忘れ物
教室は暖かい空気で満たされている。部屋の端に設置されたストーブが低い駆動音を響かせていた。暦の上では春であったが、外では未だにコートを手放せないような季節であった。
教室の中には一人の男子生徒が椅子に腰掛けている。痩せ型で、大人びて見える以外はあまり特徴らしい特徴はない、彼はそんな男であった。
彼は風紀委員会の活動で作られた拙い出来の広報誌の上に指を滑らせていた。その表情はどこか懐かしむようで、どこか名残惜しさを感じさせた。
「あれ、まだいたんだ」
教室の引き戸を開けて、見知った顔が此方を見ていた。背の高い女子生徒であった。手には忘れ物だろうか、部活で使うユニフォーム等が入った紙袋を提げていた。
「ああ、そろそろ帰ろうかと思ったんだけども」
「それ見つけて読み込んじゃったの?」
男子生徒は乾いた笑いで肯定した。
「辻本、結構楽しそうだったもんねー」
「……そうか?」
辻本と呼ばれた男子生徒は意外そうに首を傾げていた。
「私にはそう見えたなー。いい加減帰るかな」
「おう、吉川もお気をつけて」
辻本は背の高い女子生徒、クラスメイトの吉川にそう声をかけた。
「そういうのは卒業式までとっといてよ。じゃあ、また今度ね」
「おう、またな」
教室の戸が音を発てて閉まる。少し間をおいてから。
「さて、俺も帰るかなぁ」
少しばかりの荷物をまとめて、読んでいた冊子を元の場所へ戻す。
「おっと」
読んでいた冊子を落としてしまう。ページはパラパラと捲れ、編集後記の面で止まった。そこには、辻本を含め編集に携わった役員の名前と一言が綴られていた。
「……」
その一つに辻本は目を細めた。
『思い出深い活動となりました。皆様、お疲れ様でした』 片桐七世
落とした冊子を戻し、ストーブの電源を消した。教室の電気のスイッチを人差し指で押した。
窓から外の景色を見る。 一階のこの教室から見る風景は大して面白みのあるものではなかった。しかし、この風景を二度と見ることがないと思うと少し寂しかった。
廊下へ顔を出すと冷えた空気が吹き込んできた。身を震わせながら人気の無い廊下を歩く。学校自体はもう必要な授業を終えて休みの期間に入っている。
ここに来る必要のある人間といえば、辻本や吉川のような忘れ物の処理をする者だけである。
「結構長居してしまったな」
独り言は冷えた空気に反響して廊下に響く。玄関へ向かう足音はいやにコツコツと大きく聞こえた。
「寒いな……」
辻本は冷えた指先をコートのポケットに突っ込んだ。指先に固い感触。
「ん?」
それは風紀委員会に宛がわれた教室の鍵であった。先生から借りて、戻すのを忘れていたのである。辻本は何度かこの鍵を持ち帰ったことがあるため、大した問題には感じなかった。
『また、返しに来ればよい』そう思い、忘れないようにとそれをコートに突っ込んだ。
薄暗く、静か過ぎる廊下を歩く。ふと、辻本は違和感を覚えた。一つ、足音が余分に聞こえたのだ。それは丁度、二階からの階段の前を横切ろうとしたときであった。
耳を澄ませると、確かに足音が聞こえてくる。どうやら、二階から音がしているらしい。
「まだ誰かいるのか?」
ぼそりと呟いた。段々と足音は近づいてくる。このままここで立っていたら気味悪く思われるだろうか。そんなことを辻本は薄ぼんやりと考えていた。やがて、足音が階段の踊り場を差し掛かった。
「……片桐?」
その足音の主には見覚えがあった。
若干無愛想に見えなくもないが整った顔立ち。髪はショートの黒。少し小さめの背丈だが、か弱い印象を与えない、そんな女生徒であった。彼女の名は片桐七世。この俺、辻本恭介と同じく風紀委員会の腕章を付けていた同志である。そして、
「あ、先輩……」
「お、おう」
彼女は俺の後輩であり、
「……久しぶりにどっか寄ってきませんか」
「は!?え、いいけど……」
昔、俺は彼女に告白し、振られたことがある。