ふたりは聖夜に練り歩く
駅の入り口付近から街を眺めていると、赤や青、時々緑色の街明かりがぼやけて見えて、なんだか幻想的だ。
いや、そもそも今日はすべてが幻想的だ。
クリスマスという非日常の中ではなにもかもが尊い存在へと変貌を遂げる。
普段はむかついてしょうがないカップルのいちゃつく姿も、織姫と彦星の感動的な再会に早変わりするし、生足を雪上に晒しながら居酒屋の呼び込みをするミニスカサンタのお姉さんは、まるで本物のサンタクロースのように、人々に笑顔と元気を配っている。ような気がした。
そんな摩訶不思議で素敵な聖夜に恋人に会えたなら、それはそれは感動的で魅力的な時が過ごせるだろう。
駅の改札を抜けて足早に歩く人々を見送る。ぽつりと立ち止まる僕に目もくれず、さっさと立ち去っていく。きっと彼らは誰かをどこかに待たせているのだろう。対照的に、スマホに視線を落としたまま動かない人も大勢いる。彼らはだれかがここに来るのを待っているのだろう。僕もこちらの派閥に属している。恋人、若しくは友人や家族が来るのをじっと待つその姿は、ペットショップの動物を思い起こさせる。一人、また一人と相方が現れた人から駅を去っていく。その光景はまさに引き取り手が現れた瞬間そのものだ。
数が減るにつれて、残り物の僕らは次第に結束を強めていく。
「頑張ろうな」「おう」「抜け駆け、すんなよ」「へへっ、お前こそ」
そんな声が聞こえてくるようだった。実際、誰もそんなことは言っていないし声も聞こえない。寂しい成人男性の妄想。そうして妄想の中で10分ほど戯れていると、ついに悲しいペットショップの動物は僕だけになっていた。
結束が強くなったって、所詮は他人。裏切るし、裏切られるのが人間なのだ。僕は勝手に世界の理を痛感していた。
ひとしきり嘆き終えたあたりで、見慣れたマリンブルーのコートが目に入った。
僕の彼女、エリカだ。
颯爽と雪の降る町を歩く彼女は、僕より二つ先輩だった。出会ったのは僕が中一の時。当時から真っ直ぐで男勝りな性格だった彼女は性別を問わず人気があった。そしてクスリとも笑わないことで有名だった。それがクールだという奴もいれば、無愛想だと毛嫌いする奴もいた。僕はと言えば、そんな彼女の笑顔が見たくて四苦八苦するひょうきんな奴だった。
上級生のクラスへ昼休みのたびに出向きエリカに挑む僕の姿は、いつからか注目を集め、エリカが卒業するまでに笑わせることができるか賭博が行われるまでに人気を博した(通称エリカチャレンジ)。割合にして九十パーセント以上の人が『笑わせられない』ほうに賭けていた。全ての下馬評は覆るためにある、とは誰の言葉だったか。そんなこと誰も言っていないかもしれないが、とにかく、それが起こったのは二学期の終わり、終業式の放課後のことだった。
僕はその日もエリカの教室を訪ねていた。早めの放課に加えて初雪を観測したこの日、昼間だというのに薄暗い教室は静かで知らない場所みたいだった。僕がドアを開けたとき、たった一人で教室の後ろに鎮座しているエリカをみたとき、昔読んだ笠地蔵を思い出した。なぜかは今でもわからない。
むんとした表情で窓の外に目を向ける彼女のもとへ歩み出て、僕は気をつけの姿勢をとった。
「エリカ先輩、面白い話するから今日こそ笑ってください」
まるで今気づいた、とでもいうようにたっぷり時間を使って彼女はこちらを見上げた。
「また君? もう冬休みだよ? 飽きない?」
「飽きない。今回ばかりはマジですから。本当にオモシロイ話ですから」
「へぇ。まあいいよ、聞かせて」
かすかにエリカの瞳に興味の色が浮かんだ。本当はずっと浮かんでいたのかもしれない。
僕は大きく息を吸い、吐いた。アーチェリーの矢を射る瞬間のように、空気が静止した。
「このあいだ僕、街を歩いていたんです。そしたら向こうから犬を連れたお姉さんが歩いてきて、思わず足を止めたんですね。僕の近所にこんなかわいい子が住んでたのかよ、って。まぁ、お姉さんがかわいかったのも理由の一つですけど、その犬、真っ白だったんですよ綿雪みたいにふわふわで。今日の雪とおんなじです。で、撫でていいですか―ってお姉さんに確認とってから近寄って見たらその犬……」
一度間をはさむ。誰かが生唾を飲み込む音が響いた。僕だった。
「尻尾まで真っ白だったんですよね」
一息に言いきった。僕はといえば、ショートケーキにいちごを乗せる最後の作業を前にしたパティシエの気分だった。彼女はぽかんとした表情で僕を見上げたままだった。次第に目から期待の色が失せていった。
「それだけ?」
その言葉を待っていた。僕は丁寧かつ迅速に仕上げのいちごを乗せる。
「これがホントに尾も白い話、なんちゃって」
僕が言い切ると、エリカは俯いた。髪の毛が垂れ下がって表情が読めない。いつもなら即座に「つまらない」と一蹴されるのだけれど、今日は少し雰囲気が違った。
僕がそっと声をかけると、エリカはゆっくり顔を上げた。
その時の表情を、僕は死んでも忘れない。
笑わないよう口を必死に結び、上がる広角を両手で無理やり押させつけ、肩をぷるぷる震わせてこらえている。見た事のない彼女の表情に、僕は驚きつつも素直に可愛いと思った。
エリカはついにこらえれずに上唇と下唇を離すと大きく血を開き、とてもきれいな声で笑った。
同時に、午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。今日は終業式だけなので授業はない。特に意味のないチャイムだった。まるで僕らが過ごしてきたエリカチャレンジみたいだった。
チャイムが鳴り終わると同時にエリカもひとしきり笑い終えて、僕を優しいまなざしで見つめた。
「ほんと、くっだらない。くだらなすぎて笑える。どうやって考えるの、そういう話」
「道を歩いてて、目に入ったものから、こう、適当に?」
「あはははっ、もう、君ってほんと変な奴。君の眼が特別なのかな? 面白いものを見つけられるのかも」
憧れの先輩を笑わせることに成功した僕は勢いで思いもよらない言葉を口にした。
「……それじゃ、一緒に帰りませんか」
半笑いを浮かべたままエリカは「え?」と半ば反射的に聞き返した。しばらく経つと、ほんのり顔が赤らんだ。
「一緒に帰れば、なんで面白いことばかり見つけられるのか、わかるかもしれませんよ」
「……ふふ、別に君の話は面白くはないけどね」
返す言葉がなくて、自分の軽はずみを恨んだ。ひょうきんな後輩の立場に満足していればいいものを。まさかそんなところで男気見せるなんて自分も予想外だ。
「けど、いいよ」
「え?」
「くだらないことも案外面白いって分かったし。一緒に帰ろ」
そういって彼女は優しく微笑んだ。
僕らは揃って人気のない校舎をあとにして、僕はいつもより張り切って饒舌に喋り、エリカはときどき舞う雪に目を細めながら僕の話を聞いてくれて、そんな姿に見惚れて僕が電信柱に激突したりしながら初雪に足跡を残して家に帰った。
それからぼどなくして僕らは付き合い始め、僕が二十歳になった今も、交際は続いている。
「ふう、寒かった……」
大人になっても彼女は相変わらずの性格だった。
美しい顔立ちに真っ直ぐなブラウンのロングヘアが良く似合う。背中まで伸びた滑らかな髪を木枯らしに躍らせながらこちらへ向かってくる。頭上に掲げた透明なビニール傘にはもっさり雪を積もらせている。
足が長いから一歩が大きく、彼女はすぐに駅へたどり着いた。僕の眼前でぴたりと立ち止まり、ほう、と白い息を吐いた。
「お疲れ様。傘貸して、雪を払ってあげる」
「よいしょ、っと」
エリカは僕が言うより早く傘をたたんで、雪をばさばさと払い落とす。
あまりに近くで払うものだから、僕の足に雪が少しかかった。
相変わらずの傲岸不遜な態度のエリカは謝ることもせず、ため息交じりにごちた。
「……はぁ、遅くなっちゃった」
「ああ、時間? 明日は休みだよ? 別に、何も急ぐことは――」
「……切符買わないと」
「切符? いったいどこへ行くの?」
エリカは綺麗な輪郭に手を添えて目を閉じ悩む素振りを見せた。本気で思い出しているとき彼女がこういう美しい表情を見せることを僕は知っていた。
「なんだっけ、名前……えーと……一回行ったんだよな、名前なんだったっけ、あそこ。こ……こい……?」
「……こいじ?」
「あああ、そうだ恋路駅! 名前がおかしすぎて忘れてた」
「ふつうはおかしな名前ほど覚えてるもんだと思うけどね……」
エリカはその言葉を聞きながすように僕をすり抜けて、券売機へ。
素早く切符を買い改札へ歩き出した。僕もそれについていく。
「なんか、久しぶり……恋路へ行くの」
「まぁ、なんもないしね、あの辺」
「……思い出すなぁ、初めて行った時のこと」
「僕の両親に会ったんだよね」
「めちゃくちゃ緊張してて、可愛かったなぁ……」
懐かしむように小さく口にした彼女の言葉に顔がかあぁっと熱くなった。
「やめてよ、恥ずかしい」
「そして私も緊張してた……。あぁ、なんか、昨日のことのように思い出せる……」
あまりに感慨深く言うものだから、僕はエリカの顔を覗き込んで訪ねた。
「……そんなに印象深かった? 僕の家族」
「また会いたい」
「これからすぐ会えるよ……っと、ほら、電車が来たよ」
滑り込んできた電車のライトが金色に雪を染め上げる。身を切る風にエリカが身を縮めた。
彼女は僕の言葉に答えず電車に乗り込んだ。怒らせてしまっただろうか。
今のように少しでも揚げ足を取ろうものなら、立腹し拗ねてしまうのがエリカの長所でもあり短所でもある。
僕からするとそういう子供っぽいところも含めて可愛いんだけど、エリカ自身はそう思わないらしい。大人っぽくてかっこいい自分に憧れているから、可愛いと素直に褒めればお返しにやわな拳骨が飛んでくる。それでも良く見ると顔が赤くなっていたりするから、まるっきり嫌なわけではないらしい。僕にとってはそんなバイオレンスな照れ隠しも含めたすべてが愛おしい。
揺られること数十分、恋路駅に到着した。
夏は青々とした稲が地面から突き出て、水田に反射した青空が美しいけれど、今はふるいにかけられた小麦粉が大量に降ってきたみたいに切れ目のない丁寧な白が大地を埋め尽くしている。遮蔽物がないので風がもろに吹きすさぶ。凍えそうな風が地表の粉雪を纏ってこちらへ猛進してくる。厚着していなかったら凍死しそうだ。
無人駅の切符入れに律儀に切符を入れるとエリカはやはり颯爽とした足取りで歩き出した。目的地は僕の実家だ。またも無言で歩くこと十分。見慣れた日本家屋が見えてきた。
茅葺屋根の古臭い2階建ての家。屋根にはこんもりと雪が積もり、軒先には巨大なつららが犬の牙のように垂れている。見方によっては質素で慎ましいけれど、僕にはこの建物がどうしようもないほど暖かく感じられた。きっと冬のせいだ。
ぎゅむ、ぎゅむと雪を踏みしめながら玄関へたどり着く。エリカは少しコツがいる引き戸を手間取って開ける。律儀に玄関口で立ち止まると、大きな声であいさつをした。
「おじゃまします。すみません、夜分遅くに! あの、小岩井さん!」
ほぼ叫び声の声量だったエリカの声に呼応して、奥から見慣れた顔が走り寄って来た。サチだ。
僕は腰をかがめ、サチの飛び込んでくるルートに両手を広げて構えた。……さあ、いつでもこい!
「――わん!」
「ぇ……きゃぁっ!」
サチは僕にとびかかると見せかけて、真後ろにいた彼女に飛びかかった。
エリカは靴箱の上に飾っていた幼い僕の写真を眺めていたから、サチに気付かないまま突進を食らうこととなった。ダックスフントとはいえ突進されればかなり重い。エリカはそのまま後ろへ倒れこみ雪の上に柔らかく横たわった。結果、エリカの可愛い声を聞くことができた。サチ。ナイス。
心の中でサチへ賛辞を送っていると、廊下から声が聞こえた。
「こらサチ、行儀の悪さはいったい誰に似たんだか……」
頬が緩み肩の力が抜けた。
顔を見るまでもない、不思議と心が休まるこの声は母のものだ。母はサンダルをつっかけて土間へと降りる。玄関口でサチにぺろぺろ舐められているエリカへ近寄り、しわの増えた手を差し出した。
「えっちゃん、大丈夫かい?」
「すみません小岩井さん……ちょっとよそ見をしてて」
「サチも久しぶりにえっちゃんにあえて嬉しいんだよ。さ、あがりな」
「普通に僕のことは無視したけどね。サチ、僕に会えたことは嬉しくなかったの?」
意地悪な質問をした僕を、サチは不思議そうな眼をして見つめるだけだった。
エリカが丁寧に靴をそろえてすでに廊下へ歩を進めていたので、あわてて後を追う。
「おじゃまします。すみません遅くに」
「いいんだよ、いつだって大歓迎さ」
実家の少し古臭い匂いを嗅ぎながら、僕らは廊下へ進む。
少し前を歩くサチがてちてちと足を踏み出すたびにぎしぎしと音を立てて廊下が軋む。この音が、小さいころは大嫌いだった。不気味で、古くて。友達の家はみんなリフォームをして綺麗になっていくのに、どうしてウチだけ……と、僻んでいたものだった。
けれどこうしてたまに帰ってきたとき、変わらず軋む廊下を今の僕は懐かしんでいる。変わらないものが変わらないままでいられる場所は、人間にとって必要なのかもしれないと今になれば思う。立てつけの悪い玄関の引き戸も、軋む廊下も、のんびりした母親の性格も、変わることを強要されるこの世界で、変わらないままであればいいと思う。
そう、この、古ぼけた障子戸も、そのままで――――。
そう思って手をかけた。
広がるのはいつも通りの居間。カビ臭さが鼻をつく。遅れて灯油と畳の匂い。
目に入るのは見慣れた厚いこたつ布団、山盛りの蜜柑、テレビのリモコン。
3分遅れて色あせた壁掛け時計。
いつもどおり、テレビだけは最新のへんてこな部屋だった。
居間の奥、普段は襖で仕切られている部屋は寝室だ。だが今日は開けっ放しになっている。
その寝室に、以前来たときの記憶と比べて一つだけ変化がおきていた。
僕の寝室だったその部屋に、見慣れない何かがある。
暗い寝室に向け目を凝らす。
部屋の左奥に黒と金の化粧台らしきものが鎮座している。覚えのないその物体は異様な存在感を放って僕を見ている。
こたつのある居間をするりと通りぬけて、ソレのもとへたどり着く。仏壇だった。日頃から手入れされているのがわかる、小奇麗な仏壇だ。
中央に置かれた写真には、屈託のない笑顔を湛える青年の写真がおいてある。
しばらく眺めて思い当たる。僕だ。
気が付くと居間に彼女と母親がコタツを挟んで座っていた。
母親がお茶を淹れたのだろう。湯気の立つ湯呑が二つ、用意されていた。
そこに僕の分は、ない。
受け入れられない現状を置き去りに、二人は会話を始めた。
「わざわざ、今日なんて。いいのよ、えっちゃん。彼氏とデートにも行きたいでしょうに」
「いいえ、そんなことは。それに彼氏なんて居ませんし。私にとっては、キリストの命日というよりは、あいつの命日というほうがしっくりきますから、いいんです」
「なにも、こんな日に死ななくてもよかったのにねえ……。本当に、人に迷惑をかけたままで、あの子は…………」
「そんな……小岩井さん」
「えっちゃんみたいないい子が居てくれたってのに、あの子は、いったい何が気に食わなかったんだろうねえ……」
「……きっと、優しすぎたんですよ。あいつ。私みたいな気分屋にも合わせてくれるし、中学のときだって」
「えっちゃんを笑わせられたことだけが、唯一、あの子が生きて成し遂げたことかもしれないね。ちょうど中学に上がった頃だろう? えっちゃんのお父さんがお亡くなりになったのは」
「ええ、あいつ、そんなの知らずにずっと、馬鹿みたいに私のこと……。なのに私はあいつが辛い時に、なにも……」
彼女が俯くのと同時に、母が口を開いた。普段のおっとりした声ではなく鋭い芯を備えている。
そうだ、生前僕が母に死にたいと告げた時、同じ声を聴いた気がする。僕はようやく、自分が死んでいたことを認めはじめる。
「なぁ、いいかい、えっちゃん。顔を上げな」
母は両手で挟むように彼女の両頬を持って顔を上げさせた。
彼女の泣き顔があらわになる。母は目をそらすことなく、強い眼差しを向けたまま続けた。
「あんたには、あんたの人生があるだろう。あいつには、あいつの人生があった。そのケリを、あいつは自分で考えてつけたんだ。誰のせいでもない。自分の責任と自由でそう選択しただけさ。今になって、その自由や責任を肩代わりしようとしたって無理なんだよ」
「…………」
彼女は唇をキュッと結んでいる。いつか見せたものとは似ても似つかない表情に、息が詰まりそうになる。遅れて、息をしていないことに気付いた。
母は口元をふっと緩ませ、どこか自嘲気味な声で言った。
「だから、せめて、あんたはあんたの人生を、私は私の人生を、自分の責任と自由で生きていかなきゃいけない。あいつのぶんもだ。言ってること、わかるかい?」
「……はい」
きっと僕は自殺したのだと思う。
僕は彼女と母親に対して、与えうる限り最も深い悲しみを与えたのだと思う。
なぜ自死を選んだのかは、分からない。なぜ今ここにいるのかも、分からない。だけど言われてみれば、僕が死んでいることに対して合点がいくことがたくさんあった。
傘の雪を僕にかかる位置で振り払ったエリカ、成立していなかった会話、無賃乗車を咎められなかったこと、僕を無視したサチ、母。全てのパーツが一つにつながった。
母はきっと、彼女が僕の後を追うと思ったのだろう。
親不孝でごめん。けど、二人には二人の人生を生きて欲しい。
「あぁ、いけないね、歳をとると説教臭くなっちゃって……もう泣かないでおくれ、ただでさえ雪で湿気てるのに、もっと湿気てしまったらかなわないよ。家が潰れっちまう」
「すみませ……っ、なんか止まらなくて……」
エリカの涙は勢いを増す一方だった。
僕は心の何処かでらしくないことを考えていた。
嬉しい。
彼女はたまにこうして泣いた。
誰かに嬉しいことや、悲しいことがあったとき。自分のことのように受け止められるエリカを尊敬していた。自分のためだけじゃなく相手のために泣ける彼女に憧れていた。
僕は今、この世界で最も美しい涙を目撃しているのだろう。最愛の相手が僕のために涙を流しているのだ。
「……僕は、エリカが、僕のために泣いてくれたなら、それだけで満足するよ」
「えっちゃん、なんだいそれ?」母が尋ねる。
「あいつが、生前、言っていたんです」涙声でエリカが答えた。
「そんなことを」
「私、あいつのために泣けてるんでしょうか? 今泣いているのは、結局、自分が悲しいからで、あい、つの痛みとか、全然、わかってやれて……なかったのかなって……」
「えっちゃんがそこまで思っていてくれて、あいつが喜ばないわけないだろう? そんなに気負わなくていい。こうして来てくれるだけでも、あいつは天に昇るほど嬉しいだろうさ」
その通りだった。
僕はエリカが泣いたことで、救われていた。
天に昇るほどかどうかはわからないけれど、たとえば幽霊が未練を果たして成仏するのは、こういうときなのではないだろうか。
充足感、幸福感。身に余る暖かさに包まれて、僕は今、満たされている。
僕は聖夜に、エリカとデートすることができた。もう思い残すことなんてないと思った。
けれど、やっぱり最後にエリカと母さんの笑顔が見たくなった。本当に僕は『強欲』だと思う。
先ほどから、身体が重い。
うまく思考がまとまらない。
もしかしたら、ほんとうに天に昇るほど、嬉しかったのかもしれない。お迎えが来たのかもしれない。
ここで、お別れなのか。
ぼくはかのじょを、えがおにしたい。
ないているえりかも、うつくしいけれど。
わらっているえりかも、とてつもなく、かわいいんだ。
ぽーっとする。
ぶつだんのまえにすわる。
みぎてをゆっくりとあげる。おもい。
ぶつだんのすずをめがけて、ゆびをのばす。
なまえは、りん。
ぼうは、りんぼう。だんすができそうななまえだ。
ぜんりょくで、りんぼうをもつ。
ちからがたりなくて、ぷるぷるとふるえるぼうを、いっきにりんにぶつけた。
ちぃぃぃぃぃぃん……ちぃぃぃん――
しずかなよるに、りんのおとがひびく。
えりか、どうか、こわがらないでくれ。
もういちど。
ちぃぃぃぃん
「――な、なんですか? これ」
「…………あぁ、あぁ。きっとあの子が、お礼を言ってるんだよ」
「ほ、本当に?」
「ああ。泣いてくれてありがとうって伝えに来たのさ」
ちからがたりなくて、へんなおとになった。
くだらないけど、わらって、くれるかな。
めをぱちくりさせて、えりかはふきだした。
「――ふふふっ、あははは、あっははははっ。なに、その音!」
「……えっちゃんはやっぱり笑顔のほうが似合ってるよ」
かあさん、ないす。ぼくもそうおもう。
あ、もう、めがみえなくなってきた。
もっと、えりかのえがおが、みたかったなぁ。
さち、かあさん、えりか。
ありがとう。
ずっと、ずっとずっと、わらっていてくれ。
もうぼくは、いないけれど、わらっていてくれ。
そしたらぼくも、わらえるんだよ。
ちからが、はいらない。
りんぼう、おとしちゃった。
「……あ、りん棒」
「逝ったのかねぇ、逝けたのかねぇ」
「分かりません、けど、もう泣きません」
「それがいいよ。最後にお参りだけ、してってやってよ」
「……今度は、私が笑わせてあげるから」
りんのおとが、ひびいた。
「ほら。あんたのおかげだよ。あの日、ありがとう。本当にありがとう」
さいごに、めにうつったのは、あのひとおなじ、まんめんのえみ。
ちゃいむじゃないけど、りんのおとも、わるくない。
おとがきえるように、いしきが、とおのいていく。
えりかのえがおだけが、さいごまで、やきついていた。