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第1章

 一七二三年六月四日、ロレーヌ公国リュネヴィル――。

 町中の教会のけたたましい鐘の音が、ロレーヌ公爵の居城であるリュネヴィル城館の部屋という部屋まで聞こえてきた。

 リュネヴィルの町の隅々まで鳴り響いているに違いないと思うほどの大音量だ。

「どうしてあんなに激しく教会の鐘が鳴っているのかしら」

 読みかけの本から顔を上げたジェルメールは、()(げん)な表情を浮かべ、窓の外へと視線を向けた。

 空は眺めているだけで吸い込まれそうなくらい、青く澄んでいる。その片隅に、白い真昼の月が寂しそうにぽつりと浮かんでいた。

「きっとレオポールが亡くなったんでしょう」

 向かい側の長椅子に座り黙々と()(しゅう)をしていたステファーヌが、針を動かす手を止めずに淡々と答える。

「え? 嘘!」

 椅子から腰を上げたジェルメーヌは、膝の上に広げていた本を床に滑り落としながら叫んだ。

「嘘なものですか。(てん)(ねん)(とう)(かか)ったら、死神に()かれたも同然ですもの。奇跡でも起こらなければ治らないわ」

 ほとんど感情の籠もらない口調で、ステファーヌは冷静に告げる。

 レオポール・クレマン・シャルルは、ジェルメーヌとステファーヌのふたりよりも一ヶ月前に生まれた異母兄だ。

「それなら、いますぐお父様にお悔やみを申し上げに行くべきじゃないかしら」

 足下の本を拾い上げながら、ジェルメーヌは尋ねた。

 ジェルメーヌとステファーヌはロレーヌ公レオポール・ジョゼフの庶子で、この五月に十六歳になったばかりだ。

 母は公妃エリザベート・シャルロット・オルレアンの侍女だったが、双子を産むと同時に実家へ帰っている。

 父親の元に残されたふたりは、正式に認知はされていないが、ここリュネヴィル城館では公女と同じ扱いで教育を受けていた。

 肩にかかる(はち)(みつ)(いろ)の巻き毛と、長い睫で彩られた()()(いろ)の大きな瞳、白い肌に()()(いろ)の頬を持つ美貌の双子は、頭のてっぺんから足の先までそっくり同じだ。

「やめておいた方がいいわ。公妃様のご機嫌を損ねるだけでしょうね」

 その忠告に、ジェルメーヌは顔を顰めた。

 六月の陽気で庭の芝生は新緑に輝いているというのに、第三公子が天然痘に倒れて以来城内を覆っていた沈鬱な空気が、低い鐘の音に合わせていっそう深まったように感じる。

 継母である公妃エリザベート・シャルロット・オルレアンは、夫との間に十三人の子供をもうけたが、すでに八人を失っている。レオポール・クレマン・シャルルで九人目だ。

 ヨーロッパ最高の医療を受けられる王侯貴族といえども、乳幼児の死亡率は高く、また成長しても猛威をふるう天然痘から逃げ切るすべはない。

「でも、レオポールの葬儀に参列させてもらえるよう、お願いしたいの」

 あまり顔を会わせる機会はなかったが、それでも異母兄の死は悲しい。

「ロレーヌ公家の一員として? 無理よ」

 刺繍糸を玉留めして(はさみ)で糸を切ると、ようやくステファーヌは顔を上げた。涙で目を(うる)ませているジェルメールの姿に眉をひそめる。

「お父様はともかく、レオポールを亡くされた公妃様はわたしたちの顔なんて見たくないはずだわ」

「なぜ?」

「自分が腹を痛めた子供が死んで(ひつぎ)に横たわっているのに、庶子がのうのうと生きているなんて、正妻として嬉しいはずがないじゃないの。公妃様をご不快にさせないためにも、わたしたちは顔を見せるべきではないわ。どうしてもお父様にお悔やみを申し上げたいなら、手紙にしておきなさいな」

 ステファーヌの率直な説教に、ジェルメーヌはしゅんと肩を落とした。

「そうね、ごめんなさい。わたしったら、公妃様のお気持ちをおもんばかることができていなかったわ。悲しみが深いのは公妃様の方だっていうのに……」

 双子だというのに、ステファーヌにはできる配慮が自分には欠けていることをジェルメールは恥じた。

「ジェルメーヌ様。ステファーヌ様の優等生発言を真に受けて謝る必要はありませんよ」

 ふたりに紅茶と菓子を運んできた侍女のミネットが、渋い表情を浮かべながら口を挟んできた。

 栗色の髪に(はしばみ)(いろ)の瞳、顔にはそばかすがあるミネットは、ジェルメーヌたちの乳母の姪ということもあり、ふたりの姉のような口振りでたしなめることが多々ある。それをステファーヌはあまり快く思っていないふしがあるが、ジェルメーヌは歯に衣を着せない物言いのミネットが好きだ。

「おふたりはまごう事なきロレーヌ公家のお血筋ですもの。レオポール公子様のご葬儀にも参列すべきですわ」

 円卓の上に菓子皿を並べながら、ミネットは主張する。

 自分が仕えているこの美しい双子が、ロレーヌ公家では庶子として扱われていることが彼女は納得できないのだ。

 ジェルメーヌ自身は、ロレーヌ公家の居城であるリュネヴィル城館で公女として住めるだけでも幸せだと考えていた。母親と一緒に暮らせないことは悲しいが、出自を考慮すれば仕方がない。継母である公妃も、ふたりの存在は容認してくれているのだ。

「ミネット。ジェルメーヌに余計なことを吹き込まないで」

 紅茶のカップに手を伸ばしながら、ステファーヌが冷ややかな視線を侍女に向ける。

「わたしたちは、このお城の中でひっそりと暮らしていれば良いのよ。公式の場に大きな顔をして出ていくべきではないわ」

「でも、おふたりとももう十六歳におなりではないですか。そろそろご結婚話なども」

「結婚?」

 ミネットの一言にジェルメーヌは目を輝かせた。

 恋愛小説なら数冊読んだことがある。どれも、貴族令嬢と王子様が偶然出会い、愛を育んでいく物語だった。城に籠もって過ごしている限り、ジェルメーヌには縁の無い話ばかりで、読んでいる最中は(むね)(おど)らせたが、読み終わった途端現実に失望したものだ。

「結婚なんて当分有り得ないわ。わたしたちの持参金はどこから(ねん)(しゅつ)するの? お父様ときたら、このお城の修復費用で借金まみれだっていうのに、レオポールをウィーンに留学させていたものだから、さらに借金がかさんでしまっているのよ」

 ステファーヌの(しん)(らつ)な意見に、ジェルメーヌは目を丸くした。

 普段から自分たちは同じものを見て、同じことを聞いているはずなのに、ステファーヌは自分が知らないことをたくさん知っている。自分が思いも寄らないようなことを考えている。

 ジェルメーヌが「なんでそんなことがわかるの?」と訊くと、いつも決まって「ちょっと考えればわかることじゃないの」とステファーヌは涼しい顔で答えるが、その「ちょっと」がジェルメーヌには思い浮かばないのだ。

「わたしは結婚なんてしないわ。歳を取って(しわ)くちゃになるまでこのお城で住むわ。出て行けって言われても、出て行ってやらないんだから」

 すでに意固地な老人のような顔をして、ステファーヌが宣言する。

「それってなんだか悲しくない?」

 ジェルメーヌが尋ねると、ステファーヌは即座に首を横に振った。

「ちっとも。長生きできるって素晴らしいわ」

 双子の会話に口を挟もうとしたミネットは、ステファーヌに横目で睨まれると、軽い溜息を吐いて銀盆を抱えながら部屋から出て行った。

「それに、レオポールが死んだ今、お父様はわたしたちの結婚のことなんか眼中にないに決まっているわ。跡継ぎ問題で頭を悩ませていることでしょうよ」

 ミネットの姿が消えたことを確認してから、ステファーヌは声を潜めて囁いた。

「跡継ぎなら、まだフランソワがいるじゃないの」

 ロレーヌ公家には、ジェルメーヌたちよりも半年ほど後に生まれた腹違いの公子フランソワ・エティエンヌと、十歳の公子シャルル・アレクサンドル・エマニュエルがいる。

「そのフランソワの結婚問題の方が先よ。正確には、次のロレーヌ公の花嫁問題ね。お父様はオーストリア大公家から花嫁を迎えたくて仕方ないの。それで、ウィーンに使者を送っては大公に自分の息子の売り込みをしているらしいわ。今頃、ウィーンへの早馬がレオポールの死を伝えに向かっていることでしょうね。今後はフランソワをよろしく、とね」

 誰もレオポールの死を(いた)んでいないようで、ジェルメーヌは悲しくなった。

 ほとんど顔を合わせたこともない異母兄ではあったが、ジェルメーヌにとってはたったひとりの兄だった。

「なぜオーストリアのお姫様をロレーヌ公妃にしたいの?」

「それはもちろん、フランスに対抗するためよ。お父様はロレーヌを死守することに人生を賭けていらっしゃるわ。そのためにも、神聖ローマ帝国皇帝でもあるハプスブルク家当主、つまりオーストリア大公の娘婿という座を次のロレーヌ公となる者が手に入れる必要があるのよ」

「――政治の話は難しくてよくわからないわ」

 ジェルメーヌが肩を(すく)めると、ステファーヌは呆れたような表情を浮かべた。

 神聖ローマ帝国皇帝カール六世はジェルメーヌたちの父・ロレーヌ公レオポール・ジョゼフの従弟にあたる。

 一方、レオポール・ジョゼフの妻はフランス王ルイ十四世の弟オルレアン公の娘だ。

 オーストリアとフランスは以前から(しょう)(とつ)を繰り返していたが、フランス北東部に位置する地域に領地を持つロレーヌ公は、周辺諸国で戦争が起きるたび、繰り返し領地をフランス軍に占領されるという()()に遭ってきた。さらには欧州においてスペイン継承戦争、トルコ戦争と大きな戦いが続いたため、(ばく)(だい)な戦費を捻出する羽目になった。ロレーヌ公家としては、莫大な持参金と後見を持つオーストリア大公女を(めと)ることで、オーストリア大公家という大きな後ろ盾をどうにかして得たいと切望していた。

「公妃様はフランスの方でしょう? 公妃様がいらっしゃれば、フランスは攻め込んでこないんじゃないかしら」

「そんなの関係ないわ。それどころか、フランス軍は公妃様の身を守るためとか都合の良い理由を作って進軍してくるかもしれないじゃないの」

 ステファーヌがもっともらしいことを言ったときだった。

「ステファーヌ様、ジェルメーヌ様。お客様がいらしています」

 部屋から出て行ったはずのミネットが戻ってきて、ふたりに告げた。

「どなた?」

 ミネットに視線を向けたステファーヌが、慎重な口調で尋ねる。

 ロレーヌ公の庶子を訪ねてくる者など、数えるほどしかいない。そのほとんどをステファーヌは毛嫌いしていた。理由はいたって単純で、自分たちを利用しようとする欲の皮の厚い貴族たちばかりだからだ。

 彼らに話し掛けるたび、ふたりは世間知らずな公女を装い、作り笑いを浮かべながら的外れな返事をして話をはぐらかしていた。

「トロッケン男爵です」

 名前を聞いた瞬間、ふたりは顔を見合わせた。

 これまで、まったく話をしたことがない相手だ。

(どうする?)

(会ってみる?)

 視線だけで会話を交わす。

(ひとまず、会ってみましょうか)

 どういう用件かはわからないが、話をまったく聞かずに追い返すのは失礼だろう。

「――お通しして」

 ステファーヌが命じると同時に、ミネットの背後からトロッケン男爵ヴィリバルト・カーフェンが現れた。

 ロレーヌの宮廷では貴族の多くがフランス風に名乗る中で、彼はドイツ名にこだわりを持っており、嫌フランス派として宮廷でも知られていた。

「ステファーヌ様、ジェルメーヌ様。(はい)(えつ)をお許しいただき、恐悦至極に存じます」

 くすんだ狐色の略装を身に(まと)い、消炭色の髪をうなじでひとつに結んだ姿のトロッケン男爵は、(いん)(ぎん)な態度で頭を下げた。四十代半ばの中肉中背ですべてが野暮ったい男だ。

 すぐさまジェルメーヌとステファーヌは椅子から立ち上がり、ステファーヌが先に口を開いた。

「ごきげんよう、トロッケン男爵。堅苦しい挨拶は無用です。それに、わたしたちにそのような礼も不要です。それよりも、手短に御用の向きをおっしゃっていただけますか」

 丁寧な物言いではあったものの、ステファーヌは単刀直入に尋ねた。

 回りくどい会話がなによりも嫌いなのだ。

「では、申し上げます。実は、おふたりに会わせたい方がいるのです。いまから私と一緒に、その方に会いにいらしていただけませんでしょうか」

「今から? それは無理です。外出には父の許可が必要です。どなたか存じ上げませんが、わたしたちとの面会を希望するならば、こちらに出向いてくださるよう伝えてください」

 ステファーヌは暗に面会を拒絶した。

 ふたりが自由にリュネヴィル城館から出られないことは確かだが、幽閉されているわけではないので、お忍びで出掛けることは可能だ。

 一方、城館への出入りは貴族であろうと誰にでも許されているわけではない。

 トロッケン男爵がふたりに会わせようとしている人物が何者であるにせよ、城に出入りできるような者でなければ会わないと、ステファーヌは匂わせたのだ。

「残念ながら、その方はこの城に参ることはできません。出入りが禁止されているわけではありませんが、おふたりの立場を危険にさらさないためにも、面会は城下をご希望なのです」

「それは、どなたかしら」

 探るような眼差しをトロッケン男爵に向けながら、ステファーヌは尋ねる。

 どことなく、すでに答えを知っているような表情を浮かべているようにジェルメーヌの目には映った。

「ガブリエーレ・バッベル様、です」

 低い声でトロッケン男爵が答える。

 ふたりは同時に息を飲んだ。

(どうする?)

 無言のまま、視線だけで協議する。

 会うことを拒否することは可能だ。

 だが、これまで一度として会ったことがない相手を、会いもせず撥ね付ける理由もない。

「――会いましょう。連れて行ってください」

 しばらく(ため)()った後、代表してステファーヌが男爵に告げる。

 黙って同意するように頷いたジェルメーヌは、わけもわからず鼓動が早まるのを感じた。

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