堕ちた聖女は秘かに笑う
静まり返った室内に靴音だけが響き渡る。壁際に身を寄せる観衆は、これから起きる事を見逃さないように、息をするのも忘れるほど強く前を見据えている。
堂々とした足取りで中央を歩く騎士が二人。そしてその間にはみすぼらしい恰好をした少女が一人。
靴音が止むのと、重いものが床に叩きつけられるのは同時だった。
夜空に輝く星のようだと謳われた銀の髪は短く切られ、夜空に輝く月のようだと称えられた瞳は痛みで歪み、雪のように白い肌とそれを彩る薔薇色の頬は、見る影もなくやつれている。
かつて聖女と称えられた少女の無残な姿に、誰もが息を呑んだ。
一体どれだけの罪を彼女が起こしたのか、悲惨で、残酷な想像が脳裏を巡る。
「ミリアム・アーロン。貴様が何の罪で捕らえられているのか理解したか」
観衆の視線が一点に集中した。
部屋の奥、一段高くなっているところには豪奢な椅子が置かれており、その上には、まだ二十にもなっていない、若き王が座っている。苛立ちと憎しみを込めた視線が、床の上に這いつくばるミリアムに注がれている。
「いいえ、陛下。私にはわかりません」
「まだ白を切るつもりか」
王が憎々しげにミリアムを睨んでも、ミリアムは首を横に振るだけだった。伏せられた瞼の中で、ミリアムの瞳がどんな色を湛えているのかは誰にもわからない。
ただ立ち上がる事すらままならないとばかりに、ミリアムは床に手をついている。
「私の愛する女性が貴様の罪を見つけだした。まず、前代の王を殺し、大臣を殺し、隣国に内乱を起こさせた。全て心当たりがないと言うつもりか」
「陛下の愛する女性など、私は知りません」
「貴様が彼女を虐げていたという報告も上がっているぞ。それでも尚、認めぬつもりか」
「知らないものは認めようがございません」
静まり返っていた室内にざわめきが生まれる。もしかして、そんな言葉も出てくる。
彼らはずっと、ミリアムを聖女として見ていた。これほどの扱いを受けている彼女を見ても尚、なにかの間違いなのではと思ってしまう。
ミリアムは生まれた時から聖女だった。触れるだけで与えられる癒しの力、先を見通す予知の目、貴賤の区別なく差し伸べられる優しい手。
誰もがミリアムに焦がれ、その手に触れて欲しいと願った。
だから、全てを否定するミリアムの姿を見て動揺が生まれるのは、仕方ない事だった。
「静まれ!」
王の声に、しんと静まり返る。
だが声が止んでも、彼らの瞳に現れた懐疑は消せない。じっとりとした視線に包まれて、王は舌を打つ。
「良いだろう。ならば貴様に証拠を見せてやろう」
騎士が王の前に膝をつき、手にもっていたものを差し出した。まず目に入ったのは、赤い布。
そして騎士は恭しく布の中身を王に渡した。
王の手の中に収まったのは、白く輝く小さな宝玉だった。
誰も見たことがない代物に、皆が目を瞬かせる。一体どういうことかと問うように、王と宝玉を見つめた。
「これは新しく開発されたものだ。貴様も知らなかっただろう」
「そのような怪しいもので、私を断ずるつもりですか」
ミリアムの訴えを、王が意に介す事はない。
王はまるで決められた手順を守るかのように、ただ無言で宝玉を高く掲げた。
淡い光が次第に強くなり、宝玉から発せられる光が白い壁に反射し、そこに何かを映し出させた。
薔薇の咲き誇る美しい庭に、栗色の髪を持つ少女と、罪に問われている、聖女だった者が立っている。
二人の口は動いているが、何を喋っているかはわからない。ただ二人の様子だけが、壁に浮かび上がっていた。
雪のように白い肌を持つ手が、日に焼けた少女の頬を打ち、終わった。
元の白く滑らかな壁に戻ったところで、王がミリアムに向けて勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「さて、これでも知らないと言うつもりか」
「勿論、知りません。陛下、その様に不可解なものだけで、私を断罪しているのですか」
「無論これ以外もある。だがそれは国の内情に関わるものだから、安易に人目には晒せぬ」
「では、陛下と、その愛する女性以外に私の罪を知るものはいないという事ですか」
静まり返っていた室内に、再度ざわめきが生まれる。
先ほど目にしたものは、現実で起きたものだという確証が彼らの中にはない。
初めて見る宝玉に、初めて見る異質な情景。それを鵜呑みにしろというのは、あまりに無茶が過ぎる。
「そんなわけがないだろう。でなければ騎士団や、貴様を拘束していた教会の者が納得しない。全て納得済みで、貴様を捕らえた」
王の否定の言葉に、何人かが安堵の息を零した。
聖女を疑いたくはない、だがすでに彼女は罪を犯したものとしてこの場に連れてこられている。王か、聖女か、選べと言うのなら答えは決まっている。
だからこそ観衆は、自らの中に罪悪感が生まれないように、決定的な罪を見せつけてほしいのだ。
「では、陛下。私の罪を見つけたというものは、陛下の愛する女性以外にはいますか?」
「いいや、あいつが見つけてこなかったら、誰も知らぬまま、貴様は聖女として君臨していただろう」
ミリアムの顔が上がる。開かれた瞼の先には、悲しみも、苦痛も、憎しみすらもない。無機質な、何も見ていない瞳は、全てを諦めたようにも見えるし、何にも興味がないように見えた。
その異様な瞳に、王が息を呑む。
「それはとても良いことを聞きました――アデリア!」
ミリアムが叫んだ。何事かとミリアムに集中したせいで、誰もが反応できなかった。
観衆の中にいた女性が一人、素早く前に躍り出たのに、対応するのが一拍遅れた。
王の前に膝をついていた騎士は王を守ろうと腰を上げ、ミリアムの傍らに立っていた騎士は、剣の柄に手をかけたが、手遅れだった。
女性が捕らえられた時には、全てが終わっていた。
「それではご機嫌よう」
にこりと、慈しむような優しい笑みを浮かべて――
――ミリアムは天井から落下してきたシャンデリアに押しつぶされた。
◇◇◇◇
小鳥の囀る音に、ミリアムは目を開けた。十になったばかりのミリアムは傍らに立つ女性に微笑みかける。
「アデリア、今から言う事をよく聞きなさい」
「はい、聖女さま」
「まず、今の王は五年以内に殺しなさい。でないとあの者は敵国からの姫を受け入れて国を亡ぼします。次に、大臣を六年以内に殺しなさい。彼は我が国で内乱を起こすでしょう。そして七年以内に隣国で内乱を起こしなさい。あの国は我が国を狙っています。早い分には構わないけれど、順番は守ってください。でないと、国が滅びます」
「わかりました、聖女さま」
アデリアと呼ばれた女性は深々と頭を下げた。聖女に何よりもの忠誠を誓う彼女は、言われた言葉の意味までは吟味しない。ただ命じられた事を、命じられたままに遂行するだけだ。
聖女と呼ばれたミリアムは、触れるだけで人を癒す力を持ち、まるで見てきたかのような予知をする。
実際それは正しく、何も間違ってなどいない。
ミリアムは生まれた時から異質な力を持っていた。産み落とした母の傷を一瞬で治し、教会の前に捨てられた後も、ミリアムに触れた者の傷は全て塞がった。
そして、ミリアムにはもう一つ不思議な力があった。まるで見たかのように語られる予知。
事実、ミリアムは見てきたのだ。
ある時は、愚王の手によって国が割れ、聖女であったミリアムを取り合った挙句相手に渡してなるものかと殺された。
ある時は、野心を持つ大臣が幼い王に変わって玉座につこうと内乱を起こし、聖女であるミリアムが王を治さぬようにと真っ先に殺された。
ある時は、若い王しかいない国だという事で隣国が攻めてきて、聖女であるミリアムが人々の救世主にならぬようにと殺された。
殺される度に、ミリアムは十歳に戻った。
どう行うのかが最適かを探りながら、長生きできるようにと、何度も何度も殺され続けた。
ミリアムが望むのはただ一つ、幸せな最期だけだった。
誰にも殺されないで、笑って死にたいと、それだけを願っていた。
だからミリアムは今度の生でも予知をする。
自らが幸せになるために。
「それから、クロフィード男爵家の令嬢のミッシェルも殺しなさい。彼女はこの国にいらない混乱を起こさせます」
「わかりました、聖女さま」
ミリアムは笑う。慈しむように、優しい笑みを浮かべて、今度こそ幸せに生きてみせると心に誓う。