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「老人ホームはまだ先ですよ」
「時間なんです」紳士は繰り返した。
「散歩は終わりにして、ただちにそこへ行かなければなりません。もちろん、歩く以外の方法で」
「そうですか、残念です」歩く以外の方法がどういうものか少し気になったが、私は早くこの紳士と離れて頭を冷やしたかったので、あえて尋ねなかった。
「楽しい散歩でした。実は、散歩は久しくしていなかったんです。あなたと楽しい時間をすごせて幸せに思います」
「いいえ、こちらこそ」
「今日は青空が一段ときれいですね」紳士は空を見上げて言った。
私も空を見上げた。
「そうですね。ところどころにある雲もきれいです」
さわやかな風がふいて、近くにたっていた木の葉がさわさわと音を立てる。
紳士の声がその音に掻き消される。
「―――-にも見てほしいです」
「誰にですか?」そう聞き返そうた時には、もう紳士はいなかった。
風と一緒に行ってしまったようだった。
しばらくの間、私はそこに立ち尽くしていた。
「どこに行くの?おばあちゃん」
私がおばあちゃんの家に着いたとき、ちょうどおばあちゃんが玄関から出てきた。
少し顔が青ざめている。
「あら、今来たの?悪いんだけど、今からそこの老人ホームに行くの。先程、電話があって知り合いが亡くなったことが知らされたの。今からその方にお会いしようと思って……」
私は息を呑んだ。あの紳士が連れて行った人にちがいない。天への散歩へ。
「私も行っていい?行きたいの!」私は必死に言った。
おばあちゃんは少し驚いた顔をした。
「いいけど。あなたも変わった子ね」
そして、私たちは目的地へ足早に歩き始めた。
「先程亡くなられた方はね」老人ホームへ向かっている時、おばあちゃんが口を開いた。
「私の親友の旦那さんで、私も若い頃顔見知りだったのよ。つい最近会った時は元気だったのに一体どうして……」
「こちらです」施設の人がある部屋の前まで案内してくれた。
おばあちゃんは、その部屋のドアを開けるのをためらって立っていた。
「チヨちゃん、きっととても悲しんでいるだろうね……」
おばあちゃんがドアに手をかけようとしないので、私が代わりに開けることに下。
ガラガラガラ。
白い壁。白い天井。白いベッド。窓からは暖かな日差しがさしこんでいる。
ベッドのそばで一人の老女が泣いている。
「チヨちゃん」おばあちゃんはそう言って、彼女のところに駆け寄った。
私は、ゆっくりと亡くなられた人のところに近づく。あの紳士が連れて行った人。チヨさんの陰に隠れて見えなかったその人の顔が、しだいに見えてくる。
私は立ち止まり、大きく息を吐く。窓からやわらかい風が入ってきてカーテンをゆらす。
窓の外から小鳥たちが楽しそうにさえずっているのが聞こえる。暖かな春の日。
亡くなった人は、あの紳士だった。