15
第7章
聖ローレンツ教会からジェルメーヌの姿が消えたことに関しては、クラオン侯爵やジャックマン男爵らの胃を締め上げ、ピュッチュナー男爵の体重を激減させ、コランタンを鬱病寸前まで追い込んでいた。
教会前で誘拐されかけ、通りがかりの親切な騎士に助けられたとジェルメーヌが説明した時には、一様に怪訝な顔をされたが、ひとまず彼女が無事に司祭館に戻ってきたことを喜んでくれた。
「結局、フランソワ様を誘拐しようとしたのはトロッケン男爵ではなかったということでしょうか」
旅の間中、趣味の素描を禁止されたコランタンは、汚名返上の機会を探しているのか、ジェルメーヌに貼り付いて離れないようになった。
精神的打撃が大きかった侯爵らは寝込み、ジェルメーヌも誘拐されかけたことで気が滅入ってしまい、不眠気味になってしまった。
結局、ニュルンベルクには五日間滞在を延長したが、初日以外は外出することなく、静養に当てられた。表向きは、長旅の疲れが溜まり、体調を崩したということになっている。
司祭らの手前、ジェルメーヌは部屋に籠もっているしかなく、気晴らしにコランタンとチェスに興じていた。喋りながら駒を睨んでいるコランタンはあまり集中できていないらしく、やたらと弱い。
ジェルメーヌも勝ってばかりではあまり楽しくはないが、他にしたいことがあるわけでもない。仕方なく、だらだらと喋りながらチェス盤と向かい合っていた。
「トロッケン男爵が誘拐の首謀者なら、ならず者を雇ってわたしを攫う必要はないはずだ。一言、ステファーヌに会わせると言いさえすれば、わたしがおとなしくついていくことくらい、わかるだろう?」
トロッケン男爵なら、母の名を出しただけで城から簡単に連れ出せたジェルメーヌを、ステファーヌの名で誘き寄せることくらい簡単だと知っている。
それに、わざわざクロイゼルを使って救出させ、弱っているステファーヌに会わせるという演出も不要だ。
クロイゼルに助けられたことは適当にぼやかし、ステファーヌに会ったことは完全に黙っていることを決めたため、ジェルメーヌは誘拐犯に関してかなりあやふやな話しかすることはできなかった。
そのため、クラオン侯爵らは、ジェルメーヌがまた誘拐犯に狙われるのでは、と警戒を解いていない。部屋の入り口には侍従のひとりが見張りとして交代で立っている始末だ。
おかげでジェルメーヌは、部屋から出るどころか、窓から外を眺めることさえ禁止されてしまっていた。息苦しいことこの上ない。
「しかし、トロッケン男爵らは、あなたのことをフランソワ公子だと思い込んでいるんですよ?」
「あぁ、そういえばそうだったな。ただ、男爵らも自分たちの計画がこちらにばれていることは知っているだろうから、フランソワに声を掛ければのこのことついてくると考えるかもしれない」
「うーん、そうですねぇ。あの方なら……案外ついていくかもしれませんねぇ」
紅茶をカップに注ぎながら、コランタンが苦笑を漏らす。
「なんというか、あの方は好奇心の赴くままに行動するところがありますからねぇ」
「軽率だし、興味本位で首を突っ込むことが得意だからな」
「そんな風に言ってしまうと、身も蓋もないですけどね」
ただ、コランタンのフランソワに関する評価も、似たようなものではあるらしい。
湯気の立つカップに砂糖を匙で山盛り投入しながら、ジェルメーヌは溜息を吐いた。
「敵が男爵だけであれば、楽だっただろうに」
「伯父上が言っていたプロイセンのことを気にされていらっしゃるんですか? あれはかなり不確かな情報のようですけど」
糖蜜をたっぷりかけたケーキを皿に盛りながら、コランタンが首を傾げる。
「僕は、フランソワ様があまりにも綺麗だから狙われたんだと思っています。この町は商人や職人が多くて経済も比較的安定している分、治安は良い方ですけど、だからといって犯罪がないわけではないですからね。人攫いってのはどこにでもいるものですよ」
「わたしって、そんなに狙われやすい顔をしている?」
綺麗だ美人だとは幼い頃からステファーヌとともに言われ続けているので、それなりに自覚はしている。庶子とはいえ公女としてリュネヴィル城で暮らしていたため、貴族の子弟から熱烈に求婚されたことも一度や二度ではない。
「人攫いからしたら、極上品扱いだと思いますよ。高値で取り引きされます」
「コランタン。なにを失礼なことを言っているんだっ」
勢いよくコランタンの頭に拳骨が振り下ろされた。
ジェルメーヌが顔を上げると、コランタンの背後にピュッチュナー男爵が怒りで顔を紅潮させて立っていた。吊り上がった目の下には真っ黒な隈があり、顔は憔悴しきっている。甥の失態をクラオン侯爵らから毎日のように責められているためだ。
「とにかく、知らない者に話し掛けられても無視することです。まして、ついていくなんてもってのほかです!」
「ついていかないとステファーヌを殺すって言われたら?」
「トロッケン男爵自身に迎えに来るよう、伝えさせれば良いのでは。ステファーヌ様のお名前を出すのは、男爵らの一派だけですから」
「それもそうだな」
納得したジェルメールは、大きく頷いた。
ピュッチュナー男爵が警戒する理由はわからないでもない。トロッケン男爵がいつになったらフランソワとステファーヌの入れ替えを実行しようとしているのか、予定がわからないためだ。もしジェルメーヌとフランソワが入れ替わる前であれば、ピュッチュナー男爵らはステファーヌの保護に務められるが、本物のフランソワが公子として一行と合流した後であれば、悠長に旅を続けているわけにもいかない。ステファーヌが取り戻せていようといまいと、一行はプラハでカール六世に謁見するため先を急がなければならないのだ。
もしトロッケン男爵との接触が遅くなれば、ジェルメーヌはフランソワとしてではなく、ジェルメーヌ公女として男爵と交渉するしかない。
ステファーヌを公子としてカール六世に謁見させ、自分の息のかかった公子をロレーヌ公国の跡継ぎにするという目的が果たせないトロッケン男爵が、ジェルメーヌとの交渉に応じるかは微妙だ。
いまのジェルメーヌにとって、敵はステファーヌを攫ったトロッケン男爵一派のみだが、フランソワ公子の敵は帝国内外に数多存在している。
そのフランソワ公子として旅をしている以上、嬉しくないことにジェルメーヌが狙われる可能性は幾つもあるのだ。
「プロイセン側がフランソワ様を狙うのであれば、誘拐なんてまどろっこしいことはせずに、暗殺するんじゃないでしょうかね」
猫舌のピュッチュナー男爵は、湯気が立つ紅茶に息を吹きかけて冷ましながら呟く。
「誘拐っていうのは、案外手間がかかるものですよ。攫うにしても移動手段と経路を考えなければなりませんし、監禁先の確保も必要です。プロイセンがフランソワ様を邪魔者と見なして排除したいならば、暗殺した方が確実なはずです。実行犯はひとりで済みますし、証拠が残りにくいでしょうしね」
「暗殺? 物騒だけど、なんだか重要人物と目されているようで、悪くはないね」
「世の中の王侯貴族で暗殺対象と見なされていない者は、よほど痴れ者じゃないでしょうかね。かく言うプロイセン王も幾度か命を狙われたことはあるようですし、カール六世も同様です。今回、プラハで行われるベーメン王の戴冠式は、帝国中の王侯貴族が集まりますから、なにごともなく終わる、ということは有り得ないでしょうね。もちろん、プロイセン王も出席するはずです」
「プラハに暗殺者がうようよしているということ?」
「宮廷の陰には刺客あり、です」
もっともらしい口調でピュッチュナー男爵が告げる。
「もしステファーヌ様がフランソワ様の身代わりとして戴冠式に出席されたとしても、危険はあらゆる場所にあります。もちろん、フランソワ様ご自身も同様ですが」
「嫌な世の中だな」
「リュネヴィル城でお育ちのあなた様からすれば、他国の穢れた宮廷は信じ難いものでしょうね。しかし、宮廷という権力が集まる場所は、たいていはそういうものです」
かつては帝国内の他の選帝侯に使えていたピュッチュナー男爵は、苦笑いを浮かべつつ、自嘲気味に呟く。
「きれいは汚い、汚いはきれい、ってことかしら」
シェイクスピアの『マクベス』に登場する三人の魔女の台詞がジェルメーヌの脳裏を過ぎった。
華やかな戴冠式の場と、そこに集う王侯貴族たちの欲望は、帝国内においてつねに連なっているものなのだろう。
「トロッケン男爵のようにわかりやすい権力欲であれば、まだ汚いと言うほど酷いものではありませんよ。少なくとも彼は、ステファーヌ様を利用することはあっても、命の遣り取りまでには手を染めていませんからね」
溜息を吐きながら、ピュッチュナー男爵は呟いた。