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モステッカー通りは、新市街側のカレル橋を下りて聖ミクラーシュ教会側へ向かう途中にある通りだ。
商業地であるため、昼間は人通りが多い。
夏のこの時期は、日没後の過ごしやすい時間帯に屋外で涼む市民や、近くの酒場で飲み潰れた者が道端に転がっていたりもする。
質素な服に身を包んだジェルメーヌがクロイゼルとミネットを連れて、夜陰に紛れてモステッカー通りに現れたのは、深夜を迎えた頃のことだった。
侯爵らには黙って屋敷を抜け出してきたため、明け方までには戻らなければならない。
ステファーヌの死とコランタンの裏切り、ピュッチュナー男爵の自殺で侯爵らは混乱の極みにある。これでジェルメーヌまでもが姿を消そうものなら、侯爵の寿命も縮めかねない。
石畳の通りを、できるだけ靴音を立てないよう意識して歩きながら、クロイゼルの先導で三人はカレル橋の袂にある建物の一角の《三羽の駝鳥》へと向かった。
そこは食堂を兼ねた小さな宿屋で、店の前の軒先にはまさしく三羽の駝鳥を描いた看板が下がっていた。
店の入り口にはまだ火が灯されており、扉は開いている。
薄暗く狭い店内に人影はまばらだったが、中を覗いたクロイゼルは安全だと判断したのか、ジェルメーヌとミネットを無言で手招きし、入るように指示した。
酒の匂いと煙草の煙が充満する食堂には、赤ら顔に髭面店主らしき中年男が帳場で金を数えているところだった。
「らっしゃい」
地響きのような唸り声で男は三人に声を掛ける。
「部屋は空いていないんだが」
旅行客だと思ったのか、店主はクロイゼルに訛りの強いドイツ語で告げた。
「人を探している」
食堂内を見回しながらクロイゼルが答えたときだった。
奥の厨房から顔を覗かせていた白いエプロンを着けた女給らしき少女が、勢いよく走ってきた。
「来てくれたのね!」
息を弾ませながらジェルメーヌに駆け寄ると、勢い込んで捲くし立てる。
「なかなか来ないから、心配していたのよ! なにかあったんじゃないかって……」
それは、昼間ジェルメーヌにぶつかってきた花売りの娘だった。服装は違うが、顔に見覚えはあった。
「なんだ、あのお客の知り合いか」
店主は唇を歪めて鼻を鳴らしながら、二階へと続く階段を指し示す。
「そこから上がりな。二階の突き当たりの部屋で待ってる」
誰が、と喉まで出掛かった疑問を、ジェルメーヌは飲み込んだ。
女給の娘が、こっち、と階段を上がりながらジェルメーヌを呼ぶ。
板張りの階段は、上がるたびにぎしぎしと音を立てた。
「君の名前は?」
階段を上がりながらジェルメーヌが尋ねると、「リーゼロッテ」と娘は小声で答えた。
「ロッテって呼んでくれて良いわよ。普段はこの店で給仕をしているけれど、女優の卵なの。まだ下町の劇場に端役でしか立ったことはないけれど、いつか国立劇場で主演できるような女優になる予定よ」
女優を目指しているというだけあって、訛りの少ないドイツ語をロッテは喋った。昼間のたどたどしいドイツ語は演技だったらしい。
「花売りも君の仕事?」
「まさか。あれは頼まれたから、あの格好であなたに近づいただけ。花売りじゃなくても良かったんだけど、野菜売りが橋の上であなたみたいなお貴族様に『野菜を買ってちょうだい』って近づくのは変でしょう? だから、花売りに扮してみただけ」
二階は宿泊室になっているらしく、どの部屋の扉も閉まっていた。部屋は少なく、突き当たりの部屋も含めると五つしかない。
暗く短い廊下の突き当たりまで進むと、ロッテは薄い扉を叩いた。
「お客さん、待ち人が来たわよ」
細い声で囁くと、まるで扉に耳がついているように、即座に鍵が開けられる音が響いた。
慎重に扉が開かれたかと思うと、わずかな隙間から一本の蝋燭の炎とともに片眼だけ覗いた。
「どこにいるのだ?」
中から男のくぐもった声が尋ねた。
「ここに」
ロッテがジェルメーヌの背中を押して、扉の前まで進ませる。
慌ててクロイゼルとミネットが、ジェルメーヌの後に続いた。
「あぁ――……間違いない」
安堵の溜息なのか、男は疲労混じりの声を震わせながら、扉を大きく開いた。
「若君。いらっしゃいましたよ」
部屋の奥に向かって男が声を掛ける。
扉の中を覗き込んだジェルメーヌは、室内だというのに帽子をかぶり、肘掛け椅子に足を組んで座る少年の姿を見つけた。
「――フランソワ?」
眠たげに目を擦りながら欠伸を噛み殺す姿は、まさしく異母弟フランソワだった。
「久しぶり、ジェルメーヌ」
気怠そうに椅子から立ち上がると、フランソワは目を細めた。
「なんとかここまでやってきたよ。まったく、旅なんてするもんじゃないね。腰は痛くなるし、馬車には酔うし、強盗には襲われかけるしで最悪だよ」
「……なぜ、ここにいる? 予約してあった旅籠にどうして来なかった?」
呆然とフランソワを凝視しながら、ジェルメーヌは尋ねた。
ロッテがカレル橋の上でジェルメーヌに紙切れを渡した時刻から逆算すると、フランソワは午前中にはプラハに到着していたことになる。つまり、ステファーヌよりも先に旅籠にブラモント伯爵として入ることは可能だったのだ。
「父上が雇っている諜報員から、宿を変えろと忠告されたんだ。ロレーヌ公国公子を狙う刺客は、公子がブラモント伯爵という偽名でプラハに滞在することを知っているって言うから、この宿に泊まることにしたんだ。空き部屋がある宿を探すだけでもかなり大変だったけどね」
軽く肩を竦めたフランソワは、憂鬱そうに愚痴をこぼす。
「どうやって君に連絡しようかあれこれ考えた挙げ句、そこにいる娘に泊まる予定だった旅籠周辺で僕と同じ顔を探して欲しいって頼んだんだ。もし僕と同じ顔を見つけたら、僕の居場所を書いた紙を誰にも気付かれずに渡すよう指示をして、僕はここでずっと待っていたんだ。あの紙切れだけで君が来てくれるかどうかは、ちょっとした賭けだったんだけどね」
「なるほど……その判断は正しかった、と言うべきだろうな」
いささかやつれた感があるフランソワの面差しを眺めながら、ジェルメーヌは呟いた。
「なにかあった? 君、見かけない従僕を連れているね」
フランソワはジェルメーヌの背後に立つクロイゼルを見遣り、眉間に皺を寄せる。
「ステファーヌが殺された。公子暗殺を目論む連中が、コランタンを利用したんだ」
「コランタンが? まさか!」
椅子から腰を浮かせたフランソワは、頬を引き攣らせる。
「彼は旅籠に現れた公子がステファーヌだとは気付かず、毒入りのワインをあの子に飲ませたんだ」
「レオポールがあんなに信頼していたコランタンは、僕らを裏切るような奴じゃない! もし本当に彼がステファーヌに毒を盛ったのなら、よっぽどの理由が――」
「どんな理由にせよ、公子暗殺を謀ったことに違いはない。状況からして、コランタンしかステファーヌが飲んだワインに毒を入れることができた者はいなかったはず。もし旅籠の使用人が入れたのだとしても、無差別に人を殺そうとして毒入りワインをコランタンに渡したとは考えにくいだろう? それに、コランタンはいまだ姿を消したままだ」
大きく目を見開いているフランソワを睨み付け、ジェルメーヌは厳しい口調で告げる。
「君が無事に到着したことは、喜ばしい。侯爵らも喜ぶだろう」
額に手を当て、大きな溜息を吐いたジェルメーヌは、フランソワの肩を軽く叩いた。




