家に調略を仕掛けていた。
その甲斐あってか、家臣たちから続々と報告が寄せられる。
「今川の家臣たちが当家になびき始めております」
「西遠のみならず、北遠、中遠までもが我らにつきました」
「おお……。これで遠江の半分は武田についたということか……」
曽根虎盛が感嘆の声を漏らす。
「されど、東遠の朝比奈殿は頑としてこちらになびきませぬな……」
「見上げた忠臣よ……が、仕える主があれではなあ……」
ううむと唸る飯富虎昌。
朝比奈泰朝は東遠江の要衝、掛川城の城主だ。
泰朝を調略できれば遠江一帯に影響を及ぼせると思っていただけに、泰朝の調略が急がれていた。
「しかし、今川の重鎮、岡部元信は当家にお味方するとのこと!」
「おお……!」
「あの岡部殿まで……!」
岡部元信内通に驚嘆する家臣たちを尻目に、長坂昌国が一枚の文を取り出した。
「そうなると、この書状があると紛らわしいですな……」
見覚えのある書状に、曽根虎盛が苦笑いを浮かべた。
この書状は義信が三河侵攻を咎められた際に、信玄に見せたものだ。
長坂昌国に命じてニセの書状を作らせたと聞いたときは驚いたが、本物の岡部元信の書状がある以上、ニセの書状は無用のものとなっていた。
「では、それがしが処分してきましょう」
雨宮家次が書状を持って席を立つ。
そんな中、曽根虎盛がふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、岡部殿と同じく朝比奈殿の書状も偽造してましたな。あれはいまどこに……?」
一同が首を傾げる中、旅装束の真田昌幸が戻ってきた。
「若、例の書状を届けて参りました」
「ご苦労」
二人のやりとりに嫌な予感を覚えつつ、曽根虎盛が尋ねた。
「……………………若、いったい、どこの誰に書状を届けさせたのですか……!?」
今川氏の拠点、駿府館。
氏真の元に、一通の書状が寄せられた。
「これは……間違いないのか!? 泰朝が武田に内通しているというは……!」
「はっ。武田の手の者が落としたものです。まず間違いないかと……」
「なんということじゃ……」
朝比奈泰朝は今川家譜代の家臣だ。
その朝比奈泰朝までが武田に通じていたとは……。
信じたくない。信じたくはないのだが、泰朝が武田に通じていたとすればすべての辻褄が合うのも事実であった。
「しかし、これは朝比奈殿の字ではないような……」
疑念を示す家臣に、氏真は首を振った。
「本人を問いただせば済むことよ。……泰朝を呼べ。今すぐに!」
「今川氏真のところに届けた!?」
思わぬ報告に、曽根虎盛の声が裏返った。
「いったい、なにゆえそのようなことを……」
「今川の当主をすげ替えるには、家中の不和を煽るのが手っ取り早いからな……。三河、遠江の一件で氏真が朝比奈泰朝に不信感を持っていることはわかっていた。あの書状で氏真と朝比奈泰朝の仲に亀裂が生じれば、儲けものだろ」
「しかし、そううまくいくでしょうか……。それがしの字ゆえ、今川家の者が見ればすぐにわかってしまいましょうに……」
不安を漏らす長坂昌国。義信家臣団が言葉に窮する中、息を切らせて小姓が入ってきた。
「御免! いっ、今しがた、今川氏真が朝比奈泰朝を誅殺しました!」
「なっ……!」
「なんじゃと!?」
家臣たちに動揺が走る。
朝比奈泰朝は東遠江の要衝、掛川城の城主であった。
その朝比奈泰朝が今川氏真に謀殺されたとなれば、遠江に与える影響は計り知れない。
元より、遠江は今川派と反今川派で揺れ動いていたのだ。
朝比奈泰朝という今川の重しがなくなれば、遠江は自然と武田に傾くことになるだろう。
また、遠江が武田の手に落ちれば、今度は駿河の国衆もこちらに尻尾を振るようになる。
そうなれば、次はいよいよ今川家当主の席に手が届くというものだ。
「氏真が朝比奈泰朝を討った以上、今川家臣も続々と氏真を見限るはずだ」
家臣一同を見回し、義信が声を張り上げた。
「今こそ今川を獲る好機だ。なりふり構わずガンガン調略を仕掛けていけ! ここが正念場と心得よ!」
「「「はっ!!!」」」




