8月30日 曇り時々雨 『雷光浴』
Bさんが働くガソリンスタンドは、片側三車線の国道の大きな交差点の角地にあった。国道側からもそれに交差する道路側からも車が入れること、そして高速道路のインターが十キロ圏内にあることもあって、大型トラックの受け入れも五台以上対応できる大きなガソリンスタンドだった。Bさんが働くそのガソリンスタンドがある交差点には、Bさんがずっと気になっているものがあった。それは、その交差点の横断歩道近くのガードレールにビニール紐で縛りつけられていた花束だった。Bさんがガソリンスタンドで働き始めた時からその花束はそこに縛りつけてあって、その時点でその花束は萎れて茶色くてしわしわした花の束で、花束を包む包装ラップも雨風に晒されて折り目が無数についていた。フリーターのBさんはそれを毎日のように見ていたが、花束はこれ以上ないくらい摩耗していたがやはり道路に手向けられた花束というのは存在感があるもので、毎日様子の変わらない花束なのだが、Bさんはなんとなくそれを毎日気にかけて見ていた。
Bさんがそのガソリンスタンドで働き始めて三ヶ月が経過した頃のことだった。Bさんが働き始めた時からあるその草臥れた花束は、Bさんが知る限り一度も誰かが花束を取り替えに来たことがなく、しかも誰も手を合わせているところも見たことがなかった。その頃には流石にBさんも何かがおかしいとは考えていたのだが、別にBさんが新しい花束を手向けるわけでもなく、ただ気にかけるだけだった。その日は日が出ている間はひりつくような日光が肌を刺していたが、夜の帳が西の空から迫り始めると、どこからともなく薄雲が空を覆い始め、遠くに見える山間の上空で雷が光り始めた。
「雨降るんだっけ今日…… 」
スクーターで通勤していたBさんは、シフト終わりまでに雨が降り始めないと良いな、今日雨合羽持ってきてないんだよな、などと考えながら、あの花束をぼんやりと眺めていた。気の抜けたいらっしゃいませの挨拶を客の車も見ずに繰り返すBさんは、このガソリンスタンドで働いて五年目になる先輩が後ろから近づいて来ているのに気付かなかった。
「あんまり」
「おわぁ! 」
後ろからかけられた声が先輩のものと気付いて、Bさんは詫びた。
「ごめんごめん、そりゃそうだよな」
先輩もBさんに詫びた。そして先輩はBさんの横に並び、手を後ろに組んで右足に重心を乗せた。
「あれが気になるか」
あれ、としか先輩は表現しなかったが、その目線の先の広い風景の中で唯あの花束を指していることは明白だった。
「あっ、いや」
「でもな」
先輩はBさんの返事を特に待つわけでもなく続けた。
「あれは、あんまりジロジロ見ない方がいいぞ」
Bさんは、最初その言葉の意味がわからなかった。先輩の顔と花束を交互に見て、
「あれっすか?」
と問い返した。先輩はBさんと目線を合わせないまま、うん、と頷いた。しばらく二人は花束を見つめ、不意に先輩がふっと笑った。Bさんが先輩の顔を見ると、先輩はニヤッと笑ってトラックの給油コーナーの方へ走って行ってしまった。わけもわからずBさんがまた花束を見ると、ひときわ眩しく雷が光り、すぐに空腹の腹のような雷の音が鳴り響いた。ほんの少し先輩と話している間に、あっという間に雷雲は近くまで迫っているようだった。
それからまもなくして、Bさんの願いも虚しく雨がぱらつき始めた。給油コーナーは屋根があるから良いものの、車検受付やタイヤ販売をしている事務所との間には屋根がないので、小走りをする羽目になった。そうして何度か給油コーナーと事務所を行き来しているうちに、またあの花束に目が留まり、Bさんは違和感を感じた。目の前の国道は渋滞していて、テールランプの赤が目に眩しい。その中にちょこんとある花束が、いつもと様子が違うような気がした。給油待ちの車がいないことを確認すると、Bさんは花束に向かって歩み寄った。近づくにつれて花束が大きく見えてくる。そして、その中の一本が、美しく咲いていることに気づいた。
「え」
Bさんは歩みを止めた。今まで枯れていない生花があったことなど一度もないその花束の真ん中に、青々した茎が一本伸び、水色の四枚の花弁を愛らしく広げた花が二〜三個咲いている。通りすがりの子供が雑草の花でも指したのだろうかと思った。だが、そんなことをする子供がいるのかも謎だ。じゃあ誰が、何のために、どうしてこんなことをしたのか。その時また雷が光った。一瞬視界がホワイトアウトし、また視界がテールランプの赤に染まる。そして花束には白い大きな百合の花が増えていた。戸惑いと高揚がBさんを支配し、Bさんは花束に引き寄せられるようにまた歩みを進め始めた。何が起きているんだ、この花束には一本も枯れていない花なんてなかったはずなのに。また雷が光った。今度は二回三回と連続して光り、先程より近くで思い切り叩いた和太鼓のような音が響いた。視界が元の色に戻ると、メインの花々の殆どが、花屋で買われたままの色味と潤いを取り戻していた。仕事も忘れ、Bさんは花束の目の前まで来ていた。今やBさんは雨にひどく濡れ、制服のつなぎを濃い色に染めていたが、それすら忘れていた。その時、また雷が光った。そして、そこには、花束の前に横たわる女がいた。白いワンピースは布地の大部分が焦げていて、歩道に大きく広がっている。長髪の頭はガードレールの下で車道に投げ出されていたが、一段低くなっている車道の段差で白い首が生々しく曝け出され、その先にある頭の細かく縮れた髪の間から、水色に濁った眼球がBさんをじっと見つめていた。Bさんは歩道で歩行者信号が変わるのを待つまばらな人々の視線も気にせず、後ろに尻餅をついて絶叫した。
Bさんが事務所に逃げ帰ると、件の先輩がシフトを上がって着替えているところだった。ずぶ濡れで呼吸を荒げて事務所に飛び込んで来たBさんを見て、先輩は言った。
「見ちゃったか」
Bさんはそれを聞いて理解した。先輩はあれを見たことがあるし、何か知っていると。
「何すかあれ、なんか知ってるんすか」
先輩は意味深に目線を落とした。
「良いこと教えてやるよ」
Bさんは先輩をじっと見つめて継がれる言葉を待った。先輩はすっと息を吸って、夕方のようにニヤッと笑った。
「少なくとも、俺が働き始めてから、あの交差点で死亡事故は一回も起きてない。ここで十年以上やってる店長も、死亡事故があったなんて話は聞いたことがないって言ってた」
それから一週間はあの花束は咲き続け、また時間をかけて枯れていき、三週間程で元の萎びた花束に戻ったそうだ。




