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 ニュルンベルクはジェルメーヌが想像していた以上に美しい町だった。

 城壁で囲まれた町の中央をペグニッツ川が通り、橋によって町の北南が繋がっている。北側には皇帝の城や教会、市庁舎などが建ち並び、主に富裕層の居住地となっていた。南側は職人が多く住む地域となっており、商店が多く並んでいる。

 聖セパルドゥス教会の近くにある司祭館が、この町でのジェルメーヌたちの宿だった。

 館はさほど大きくはないが、ジェルメーヌに与えられた部屋は広く、快適だ。

 狭い馬車の中で連日過ごしていたジェルメーヌは、二日間はこの町に滞在できると聞き、喜んだ。

「フランソワ様。中央広場の市場を見に行きませんか」

 寝台の上に寝転がり、手足を伸ばして休息しているジェルメーヌに、荷物の片付けを終えたコランタンが声を掛けた。

「夕方ですけど、まだ市場はやっているそうです。伯父から小遣いも貰いましたし、晩餐までもう少し時間もあることですし、軽く買い食いなんてしてみませんか」

「するする!」

 がばっと寝台から起き上がると、ジェルメーヌはコランタンが差し出した地味な上着を羽織った。身分を隠して町を散策するための服だ。

 この旅でジェルメーヌを一番喜ばせたのは、庶民が集う市場での買い物だ。それも、庶民が飲み食いしている物を同じように買い食いするのがなにより楽しかった。

 貴族令嬢の姿では買い食いもままならないが、令息姿であれば少々羽目を外しても叱られない。

 なにより、庶民が食べる料理は質素だがどれも温かく美味しいのだ。

 市場は毎日お祭り騒ぎのように人で溢れているし、活気がある。

 男爵たちも、ジェルメーヌがコランタンと一緒に町で買い食いをしていることには目を(つぶ)ってくれていた。賭場に出向いたり娼館を訪れたりするわけではないのだから、晩餐前に少々酔っ払って帰ってくることも大目に見ようという方針らしい。

 このニュルンベルクでは特に、ジェルメーヌが細心の注意を払って接しなければならない王侯貴族もいない。

 もちろん宿を提供してくれている司祭には感謝をしなければならないし、司祭が主催するささやかな晩餐会で公子らしい振る舞いもしなければならない。晩餐に間に合うよう、また晩餐会での食事が食べられないほど満腹にならない程度に飲み食いをしよう、とジェルメーヌはコランタンとともに足取りも軽く司祭館を出た。

 七月のニュルンベルクは、午後六時を過ぎてもまだ明るい。

 中央広場には露店がひしめき合うようにして並び、荷馬車の上に乗せた野菜を売る農民もいる。花売りの娘が籠にたくさんの花を盛って歩き回り、どこから逃げてきたのか豚や鴨が路上を走り回っている。

 人も大勢集まり、夕食前の買い物をしようとあちらこちらから値段交渉をする声が聞こえてくる。

 庶民たちが喋る訛ったドイツ語はジェルメーヌには聞き取れないものも多いが、とにかく活気がある光景は眺めているだけでも楽しい。

 食べ物の匂いに混じって動物や土の臭いも漂ってくる。

 あまり身なりの良い者はいないが、王侯貴族に縛られない生活というのは、手に職がある者にとっては幸せなのかも知れない。

 屋台でコランタンが買ってくれた()()()の揚げ物を頬張りながら、ジェルメールは小さな噴水の塀に座って市場を眺めていた。

「フランソワ様。聖ローレンツ教会というのを見に行ってみませんか。なんでもゴシック様式の美しい教会だそうですよ」

 建築に興味があるコランタンは、今回の旅であちらこちらの歴史ある建造物を見られるのが嬉しいらしい。ジェルメールと外出しても、町の地図を片手に、古い建物を見学したがるのだ。

「いいよ、見に行ってみよう」

 皇帝の城に興味を持つかと思っていたジェルメーヌは、多少意外な気もしたが、特に見に行きたい場所があるわけでもないので、彼の散策に付き合うことにした。

 聖ローレンツ教会はペグニッツ川を渡り、ケーニヒ通りを真っ直ぐ南下したところに建っていた。

 壮麗さでいえば、ペグニッツ川の北側に建つフラウエン教会の方がジェルメーヌの好みだったが、コランタンは聖ローレンツ教会の方が気に入ったらしい。

 教会の中に入ると、祭壇の上の天蓋からは見事な受胎告知のレリーフが飾られていた。

 早速コランタンは持参した帳面に教会内の素描を始める。

 そんな彼を見ていると、こんなところで従者などしていないで、大学へ入って建築学を学べば良いのに、とジェルメーヌは考えてしまう。

 ロレーヌ公家で従僕をしていても、あまり出世は見込めないだろう。

 もしフランソワがオーストリア大公女の婿になることができれば、従僕もウィーン宮廷でそれなりの地位を得られるかもしれないが、確実ではない。

 西の窓から差し込む夕日が、ステンドグラスを輝かせている。

 先月、母ガブリエルと会った場所が教会だったせいか、ジェルメーヌはあまり教会という空間が好きではなくなった。

 リュネヴィル城内にある礼拝堂は特にどうということはないが、教会という独立した建物の中にいると、息苦しさを感じる。

(ステファーヌが一緒だったなら、そんなことも感じないのかもしれないけど)

 眩しい西日に目を細めながら、ジェルメーヌは中央身廊をゆっくりと出口に向かって歩いた。

 出入り口近くの告解室の前に、消炭色の服を着た青年が影のように立っているのが見えた。栗色の髪に榛色の瞳をした彼は、ジェルメーヌの姿に気付くと軽く会釈をしてきた。

 かなり裕福な家柄の出身らしく、地味ではあるが立派な服に身を包んでいる。

 二十二、三歳といったところだろうか。

 端正な容貌とすらりとした長身の持ち主だ。

 貴族ならば、この容姿だけで出世は望めそうだ。

「こんにちは」

 青年はジェルメーヌに近づくと、声を掛けて来た。

「観光かな」

「まぁ、そんなものです」

 地方領主の子息のふりをして、ジェルメーヌは愛想良く答えた。

 この青年がどこの誰だか知らないが、礼儀正しく振る舞っておくに越したことはない。

「ニュルンベルクは気に入った?」

「はい。とても活気があって良いところですね。もっとあちらこちら見て回りたいと思います」

「この教会より南には行かない方がいいよ。君のような綺麗な子は、すぐ攫われてしまうからね」

 ジェルメーヌの白い肌と蜂蜜色の髪を眺めながら、青年は目を細めて微笑んだ。

「……ご忠告、感謝します」

 どうやら自分はからかわれたらしい、と判断し、ジェルメーヌは青年の横を通り抜け、出入り口の扉を押した。

 教会内の重厚な空気に耐えきれなくなってきたのだ。

 教会前の階段には、たくさんの鳩が石畳の上に落ちたパン屑をついばんでいる。

 三人ほどの労働者風の身なりの男たちが座って煙草を吹かしているのが見えた。

 目の前のケーニヒ通りには、二頭立ての辻馬車が一台停まっている。

 随分と古びた馬車だ、とジェルメーヌがぼんやりと考えたときだった。

「ひとりで教会から出るとは、不用心だね」

 背後から低い声が投げかけられたかと思うと、階段に座っていた男たちがそれを合図に一斉に立ち上がった。

 ジェルメーヌが振り返ると、さきほど告解室の前に立っていた青年が、薄ら笑いを浮かべつつ、腕組みをしながら見下ろしていた。

「この教会より南には行かない方がいい、とせっかく教えてあげたのに、なぜ君は不用心にもひとりで出てしまったのかな?」

 青年はジェルメーヌに近づくと、くつくつと喉を鳴らして笑った。

「君は、自分がどれほど目立っているのかわからないのかな? こんな綺麗な姿をしているのに」

 ジェルメーヌの髪に手を伸ばした青年は、髪の一房を指で掬い上げると、自分の唇に押し当てた。

「……なにか御用ですか」

 どうやら自分はコランタンから離れるべきではなかったらしい、とジェルメーヌは悔やみつつ、相手を睨み付ける。

 青年の脅しに背筋が寒くならないわけではないが、そう簡単に屈するわけにはいかない。

 それに彼は、ただの人攫いではなさそうだ。

 ジェルメーヌがどのような身分の者か、彼ははっきりと知っていることが態度に表れていた。

「別に命まで取ろうってわけじゃないんだ。ただ、君を私の屋敷に招待したくてね」

「せっかくですが、お断りします。わたしの予定はこの先一ヶ月後までびっしりと詰まっているんです」

 青年の腕を振り払うと、ジェルメーヌは教会の中に戻ろうとした。

 建物の中に入ってしまっては袋の鼠だが、コランタンに助けを求めるべきだと判断したのだ。

「君は断れないよ」

 青年が強い口調で宣言した途端、労働者風の男たちはジェルメーヌの両腕を掴んだ。

「離してくださいっ!」

 男たちに強く手首を掴まれ、ジェルメーヌは悲鳴のような声を上げた。

 教会の前を通りがかった人々がなにごとかと立ち止まるが、男たちの姿に気付くと、巻き込まれまいとしてか、そそくさと歩き出す。

(まさか、わたしがフランソワだってことを知っているんじゃないでしょうね!?)

 青年が自分を誘拐しようとしている目的がわからず、ジェルメーヌは戸惑っていた。

 ただ綺麗な子供を拐かしたいだけなのか、ロレーヌ公子のプラハ行きを邪魔したいのかによって、対応が異なってくる。

(もしわたしがフランソワだってことを知っているなら、どうあっても女であることをはれないようにしなくちゃ!)

 男装がばれた場合、フランソワ公子が実は女であるなどという噂を流されては、ロレーヌ公家の恥だ。ステファーヌかフランソワと入れ替わるまでは、なんとしても自分が女であることを知られないようにしなければならない。

「離せっ!」

 手足をばたつかせ、ジェルメーヌは喚いた。

 こうなったら恥も外聞もない。

「この人攫いっ!」

 ジェルメーヌは必死に叫んだが、男たちは軽々とジェルメーヌを持ち上げると、辻馬車まで運んでいった。

「では、お屋敷まで運んでおきますよ」

 辻場所の中にジェルメーヌを放り込むと、扉に外から鍵を掛けながら男たちは青年に告げる。どうやら青年は、一緒に馬車に乗って移動するわけではないらしい。

 男たちはふたりが御者台に座り、ひとりは青年と一緒に残った。

 ジェルメーヌが辻馬車の窓に掛けられた幕を持ち上げて外の景色を覗いたときには、馬車は走り出していた。

 教会前にたたずむ青年は、楽しげに馬車に向かって手を振っている。

「誘拐犯っ! どうせなら一緒にきなさいっ!」

 馬車の中で地団駄踏みながらジェルメーヌは怒鳴った。

 扉の取っ手はいくら引っ張っても押しても動かない。

 御者台に向かってジェルメーヌが呼び掛けても、車輪の音に紛れてか、わざと無視しているのか、男たちは振り向こうともしない。

 馬車は通りを南へ向かっている。

 町のどこへ連れて行かれようとしているのかはわからないが、司祭館に連れ戻してくれるわけではないことだけは確かだ。

(まさかトロッケン男爵の手先ってことはないわよね)

 男爵の手先であれば、まだましだ。なんとか話を聞いて貰えるだろうし、自分が女であることがばれても支障は無い。

 問題は、男爵の手先ではなかった場合だ。

(もしプロイセン王の手の者だったら……女だってばれるのはまずいわ)

 ぐっと歯を食い縛り、思考を巡らせる。

(プロイセンでなかったとしても、わたしがロレーヌ公国の公子だとばれないとも限らないわ)

 身分を証明するような物は一切持っていないが、この顔を知らない者がまったくいないとも限らない。

(とにかく、逃げなくては)

 馬車は大通りを駆け抜け、やがて人通りが少ない寂れた方角へと向かっていた。通りの両側には石造りの建物が並んでいるが、歩く人々の服装から貧民層が多く暮らしている地域なのだとわかる。道端には塵が散乱し、野良犬が走り回っている。()()が荷車を引き、背中が曲がった老人が痩せ細った身体に鞭打つようにして大きな荷物を運んでいる。

 世間知らずなジェルメーヌにも、この地区が危険であることは感じ取れた。

(いかにも人攫いの(そう)(くつ)がありそうな場所じゃないの)

 自分を攫おうとした首謀者が誰であるにせよ、このままではろくな目に遭わないことだけは明らかだ。

 馬車の扉をなんとかしてこじ開けようと、ジェルメーヌは扉の取っ手を押したり引いたり、扉を蹴ったりした。その度に車体は大きく揺れ、椅子の上や床に身体を打ち付けて、酷い痛みに涙ぐんだ。

(コランタン、わたしがいなくなっていることに気付いてくれているかしら)

 教会内部の素描に集中していたから、もしかしたらまだ気付いていないかもしれない。

「あぁ、もうっ!」

 腹立ち紛れに扉の窓を蹴ろうとしたときだった。

 急に馬車の速度が遅くなり、馬たちの足並みが乱れる。

「――なにごと?」

 振り上げた足を下ろしたジェルメーヌは、窓の外に視線を向けた。

 馬車はどこをどう走ったのか、貧民窟を抜け、古びた小さな教会の前を少しずつ速度を落としながら駆けていた。

 教会裏の墓地が見える辺りで、馬車はぴたりと停まった。

 同時に、どさりと大きな荷物が地面に落とされる音が響く。

(ここがあの男たちの目的地?)

 教会を悪巧みの舞台に利用するのが流行っているのだろうか。だとすれば、神をも恐れぬ所業だ。

 ジェルメーヌが身を固くして警戒していると、扉の外でがたがたと錠を外すような音がした。

(逃げ出すなら、扉が開いた瞬間ね)

 相手の意表を突いて体当たりをすれば、運が良ければ逃げ出せるかもしれない。

 窓の幕は下りているため、外にいる相手からは中の様子を伺い知ることはできない。

 ジェルメーヌが(かた)()を飲んでいると、がちゃり、とあれほど動かなかった取っ手が動き、扉が開いた。

(よしっ!)

 扉が全開したところでジェルメーヌは馬車から飛び出した。

 が、体当たりをしたところですぐに黒い帽子を目深にかぶった黒ずくめの男に抱え上げられる。

「おい。随分と威勢が良いな」

 ジェルメーヌを捕まえた男は、呆れた様子でぼやく。

「離せっ! この人攫いどもっ!」

 大声を上げたところで、教会の聖職者の耳に届くかどうかは疑わしかったが、ジェルメーヌは金切り声を上げた。

「人攫い? 心外だが、まぁ似たようなものだな」

 男は溜息をつきながらも、手足をばたつかせるジェルメーヌを器用に抱える。

「離せ――っ!」

 暴れながら大声を上げたので、ジェルメーヌは呼吸困難に陥りかけた。ぜいぜいと肩で息をしつつ、ふと視線を地面に向けると、さきほど御者台の上に座っていたはずの男たちがふたり、石畳の上で伸びていた。

「――どういうことだ?」

 この男たちは、さきほどの青年の手下、もしくは金で雇われて自分を攫ったはずだ。なのに、こんなところで仲間割れをしたのだろうか。

「お前、いったいどういうつもりで……」

 自分を捕らえている男の顔を見ようと、ジェルメーヌは身体を捻った。

 易々と持ち上げられていることは気に入らなかったが、小柄で武器も持たない自分が逃げ出すためには、相手の油断を誘うしかない。

 となれば、まずは自分が落ち着かなければ。

 呼吸を整え、ジェルメーヌが男の顔に視線を向けた瞬間――。

「クロイゼル!?」

 甲高い声でジェルメーヌは叫んだ。

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