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「私が知らせを受けてここに駆けつけたとき、あの人はもう逝ってしまっていたんです」
チヨさんとおばあちゃんと私は、テラスでお茶を飲んでいた。チヨさんがようやく気持ちが落ち着いたという時に、日の光を少し浴びたいといったのだ。
「あの人は、幸せそうな顔で眠っていました。私がどのような思いでここに来たのかも知らず……」チヨさんはハンカチを目に当てた。
その時、私は初めて気付いた。チヨさんの目はブルーだった。
私も先程見た紳士の顔を思い出していた。確かに幸せそうな顔をして、眠っていた。このような美しい春の日を、喜んでいるような感じで……。
「気のせいかもしれませんが……」チヨさんは少しためらいながら言った。
「あの人のそばに寄った時、あの人の声が聞こえたんです。もちろんその時、あの人はもう亡くなっていたわけですから、普通ではあり得ないんですけど……」
「なんておしゃってたんですか?」私は続きを促した。
「今まで本当にありがとう。少し散歩に行って参りますって。そう聞こえました。信じてもらえないかもしれませんが、私ははっきりと聞こえたんです」
散歩か、と私は思った。あの紳士は一人で天の散歩に行ったのだ。また、私は勘違いをしていた。やらなければならない用とは、誰かを天に連れて行くことではなく、チヨさんにお別れの挨拶をいうこと。
「もちろん、信じますよ」おばあちゃんがにっこりして言った。
「あの方のしそうなことじゃありませんか。ご冗談がお好きで、本当に愉快な方で……」
「ええ、でも愉快すぎるところもありました。あなたみたいな若いお嬢さんを見るとね」
チヨさんは私に対して微笑みながら言った。
「どうしてもちょっかいを出さずにはいられない性格でした」
「……」
「でも、あなたのことを深く愛してられたじゃない。本当にあなたは大切にされてたわ」おばあちゃんが、チヨさんの背中をトンと優しくたたきながら言った。
「みんなが羨むぐらい」
チヨさんは少し嬉しそうに笑った。
「あの方は、本当に幸せだったと思います。ずっと散歩がしたいって言ってたんです。数ヶ月前イギリスで足を悪くして以来、日本ではずっと寝たきりでした」
「チヨちゃんはね」おばあちゃんが私に説明した。
「お父様がイギリスの方なんだよ。それで縁があって、旦那さんと一緒に数年イギリスに行ってたんだよ」
「きっと今頃どこかで散歩を楽しんでいるでしょう。こんなに美しい日ですもの」
「私もそうだと思います」私は心からチヨさんに同意した。
「そして、チヨさんにもこの素晴らしい青空を見てほしいと思ってるのではないでしょうか」
チヨさんは少し驚いた顔をしたが、すぐに笑って言った。
「そうですね」
私はあぜ道をを歩いていた。あたりには水田が広がっている。
田植えがちょうど終わった時期で、一面緑。太陽に照らされて、美しく輝いている。
おばあちゃんの家から帰る途中。いつも通る道。日傘をさして。鼻歌を歌いながら。
橋のちょうど真ん中にさしかかった時、心地よい風が吹いた。春の香りがした。
なんとなく立ち止まって後ろを振り返ると、あの紳士が綺麗だと言った花が、風に揺れていた。
確かに春はとても美しい。
ふいに私は胸がいっぱいになる。
喜びと嬉しさと切なさで。
どうして切なさを感じるのだろうか。
知っているからだ。私は思った。
花が咲き乱れたり、木に若葉が茂ったりするその前のこと。
冬に花は枯れ、葉は全部落ち土に返っていったのだ。
生命の躍動感を感じれば感じるほど、死もいっそう鮮明に感じられる。
あの紳士は、死にもっとも近い所にいたからこそ生をより敏感に感じていたに違いない。
―――春の喜びですよ。生の喜びですよ。
私はあの紳士の言葉を思い出した。
―――厳しい冬を越えて、暖かな春の到来を喜んでいる生命が、私にはいきいきと見えるんです。この躍動感。私の胸は今幸福感でいっぱいです。
青空を見上げる。今日の空は吸い込まれていきそうなほど、青い。
私は再び歩き始めた。やっぱり私は好きだ。
この季節。そしてこの道が。
最後まで読んでくださってありがとうございました!