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 ガブリエル・バルベルはジェルメーヌとステファーヌの母だ。

 トロッケン男爵はドイツ語名でガブリエーレ・バッベルと呼んだが、リュネヴィル城館で公妃の侍女を務めていた時代はガブリエル・バルベルと名乗っていた。彼女はフランス語とドイツ語の両方を話すことができ、ロレーヌ公夫妻に大層気に入られていたらしい。

 現在、ロレーヌ公国ではフランス語が上流社会の公用語となっている。これも時代によって変わるが、ドイツ語風に発音する際はロートリンゲンとなる。神聖ローマ帝国皇帝であるオーストリア大公からは、「ロートリンゲン公爵」と呼ばれている。また、ロレーヌ公国でも国民の全員がフランス語を話すわけではなく、ドイツ語圏も多数存在している。

 ただ、城勤めの際は上級侍女についてはフランス語も教養として身に付いていることが求められていた。

 ガブリエル・バルベルはジェルメーヌとステファーヌを産んだ後は侍女を辞めて城下にある実家へ帰ったが、ふたりは乳母からことあるごとに「あなたがたのお母様はとても美しく、賢い方ですよ」と話してくれた。

 母を(しの)ぶ物はふたりの手元には一切残されておらず、乳母が語る姿だけがすべてだった。その乳母も城から去ると、ふたりは母とは永久に別離したものだと考えるようになった。リュネヴィル城館で暮らす限り、公妃を『(マダム)』と呼び敬うのが賢明な選択だったからだ。

 この十六年間、手紙のひとつもくれなかった母が、いまになってふたりに会いたいと言ってトロッケン男爵に手引きを頼んだというのは、多少疑問を感じないでもなかった。

 これまでもトロッケン男爵とは幾度か顔を合わせたことはあったものの話をしたことはなく、また、ふたりの母と親しい間柄だという話はまったく聞いたことがない。

 それでもジェルメーヌとステファーヌは、男爵が用意した質素な馬車に乗り込んだ。

 ミネットには反対されたが、ステファーヌが母に会うことを強く希望したため、ジェルメーヌも従ったのだ。

 空には白く薄い雲が流れており、午後の青い空は眩しい陽射しで澄み渡っている。

 白い月は西の空に傾き始めている。

 石畳の上を車輪の音を響かせながら走る馬車は、左右に大きく揺れてばかりいた。

 質素な外出着に着替え、念のためミネットには口止めをしてから、ふたりはリュネヴィル城館を出てきた。トロッケン男爵の口車に乗せられて城を出たことが父にばれれば、叱られることは間違いない。

「この馬車はどこへ向かっているのですか」

 窓の外に広がる景色を眺めながら、ジェルメーヌは男爵に尋ねた。

 唇を噛み締めながら姿勢を正して座席に腰を下ろしているステファーヌは、緊張しているのか、表情が強張っている。こういうときのステファーヌは、いくらジェルメーヌが話し掛けても反応がないことはわかりきっていた。

「城下の端にある古い教会です。それほど遠くはありませんよ」

 男爵の言葉通り、大通りを抜けて古びた住宅が建ち並ぶ小径を走った馬車は、やがて小さな木造の教会前で止まった。

 黒ずんだ木の教会は古びており、朽ち果てているように見える。(せん)(とう)の上の十字架は、いまにも屋根から落ちそうなくらい不安定に傾いている。

 御者が馬車の扉を開けると、まず男爵が先に下りた。続いてジェルメーヌが男爵の手を借りながら下り、ステファーヌは最後に下りてきた。男爵はステファーヌにも手を貸そうとしたが、ステファーヌはそれを無視した。

 男爵が教会の正面の扉を押すと、鈍い(きし)む音を響かせながら樫の木の扉は開いた。

 中は薄暗く、埃っぽかった。

 中央身(しん)(ろう)の両側には椅子が並べられているが、どれも古く、座れば壊れてしまうのではないかと思うほどの代物だ。

 祭壇は小さく、三つ叉の燭台が両側に並べられているが、どちらも(しん)(ちゅう)(せい)のようだ。細長い(ろう)(そく)に火が灯され、(ほの)(ぐら)く周囲を照らしている。

 祭壇の後ろの明り取りの窓から差し込むわずかな陽光は、埃をきらきらと輝かせていた。

「ガブリエーレ殿」

 祭壇の手前の椅子に腰を掛けていた婦人に、男爵は静かに声を掛けた。

「お連れしましたよ」

 その声に弾かれるように、婦人が椅子から立ち上がる。

 ジェルメーヌとステファーヌが視線を向けると、三十代後半とおぼしき婦人が深々と頭を下げた。

「初めてお目に掛かります。ガブリエル・バルベルと申します」

 鼠色の服に身を包んだ婦人は、周囲が薄暗いせいか、まるで影のように見えた。

「おふたりにおかれましてはご息災のご様子、安堵いたしました」

「そんな他人行儀な挨拶はやめてください、お母様」

 悲鳴に似た声を上げてジェルメールが駆け寄ると、ガブリエルは頭を上げた。

 幾分痩せてはいるが、かつてロレーヌ公を魅了した美しさは失ってはいなかった。

「あなたは……ジェルメーヌ様?」

 ジェルメーヌの手を取ると、しばらく考えるように娘の顔を見つめた後、ガブリエルは尋ねた。

「はい、そうです」

「では、そちらにいらっしゃるのがステファーヌ様ですね」

「……はい」

 ジェルメールの背後に立ったステファーヌが、顔を強張らせたまま頷く。

「お母様、こうしてお目にかかることができて、わたしもステファーヌもとても嬉しいですわ」

 生き別れた母との再会に興奮するあまり、ジェルメーヌは勢いよく言い募った。

「わたくしも、とても嬉しいですわ」

 優しく微笑んだガブリエルは、ゆっくりとジェルメーヌの手を撫でた。

「――よく、わかりましたね。その子がジェルメーヌだと」

 感激のあまり涙ぐんでいるジェルメーヌとは対照的に、ステファーヌは冷ややかな口調で指摘した。

 ジェルメーヌが振り返ると、ステファーヌは険しい表情を浮かべ、ガブリエルを凝視している。

「わたくしは母親ですもの。十六年ぶりでも、すぐにわかりますわ」

 目を細めてガブリエルは答えたが、ステファーヌは疑わしげな視線を向けるだけだ。

「手に触れて、その子が女だと判断したからこそ、ジェルメーヌと呼んだのでしょう」

「……ステファーヌ? どうしたの?」

 ステファーヌが母親との再会を喜んでいないことに、ジェルメーヌは戸惑った。

 むしろ、母が現れたことに憤りを感じているように見える。

「えぇ。娘にジェルメーヌ、息子にステファーヌと名付けたのはわたくしですもの。間違うはずがありませんわ」

 ステファーヌの刺のある口調に(ひる)む様子も見せず、ガブリエルは答えた。

「お母様!?」

 息を飲んだジェルメーヌは、慌てて男爵に目を遣った。

 ステファーヌが実は男であることは、ごくわずかな人しか知らない。ジェルメーヌとステファーヌを取り上げた産婆、乳母、かつての侍女、それに現在の侍女であるミネットだ。

 ふたりが生まれた当時、ロレーヌ公爵には二人の息子がいた。

 しかし、公妃が息子を産む前にガブリエルは一度男児を産んでおり、その赤子は生後三日で死亡したことから、公妃の周囲の者が自分の子供を殺したに違いないと彼女は疑いを抱いていた。そのため、生まれた双子はどちらも女児であるとロレーヌ公には報告させ、ガブリエルは乳母に、ステファーヌも女として育てて欲しいと頼んでいたのだ。

 十六年間この秘密は堅く守られ、ステファーヌの裸を見たことがあるジェルメーヌでさえ、ステファーヌが男であるという事実は半分冗談のように考えていた。もっともジェルメーヌの場合、男女の身体に違いがあるという知識が根本的に抜けていたせいもある。

 一方のステファーヌは、男であることが知られれば公妃によって殺されてしまうかもしれない、と乳母から繰り返し教え込まれてきたこともあり、女らしく振る舞うことを強く意識し、『庶子であることが悔やまれるほどに美しい公女』と家臣たちが(こぼ)すほどに成長していた。

「トロッケン男爵はご存じです。今日、この場におふたりを連れてきてくださるようお願いした際に、わたくしはステファーヌ様の秘密を明かしましたもの」

「なぜ?」

 ジェルメーヌが尋ねるより先に、ステファーヌが低く唸るような声で訊いた。

「レオポール様が()(まか)られたと聞きました。ならば、ロレーヌ公の跡継ぎはあなたですわ、ステファーヌ様」

 わずかにステファーヌよりも背が低いガブリエルは、上目遣いに息子を見つめながら告げた。

「嫡子はフランソワ公子です、お母様」

 二人の間に流れる緊迫した空気に耐えかね、ジェルメールは口を挟んだ。

 ロレーヌ公家には、公妃が産んだ正統な後継者がいるのだ。ステファーヌが割り込む隙は無い。

「……その通りです」

 わずかに遅れて、ステファーヌも同意した。

「わたしの性別が男であることは事実にせよ、庶子であるわたしに継承権はありません。それにわたしは、これまで女として育ってきましたし、父もわたしが男であることはご存じ在りません」

「ロートリンゲン公があなたの本当の性別をご存じかどうかは重要ではありません」

 ようやく口を開いた男爵は、ステファーヌに言い含めるようにゆっくりと語った。彼がフランスを毛嫌いしていることは、ロレーヌ公家をロートリンゲン公家とドイツ語呼びしたことからもはっきりと現れていた。

「ロートリンゲン公家にはフランス王家の血など不要です。レオポルト・ヨーゼフ様の後を継がれるのはあなたです、シュテファーニエ様」

「わたしの名はステファーヌ・バルベルです」

 ステファーヌはドイツ語風な呼び名に顔を顰め、自分がロレーヌの名を継げないことを声高に主張したが、男爵の耳には届いていないようだった。

「我々は、正統な後継者がロートリンゲン公家を継ぐことを望み、そのための助力を惜しみません。とはいえ、確かに庶子であるあなたがフランソワ公子を押し退けて後継者となることは難しい。また、フランソワ公子の下にはシャルル公子もいらっしゃいます。このふたりの公子が死ぬのを悠長に待っているわけにもまいりません。ですから、ステファーヌ様には『フランソワ公子』になっていただきます」

「え?」

 ぺらぺらと自分の計画を()くし立てる男爵は、口元を歪めて笑みを浮かべた。

 ジェルメーヌが首を傾げると、親切にも男爵は説明してくれた。

「現在、ロレーヌ公家の跡継ぎのもっとも重要な役目は、ウィーンにてオーストリア大公女との婚約を取り付けることです。フランソワ公子は、兄君の葬儀が終わり次第、早々にウィーンへ向かうはずです。オーストリア大公に(はい)(えつ)し、自分がいかに大公女の婿に相応しいかを大公に見定めてもらう必要があるからです。ウィーンではまだフランソワ公子の顔を知る者はおりません。ですから、ステファーヌ様とフランソワ公子が入れ替わったところで、ウィーンの宮廷人たちは自分たちの『フランソワ公子』が偽物であると気付くはずがありません。とにかくオーストリア大公に、あなたが『フランソワ公子』として認められれば良いのです」

「無茶苦茶だわ!」

 ジェルメールは反対したが、男爵は自分の計画に酔っているように微笑むばかりだ。

「ガブリエーレ殿もこの計画に賛成してくださいました」

 男爵の言葉に誘導されるように、ガブリエルも頷く。

「オーストリア大公女との婚約に漕ぎ着けることができれば、実は『フランソワ公子』が庶子の兄であったことをロートリンゲン公が気付いたとしても、オーストリア大公との謁見を果たした以上は『フランソワ公子』として扱わざるを得なくなるはずです」

「……なんてこと」

 思わずジェルメーヌは呻いた。

 男爵の計画では、フランスのブルボン家の血を引く公子が後を継ぐことは気に入らないが、庶子がロレーヌ公家の跡継ぎでは世間が認めないだろうから、母親がロレーヌ出身であるステファーヌを『フランソワ公子』にしてしまおうというのだ。

 確かに、ジェルメーヌとステファーヌの容姿は、フランソワとよく似ている。

 乗馬の練習の際、乗馬服に身を包んだジェルメーヌとステファーヌは、フランソワとよく似ていると乗馬の教師から驚かれたほどだ。細かい違いがあれども、半分血が繋がっているだけでこれほど異母弟と似るものかと、ジェルメーヌも不思議に思ったものだ。

 『公女』として育てられてきたステファーヌは、男らしく成長することを避けるため、食事には気をつけ、運動も控えめにしていた影響で、十六歳にしては低い。十五歳のフランソワとは身長もほぼ同じはずだ。

「ステファーヌを(かい)(らい)にするつもり!?」

 ジェルメーヌが噛み付くように叫ぶと、男爵はにやりと薄気味の悪い笑みを浮かべた。

「公女様は難しい言葉をご存じのようですね。えぇ、まさしくそうです。ステファーヌ様には我々の操り人形となっていただきます。その見返りとして、ロートリンゲン公国の統治者という地位が手に入るのです。城の奥に一生閉じ込められているよりは、悪くない話だと思いませんか」

「まったく思いません」

 ステファーヌがきっぱりと断言した。

「そうですか。しかし、私の計画を聞いていただいた以上、あなたにはこの計画に参加していただきます」

「冗談じゃないわ! わたしたち、帰らせていただきます! さようなら、お母様。さぁ、ステファーヌ、行きましょう!」

 ガブリエルの手を振り払うと、ジェルメーヌはステファーヌに駆け寄り腕を掴んだ。

 ここまでの道程は覚えていないが、リュネヴィル城館へ行きたいのだと道を尋ねながら歩けば、いずれは帰り着けるはずだ。いくら城から遠く離れているとはいえ、この辺りはまだ城下なのだから。

「帰しませんよ!」

 男爵は大声で宣言すると、手を叩いた。

 その音が教会内に大きく反響すると同時に、柱の陰に隠れていた男がジェルメーヌの首に腕を回して羽交い締めにする。

「なにするのよっ!」

 背後に立つ大柄な男の腕の中でジェルメールは手足をばたつかせて暴れたが、男はびくともしない。反対にジェルメーヌの首が絞め上げられ、息苦しくなった。

「ジェルメーヌを離しなさい!」

 真っ青になったステファーヌが怒鳴るが、男は腕の力をいっこうに緩める気配がない。

 ジェルメーヌが母に目を遣ると、ガブリエルは厳しい表情を浮かべたまま、ふたりを見つめているだけで、助けようとはしなかった。

「ジェルメーヌ様を助けたければ、我々に協力することですよ、ステファーヌ様」

 男爵はステファーヌと距離を保ったまま、意地の悪い笑みを浮かべて告げた。

「この計画は私ひとりが立てたものではありません。ロートリンゲン公国の将来を憂える我々の同志が綿密に計画を練り、レオポール公子が天然痘に(かか)ったという知らせを受けて以来、今日までずっと機会が訪れるのを待ち続けてきたのです」

「レオポールの死を願っていたというの? それでもロレーヌの家臣なの? 恥を知りなさい!」

 拘束されながらもジェルメーヌは叫んだが、男爵は薄ら笑いを浮かべるだけで反論はしない。

「ジェルメーヌを離しなさい!」

 ステファーヌは男に駆け寄ろうとしたが、男爵に阻まれた。

「あなたが我々に協力しないというのであれば、それでも構いません。ロートリンゲン公に我々のことを報告するというのであれば、それも仕方ないでしょう。ただ、その代償としてジェルメーヌ様の命はいただきます」

「卑怯者!」

 ステファーヌは男爵をなじったが、男爵は楽しげに笑い声を上げるだけだ。

「さあ、どちらを選ばれますか? ジェルメーヌ様の命か、フランソワ公子か」

「わたしがフランソワと入れ替わったら、フランソワはどうなるの」

「それはあなたが気にすることではありませんよ、ステファーヌ様。もっとも、フランソワ公子に女装は無理でしょうから、ステファーヌ様の身代わりをしていただくわけにはいかないでしょうね」

 なにがおかしいのか、男爵は腹を抱えて笑った。

 フランソワが女装をした姿を想像したのかもしれない。

 その()()(こう)(しょう)を耳にした途端、ジェルメーヌは背筋が寒くなるのを感じた。

「……ジェルメーヌを離しなさい。わたしはあなたたちの望むようにするから」

 低い声でステファーヌは降伏した。

 同時に、ジェルメーヌの首を締め上げていた腕が解かれる。

「ジェルメーヌ!」

 男爵が退くと同時にステファーヌがドレスの裾をからげて駆け寄ってくる。

「ステファー……」

 (かん)(まん)な仕草で腕を伸ばしたジェルメーヌは、ステファーヌの指先に手が触れた途端、意識を失った。

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