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かくて聖者は《奇蹟》に抗う  作者: RYO太郎
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第一章  ジェラード邸事件 その⑥





 満月が放つ硬質の光が音もなく地上に降りそそいで、青い(しや)のカーテンで屋敷をつつみこんでいるようだった。

 

 この地方特有の夜気が、青みがかった薄闇の中を風に乗って露台(バルコニー)に吹いていた。


 初夏とは思えぬほど肌寒い夜である。


 これなら酔いもはやくひきそうね。

 すやすやとした寝息をたてる息子を抱きかかえながら、エリゼは胸の中でつぶやいた。

 

 ランフォード男爵夫人であるエリゼは、この年、四十歳になる。

 

 黒い瞳と濡れたような黒髪と象牙色の肌は、娘のシェリルに確実に受け継がれているものだ。

 

 貴族とは名ばかりの寒門の生まれゆえか、貴族としてはまれに見る美質の所有者で、諸侯の令夫人となった今も偉ぶるところはなく、善良で温雅なその為人は屋敷の使用人や領民からも慕われていた。

 

 エリゼはあらためて腕の中の長男ルチアの顔をのぞきこんだ。

 

 露台に出るまでは真っ赤になっていたその顔も、季節はずれの冷たい夜気にあたったせいか、ずいぶんと赤らみはおさまってきている。

 

 安堵の息を漏らしたエリゼが、ふと大窓越しに広間の中に視線を転じたとき。なにやら右往左往している貴族たちの姿が見えた。エリゼが小首をかしげる。


「なにかの余興かしら。ずいぶんと騒がしそうだけれど……」

 

 貴族たちがなにやら騒いでいるのは見てとれたが、厚いガラスと樫の木で造られた大窓がもつ遮音効果の前に、室内からの音はほとんど聞こえてこない。

 

 不審に思ったエリゼが、中の様子をうかがおうと大窓の取っ手に手をかけようとしたとき、腕の中のルチアが声を発した。目を覚ましたのだ。


「あら、ルチア。起きたの?」


「う、う〜ん……」


 という声は、まだ酔っている様子だった。エリゼが苦笑する。


「本当にこまった子ね。まちがってお酒を飲むなんて」


「えへへ、ごめんなさい」


 ばつが悪そうにルチアは謝ったが、言葉ほどその顔に悪びれた様子はない。


「まあ、いいわ。もうすこし顔の赤らみがひいたら中に入りましょうね」


「うん、わかった」


 屈託のない笑みを浮かべる息子を、エリゼはやさしく抱きしめた。


 背後の闇から音もなく近づく人ならざる気配に、二人はまったく気づいていなかった。



   †



「こっちだ、はやく来い!」


 怒号にも似た声に連なるように広間の扉があいついで開き、床を踏みならす革靴の響きがそれに続いた。


 不審者侵入の急報をうけて、屋敷に詰めていた警備兵が各所から駆けつけてきたのだ。


 その数、五十人。

 

 ゆっくりと壇上から降りてきたカルマンを、たちまち礼服と剣刃の包囲網に閉じこめた。


彼らの中心には、悦に入った表情のジェラード侯爵の姿がある。


 たった一人に大仰な、と周囲の貴族たちは思わないでもなかったが、兵士らを呼びよせたジェラード侯爵の顔は真剣そのものである。


 カルマンを生かして捕らえるつもりなどないことは、誰の目にもあきらかだった。


「飛んで火にいる夏の虫とは、まさにきさまのことだな、シャラモンのせがれよ。どうやってこの屋敷に忍びこんだかは知らぬが、ちょうどよいわ。その首を刎ねて、国王陛下のもとに持参してやるわ」


 助命懇願(いのちごい)などしても無駄だぞ。ジェラード侯爵は暗に言ってのけたのだが、それに応えたのは助命懇願の悲痛な声ではなく、嘲笑にも似た薄笑いだった。


「で、私の生首(くび)を手土産に、ウォレス王子の即位を国王に嘆願するというわけですか。みあげた執念ですな、侯爵閣下」


「ほざくなっ!」


 ()れっ! 殺気をこめた声でジェラード侯爵が命じると、まず包囲網の最前列にいた二人の兵士が動きだし、左右からカルマンめがけて強烈な剣撃を打ちこんでいった。

 

 踏みこみの速さといい、振りの苛烈さといい、兵士たちの剣はまさに必殺の一撃というべきものだったが、この直後、二人の兵士は信じられない光景を目のあたりにした。

 

 打ちこまれてきた二本の剣刃を、カルマンがこともなげに素手でつかみとめたのだ。


 皮膚と肉とが刃に裂かれたその瞬間。刃を握り止めたカルマンの(てのひら)からは鮮血が噴きだし、足下の床を朱色に染めあげたが、当のカルマンの顔に苦痛のゆがみのようなものは微塵もない。


 それどころか、愉悦めいた薄笑いすら浮かんでいたのだ。


 二人の兵士はおもわず声を失い、心身を硬直させたが、後背から飛んできた主人の怒号が兵士たちをその硬直から解放させた。


「なにをやっている、さっさとそいつを殺さんか!」


 貴顕(きけん)の仮面を投げすてたジェラード侯爵の怒号に、兵士たちは烈しい焦りに駆られた。

 

 役に立たぬとみなされたら最後、もはやこの屋敷に自分たちの居場所はなくなる。

 

 主人の冷淡で酷薄な為人を承知しているだけに、二人の兵士は狼狽しつつも再度の攻撃に移るため、カルマンの手から剣を引き離しにかかった。

 

 ところが、兵士たちがどんなに力をこめて剣を押し引いても、カルマンに握られた剣刃はぴくりともしなかったのだ。信じられないほどの握力であった。


「な、なんだ、こいつは!?」


「ふん、たわいもない」


 冷笑まじりのこの一語が、二人の兵士がこの世で聞いた最後の人語となった。

 

 握られていた剣刃はふいに解放され、ほぼ同時に宙空(ちゆう)を一閃したカルマンの横殴りの一撃が兵士たちの頭に炸裂し、彼らの首を一瞬にして胴体から吹き飛ばしたのだ。

 

 二個の生首は噴血をまきちらしながら広間の宙空に放物線を描き、ほどなく床に落下してその上を音をたてて転がった。

 

 ジェラード侯爵をはじめとする貴族たちは、自分たちの足下を転がっていく兵士の生首を喪心したような目で見守っていた。

 現実ばなれした光景に直面して、思考が瞬間的に麻痺してしまったのだ。

 

 ややあって彼らの思考と精神が正常を回復したとき、今度は狂ったような悲鳴が広間にとどろいた。

 

 腰をぬかす者、卒倒する者、中には恐怖のあまり失禁する者までいた。

 

 そんな貴族たちの姿をカルマンは無言で、だが、悪意にみちた目で眺めやった。

 ぶざまな、貴族とあろう者がとり乱しおって。声には出さずそう嘲笑すると、カルマンは冷ややかすぎる視線を貴族の一人に固定させた。

 

 卒倒も失禁もしていないが、惚けたように立ちつくす屋敷の主人に。


「どうしました、侯爵。私の首を持参して国王に誉めてもらうのではなかったのですかな。あいにくと先に生首となったのは、あなたのまぬけな部下のほうでしたがね」


「……お、おのれぇ、言わせておけばっ!」


 惚けた態から一転、聴覚と精神を刺激した冷ややかな声音にジェラード侯爵は怒りに歯を噛みならし、あらためて兵士たちに叫んだ。


「なにをしているのだ、お前たち! はやくその男を殺さぬかっ!!」


 侯爵のヒステリックな怒号に鞭うたれた兵士たちは、顔を見交わした後、行動に出た。


 弓と矢を手にした弓箭兵(きゆうせんへい)が最前に飛びだし、カルマンめがけて矢を斉射したのだ。


 弦の鳴り響く音が連鎖し、あわせて十本の矢が広間の宙空を一閃した。


 矢の雨は的確に標的たるカルマンをとらえ、うち一本が眉間をつらいてカルマンを即死にいたらしめた――はずであった。

 

 ところが、カルマンは絶命するどころか薄笑いを浮かべながら、眉間に深々と突きたった矢を握りしめ、直後、こともなげに抜きとったのだ。

 

 矢傷からは視野を翳らせるほどの噴血が生じたが、その出血はすぐに止まった。

 眉間に穿(うが)たれた矢傷が急速に収縮し、傷口を完全にふさいだのである。

 

 底知れない驚愕に呆然と立ちつくす弓箭兵たちをちらりと見やった後、カルマンは自ら抜きとった矢に視線を落とした。

 

 恍惚(こうこつ)という表現にたる目つきだった。


「すばらしい……これが不死の肉体(からだ)というものなのか?」


「……ば、怪物(ばけもの)だっ!」


 ふいに誰かが叫んだ。それが狂乱劇の引き金となった。

 貴族という貴族が悲鳴をはりあげて広間内を駆けだしたのだ。


 まるで蟻の子を散らしたかのようなその無秩序な動きに、テーブルが倒れ、椅子がひっくりかえり、料理が散乱し、食器類が宙空を乱舞する。


 まさに狂乱という表現にたる彼らの姿に、カルマンの口端がふいにつりあがった。


「あいにくだが、諸君らを生きてこの屋敷から出すわけにはいかんのだよ。ふふふ」


 広間の扉が音をたてて吹き飛んだのは、まさにその瞬間だった。


 ふいに倒壊した扉に、そこに殺到しつつあった貴族たちの足が急停止する。


 直後、彼らが倒壊した扉の奥に見たのは、甲冑姿の兵士であった。


 それも一人ではない。十人、二十人、三十人と、広間の扉が異音をあげて倒壊するたびにその数は増え、剣や槍を手にゆっくりと広間へと歩を進めてくる。


「な、なんだ、こいつらは!?」


「ジェラード侯爵の私兵じゃないのか!」


 貴族の一人がそう口にしたのは、兵士たちが着ける甲冑の胸部に鷲をかたどったジェラード家の紋章が目に映ったからだ。

 

 まさしく彼らは今宵の舞踏会のため、屋敷周辺の森林や湖の警備を命じられたジェラード侯爵の私兵たちだった。

 

 無言、そして無表情を保ったまま、足並みをそろえてゆっくりと歩いてくるその姿には、なにやら蝋人形めいたある種の異様さが感じられたが、ともかく新たな救援の登場にそれまで錯乱状態だった貴族たちも、いくぶん冷静さを取り戻したようである。

 

 顔を見あわせて一様に安堵の息を漏らすと、ほどなく一人の中年の貴族が兵士の一人に近寄り、親しげにその肩に手をおいた。


 パルツァイ男爵というのが彼の名である。


「よく来てくれた。さあ、はやくあの悪辣な手配犯を捕まえ……」


 パルツァイ男爵は最後まで言い終えることができなかった。

 それまで無言を保っていた兵士がふいに身動きしたかと思うと、手にしていた剣をパルツァイ男爵の頭に打ちおとしたのだ。


 男爵の頭はまるで地表に落ちたザクロの実のごとく砕け散り、噴血まみれの肉塊となって床にくずれおちた。一瞬遅れて、またしても悲鳴が広間内にあがる。


 この悲鳴を端として、ほかの兵士たちも動きだした。

 無表情のまま手にする武器を振りあげ、床を踏みならし、「な、なぜ侯爵の兵が!?」という当然の疑問に頭を混乱させる貴族たちに襲いかかったのだ。


 ある貴族は、逃げようとして踵を返したところを剣によって首をとばされ、一瞬遅れて頭を失った胴体が噴血をあげながら床にくずれおちた。


 ある貴族は、横をすり抜けようとしたところを鉄槌(ハンマー)の一撃で頭を砕かれ、血まみれの肉片と骨とが床に飛び散った。


 ある貴族は、駆けだしたものの床に足をとられて横転し、立ちあがりざまに後背から槍のひと突きによって腹を裂かれ、矛先にからんだ内臓(はらわた)ごとひきずりだされた。


 ある貴族は胸をえぐられ、ある貴族は胴体を真横に両断され、そのたびに噴きあがる血しぶきが宙空に赤い霧をつくり、床を朱色に染めあげた。


 貴族の中には椅子やブロンズ像などを手にとって応戦し、反撃をこころみる者もいたのだが、しかし、砕けるほどの勢いで兵士の頭や顔を殴打しても、どういうわけか兵士にはわずかな痛痒もあたえることはできず、逆に無慈悲な報復をうけて血の泥濘(ぬかるみ)の中に沈んでいくばかりだ。

 

 悲鳴と血の臭気とが充満するそんな広間のひと隅で、フランツは一人、惚けた態でその場に立ちつくしていた。現実とは思えない事態に直面して自失していたのだ。


 それでも鼓膜を刺激した娘の悲鳴にようやく自己を回復させると、フランツはとっさにその腕をつかみ、叫んだ。


「逃げるぞ、シェリル。はやく!」


「お、お父さま、お母さまとルチアがいないのよ!」


 娘の言葉にはっとしたフランツは、ごく短時間、広間内に視線をさまよわせた後、露台(バルコニー)のほうに視線を走らせた。


「二人はまだ露台にいるはずだ。いくぞ、シェリル!」


 狂乱の態で逃げまどう貴族の群をかきわけながら、二人は露台に向かって駆けだした。


 視線の先には、三階にもかかわらず露台から外へ逃げだそうとでも考えたのか。

 屋外に通じる大窓の前には、そこに殺到する貴族たちの姿があった。

 

 目的は異なるが、ともかく彼らのもとにフランツとシェリルも駆けよろうとしたとき。前方にある大窓のひとつが異音をあげて吹き飛んだ。


「な、なんだっ!?」 


 足下に飛んできたガラス片や木片の群に、フランツとシェリルがあわてて足を止める。


 仰天し、はっと視線を投げつけた先に二人が見たのは、やはりというべきか、大窓から広間へと侵入をはかるジェラード侯爵の私兵の姿であった。


 さらに遅れること数瞬。別の大窓も異音をあげて吹き飛び、やはり同じように武器を手にした兵士たちがあらわれ、その姿におののく貴族たちの前に立ちはだかった。


 露台からの脱出を阻止する意図があることは疑いようもなかった。


「い、いったい、何人いるのよっ!?」


 悲鳴まじりの声をあげたシェリルが、ふと傍らの父親をかえりみたとき。そのフランツはまたしても惚けたように立ちつくしていた。


 大きくみはった、だが、虚ろな視線を一方向に固定させたまま、礼服につつんだ長身を小刻みに震わせている。


「どうしたの、お父さま!?」


 とっさに父親の異常を察したシェリルは、質すと同時に背後からその前に駆けでて、同じ方向に視線を走らせた。

 

 そこに見たのは、なおも露台からの脱出をはかろうとする幾人かの貴族と、それを阻むように対峙する数人の兵士たちの姿である。

 だが、シェリルの目を奪ったのはそのいずれでもなく、兵士の一人が片手からさげている血まみれの個体にであった。

 

 すぐにはわからなかったが、ややあってその正体を知ったとき。シェリルの鼓動が一瞬、停止した。


 それは首から切断された人間の頭であった。母エリゼと弟ルチアの……。


「エ、エリゼ……ルチア……」


 声をあえがせながら立ちつくすフランツの傍らで、シェリルが狂ったような悲鳴をあげたとき。それとは別の兵士が手にする戦斧を宙空に投げはなった。


 烈しい回転をともなって投げつけられた戦斧は、はかったようにフランツめがけて一直線に宙空を疾走し、ほどなくその胸に深々と突きたった。


「ぐわあっ!!」


 にごった悲鳴をあげて、フランツはのけぞるようにして倒れこんだ。


 裂かれた胸から噴きでた鮮血がシェリルの白いドレスにはね、一瞬にしてまだら模様に染めあげる。


 父親が重々しく床にくずれおちる有様を、シェリルは喪心したような目で見守った。

 なにごとが起きたのか、とっさに理解できなかったのだ。


「お、お父さまっ!?」


 はっとわれに返ったとき、シェリルは倒れこんだフランツの身体をあわてて抱きかかえた。

 その腕の中でフランツはなかば息絶えていたが、両目は鈍い光をたたえてなおも開いていた。

 

 耳もとで狂ったように叫び続ける娘の顔に、フランツが血染めの手を伸ばす。


「……に、逃げろ、シェリル。逃げるのだ……」


 そう言ったようにも思われたが、唇がかろうじて動いただけかもしれない。

 まぶたがゆっくりと落ち、わずかに遅れて腕も床に落ちると、ランフォード家の栄華を夢みた貴族はそれきり動かなくなった。


「……お父さま?」


 一瞬よりは長い沈黙の後、シェリルは腕の中の父親に声をかけた。


 しかし、何度も身体をゆすり、何度も名前を呼んでも反応はない。


 やがて父親の死を認識したシェリルが悲鳴を発しようとしたとき、逃げまどう貴族の奔流が彼女を呑みこんだ……。


    

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