第七章 黒妖の魔騎士 その②
しかし、ガウエルの変貌した半面を見つめるキリコの表情にはわずかな驚きもない。むしろそれが当然であるかのような態である。
「……思えば《御使い》というのも、案外哀れな生き物だよな、将軍」
声にごく微量の嘲弄の韻を含ませながら、キリコは赤黒くただれたガウエルの横顔を注視した。
「普通の人間であれば取るに足らないかすり傷であっても、それが銀造りの武器によるものならば、その頬のように《御使い》には致命傷となる。それほどの致命的な弱点を抱えておいて超越者だの超常の存在だのと、よくも言えたものだよ……」
そこでキリコは一つ息を小さく吐き出し、ことさら冷ややかな声音で語を継いだ。
「ついでに言えば、その顔の傷。銀造りの武具でつけられたものである以上、いかに驚異的な治癒再生能力を持つ《御使い》といえど治ることはない。死ぬまでそのご面相のままというわけだ。お気の毒様と言っておこうか」
「き、貴様ぁ……!」
一瞬、キリコを睨み据えるその両眼から、灼熱の光がほとばしった。
それは「たかが人間」によって負傷させられたことに対する憤怒と屈辱の輝きであったが、それ以上に黒衣の魔騎士を赫然とさせたのは、ガウエル自身が、否、おそらくはすべての〈御使い〉が無意識のうちに抱いている劣等意識――致命的な弱点が存在するいう事実――に向けられたキリコの嘲弄が、ガウエルの矜恃をもしたたかに傷つけ、激を誘発させたのだ。
「ファティマの坊主どもに顎で使われる猟犬の分際で、超越者たるわれら《御使い》を下に見た物言いをするとは増上慢の極み。真に哀れな生き物はどちらか、わが剣によって教えてやるべきだろうな」
「できるかね、将軍?」
「むろんだとも」
一帯に漂った平静さは、だが急激に破れた。両者の間に殺気が臨界に達した瞬間、二人は同時に動き出した。
一方は剣刃を閃かせて前方に疾駆し、一方はナイフを投げ放ちつつ後方に飛び退る。
宙空にきらめくナイフの群は、猛然と迫るガウエルの前ではわずかな抑止効果も生まず、鋼の風車と化した大剣の前に火花の発生とともにことごとく粉砕された。
「こざかしいわっ!」
怒号に続く一撃は、だがかわされた。
旋回しながら打ちこまれたガウエルの大剣は一瞬前までのキリコの立ち位置を粉砕し、レンガ材の破片とその粉塵を宙に舞いあげた。
苛烈な一刀をかわしよけたキリコであったが、わずかな間すらおかないガウエルの剛剣の連撃がその身にさらにふりかかってきた。
俊敏で華麗な体術を駆使して右に左に後方にかわしつづけるキリコに、一撃また一撃、さらにもう一撃と、暴風のようなガウエルの凶刃が襲いかかる。
さしものキリコもかわすのが精一杯のように思えた。すくなくともガウエルの目にはそう映って見えた。
「どうした、猟犬! 犬のくせに鼠のように逃げまわるだけかっ!」
「逃げるが勝ちという格言があるのを知らないのかな、将軍殿は?」
「戯れ言を!」
嘲罵とともに一閃した猛刃がキリコの頭上に落下してきた――が、その落下は途中で中断された。
禍々しい剣光が赤毛の頭上に炸裂する寸前、黄金色の光に包まれたキリコの両手が一瞬の動きでその剣刃を挟み止めたのだ。
まさかの白刃取りに、ガウエルの妖眼が底知れない驚愕に濁った。
「し、白刃取りだと!?」
一瞬、ガウエルは両目をむいた。強固な岩石をも薄紙の如く斬り裂く自分の剛剣を素手で受け止められては、さしものガウエルも驚愕せずにはいられなかった。
その驚愕がガウエルの喪心を誘い、ごく短時間、その動きを完全に停止させるに至った。その一瞬の隙を、むろんキリコが見逃すはずもなかった。
挟み止めた大剣の刃を横に払いのけると、キリコはすばやくガウエルの懐に飛び込んだ。そして甲冑の胸部に掌をかざした次の瞬間――。
「聖光砲!」
叫び声に続いて掌より放出された光の砲弾が胸甲に炸裂した瞬間、強烈な力の前にガウエルは声もなく宙空を吹き飛んだ。
黒衣黒冑に包まれた体躯はのけぞった状態で宙空を飛行し、ほどなく床面に叩きつけられ、何度となくその面上を跳ね転がり、敷き詰められたレンガ材の破片と砂塵を舞いあがらせながら屋上の隅にまで至ったところでようやく止まった。
それでもごく短時間のうちに体勢を整え、立ち上がってきたのは流石であろう。
だが無惨な形状に破損した鎧の胸甲が示すように、その肉体に受けた打撃は甚大であった。
立ちあがったものの、ほぼ同時に鼻孔や口角からおびただしい量の鮮血が噴き出し、黒衣の将軍はたまらず片膝から崩れ落ちた。
「お、おのれぇ……聖光か……!」
呪詛の響きに満ちたうめき声を漏らした瞬間、ガウエルはまたも驚愕に両目を濁らせた。視線の先にいるべきはずのキリコの姿がなかったのだ。
とっさに周囲を見まわしたものの、屋上のどこにもその姿を見つけることはできなかった。
「き、消えただと……!?」
まさか逃げたのか、というありえない可能性がその脳裏をよぎったとき、熱風と熱気が吹き荒れる屋上の空間の一角に、ガウエルは殺気の塊のような気配を感じとった。頭上から迫ってくる苛烈きわまる気配を。
「う、上かっ!!」
「遅い!!」
頭上から怒号が轟いたのと、ガウエルが自身の頭上を見あげたのと、そのガウエルの頭に強烈極まるまわし蹴りが炸裂したのは、ほぼ同時のことだった。
キリコが放ったその蹴りの威力は、まさに爆弾が炸裂したごとく。またしてもガウエルは声もなく宙空を吹き飛び、またしても床面を幾度となく跳ね転がり、またしてもレンガ材の破片と砂塵とが巻きあげ、そして、またしても時をおかずに立ちあがってきた。
そこまでは先の聖光砲の一撃を受けた際とまったく同じであったが、ひとつ異なったのは、蹴られた頭が首ごとあらぬ方向へ曲がっているということだ。
脛骨がへし折れているのは一目瞭然だが、むろんこの程度の負傷など《御使い》にとっては取るに足らないことだ。むしろ深刻だったのは精神的な打撃のほうであろう。
それを即座に見抜いたからこそ、両眼に屈辱の毒炎を燃えあがらせるガウエルにキリコは嘲るような一語を投げつけたのだ。
「窮鼠、猫を噛むという格言もあってな、将軍。鼠、鼠と調子にのって追いつめると、逆にとんだしっぺ返しをくらうことになる。今のあんたようにな」
「…………」
ガウエルは沈黙をもって応えた。憎々しげにキリコを睨みつけ、忌々しげに息を吸い、それを吐くだけだ。
「またひとつ賢くなったな、将……!」
ふいにキリコの声は消えた。否、かき消されたのだ。にわかに両腕を頭上高く振り上げたガウエルの口角から噴き上がった咆哮によって。
それは人間の叫び声ではなく、また獣のそれでもなかった。まったく別種の、これまでキリコ自身、聞いたことのないの響きをもつ亜種の叫びであった
ガウエルの肉体に異変が生じたのは、それからすぐのことである。
こぶし大の奇怪な形の肉コブが、顔や腕、胴体や足で盛りあがり、たちまち萎み、さらに盛りあがるといった無秩序なうねりを繰り返し、そのうねりに耐えかねて、その身を包む甲冑の留め金が弾け飛び、甲冑そのものも弾け飛び、黒衣が引き裂かれ、身体がみるみる巨大化していく。
両腕と両足が太く長く伸びだし、腰のあたりから尾のようなものが生えだし、全身の皮膚が深緑色の鱗に覆われていく。
ほどなく頬骨が音をたてて変形し、顎が上下と前に、口角が両端にそれぞれが広がり、無数の残虐な牙歯が口内からはみだすように生えてくる。何が起きようとしているのか、キリコには明白すぎることだった。
超魔態。ダーマ神教と教圏諸国が誕生するはるか以前。この大陸西方の地一帯に栄え、そして謎の滅亡をとげた古代王国の言葉で「究極の進化」を意味する異形の姿に、ガウエルが変身を遂げようとしているのだ。
無言でその様を見ていたキリコの両眼がふいに鋭く光った。小山のような影がキリコの眼前にうごめいたのだ。ガウエルの身体が「変貌」を終えようとしていたのである。
その姿は、まさに「蜥蜴」であった。
無数の突起が突き出た巨大で平たい頭。
深緑色の鱗に覆われた体躯。
湾曲に伸びた鋭い鉤爪を生やした四肢。
頭の巨大さと比べて豆のように小さい丸い両眼からは、溶岩の輝きにも似た灼熱の光が漏れ、左右に大きく裂けた口が開くと、暴虐な歯牙を舐めまわすように赤色の長い舌が上下左右に躍るのが見えた。
ゆうにキリコの三倍はあるであろう、巨大な体躯の蜥蜴の怪物……。
「……待たせたな、ファティマの猟犬よ」




