第六章 血戦! 簒奪者対叛逆者 その①
その日、ライエンの空は朝から厚い灰色の雲によって隠されていた。
それは昼を過ぎて夕刻となり、さらに夜を迎えても変わることなく、ライエン市民にとってはついに太陽も月も拝むことのできない一日となったのである。
月明かりのささない夜は、街全体が漆黒の帳に覆われる。街中には植物油で灯る街灯がいくつも設置されているのだが、さすがに街全体を明るく照らすほどの効力はない。
それはギュスター伯爵の屋敷も同様であった。
月明かりが皆無とあって、普段よりも多くの松明が邸内各所に設けられた鉄籠の中で燃え盛り、漆黒に染められた敷地内をなんとか照らそうと奮戦していた。だが月や星々が放つ膨大な光量の前では、線香の火にひとしいものだ。
そのギュスター邸にあって今宵、天を覆う厚雲のとばっちりをもっともうけたのは、屋敷を守る警備兵たちであろう。
月明かりの満ちた夜であれば、松明など焚かなくとも敷地内を隅々まで視認できるのだが、こうも暗いと松明を持たなくては、警備どころか移動するのもままならない。
松明が熱い、警備がしにくい、ついてねえや、などと夜間担当の兵士たちは口々に愚痴をこぼしていたのだが、ある時間帯を境にしてその種の声は一切聞こえなくなっていた。
それは兵士たちが諦めの境地に達したとか、愚痴をこぼす無意味さを悟ったとかそういうことではなかった。邸内各所で警備に当たっていた兵士たちの姿が、忽然と消えていたのである。
「こちらでございます、エリーナ様」
敷地内を網の目のようにはしる石畳の上を音もなく静かに、だが足早に移動する集団がいた。屋敷内に存在する九割以上の人間が寝静まった夜半過ぎのことである。
兵士の格好をした者、執事の格好をした者、料理人の格好をした者、女中の格好をした者など、年代と装いは様々である。
石畳や舗装されていない土の庭園路を走っては止まり、そのつど用心深く周囲を確認し、再び走りだしては止まり、周囲を確認してからまた走りだすという奇妙な行動をとるこの男女の集団は、革命軍が屋敷内を探らせるために潜りこませていた間者たちである。
そんな彼らに前後左右を囲まれるように集団の中心にはエリーナの姿があり、その傍らにはハウルの娘ハンナがぴたりと寄り添っている。
樹庭園の石畳を駆けつつ、ハンナは低声でエリーナにささやいた。
「エリーナ様にはこれよりしばらくの間、馬車庫のほうで御身をお隠しになっていただきます。多少衣服がお汚れになってしまいますが、屋敷の裏手門から侯爵様が自ら兵士を率いて参られ、そこで落ちあう手筈となっておりますので」
ハンナの説明にエリーナは無言でうなずいた。その体内では底知れない興奮と期待に鼓動が激しく脈打っていた。
あの忌まわしい内戦から五年。夢にまで見たフランシスとの再会がすぐ目の前まで迫っている。その高揚感の前では、衣服が汚れることなど些事と呼ぶにも値しないことだ。
だが一方で、エリーナには懸念することがひとつあった。
「でもハンナ。馬車庫に辿り着くまでに、屋敷の警備兵に見つからないかしら?」
「ご心配には及びません。そうならないよう事前に手を打ってあります」
「手?」
「はい。確実な手をです。今頃彼らは邸内の各所でまどろみの直中にいることでしょう」
そう応じ、ハンナは意味ありげな微笑を口もとにたたえた。
ハンナが打った手。それは夜間担当の警備兵の夜食に遅効性の睡眠薬を混ぜ、屋敷を襲撃する時間帯にあわせて兵士たちを眠らせてしまうというものだった。
当初、ハンナたちは同様の手段でリンチ王の毒殺を画策したのだが、リンチ王をはじめとする重臣たちの料理は、作るのも運ぶのも随行してきた専属の料理人や従者たちがすべて担当し、屋敷の人間は料理に近づくことすらできずに計画を断念した経緯がある。
屋敷の主人たるギュスター伯爵であれば、この手法で毒殺するのはいつ何時でも容易であったが、国王にとりいって現在の地位を得た「太鼓持ち貴族」など害したところで、リンチ王権にはわずかな影響もないだろうし、また諸侯になることを切望している他のリンチ派の貴族たちを喜ばせるだけであり、彼らの栄達の手助けをしてやる義務はハンナたちにはない。
ともかく屋敷の料理人にも革命軍の間者は紛れこんでおり、夜食等に睡眠薬を混入させる作業じたいは容易であった。
ただ、すべての兵士に睡眠薬が効果を発揮するとは限らない。それだけがハンナの懸念するところであったのだが、ここまでの間、警備兵とはただの一人とも遭遇していない。どうやらすべての兵士に睡眠薬は効力を発揮したようだ。
「見えたぞ。あの建物の角を曲がれば、馬車庫まではすぐだ」
先頭を走っていた兵士姿の男が小声を放ち、前方を指先で指し示した。距離にして五十メイルほど先に、敷地内に縦横に建ち連なる屋敷の端が見えた。
ハンナたちはやや進んだ所でいったん足を止め、周囲を用心深く窺った。そして人の声も気配もまったくないことを確認し、再び走りだそうとしたまさにそのとき――。
「これはこれは王女殿下。このような夜分にどちらへ参られるのですかな?」
冷ややかな、それでいて愉悦に満ちた声が闇夜の一角から流れでてきた。その声にエリーナたちはおもわず全身を凝固させた。
ややあって薄闇の一角が揺れ、一同の後背にある建物の陰から青銅製のランプを片手に抱えた男が一人姿をあらわした。
ランプの灯火に照らされたその顔は、屋敷の主人ギュスター伯爵であった。エリーナたちにしてみればまさかの遭遇であり、その胸中が周章の念に激しくざわめいたのは当然のことであろう。
だが伯爵以外に周囲に余人の気配がないことを確認すると、集団からまずハンナが一歩進み出て、動揺する胸郭を抑えつつ笑顔をたたえて応じた。
「これは伯爵様。いえ、王女様が夜の散策をされたい申されましたので、私どもが警護を兼ねて敷地内をご案内していた由にございます」
「ほほう、散策とな」
応じたギュスター伯爵の声には、嘲弄にも似た響きがあった。
「それは結構だが、しかし王族警護の任は近衛隊のみに与えられし光輝ある役目。たとえ屋敷内の散策とはいえ、それをそなたたちのような使用人風情がかってでるとは、いささか出過ぎではあるまいか?」
露骨な侮蔑の光を両目にたたえて、ギュスター伯爵はハンナたちを睨み据えた。
下々風情が身分をわきまえろ。その目はそう主張していた。
このような態度を伯爵が見せたとき、彼の従者たちは地に身を投げ出し、跪いて主人に許しを請うのが常なのだが、むろんハンナはそのようなことはしない。
表面的には文句のつけようのないほどうやうやしく、それでいて毅然とした態でハンナは非を詫びた。
「そうおっしゃられますと恐縮するよりございません。不敬の極み、一同を代表して幾重にもお詫び申しあげます」
語尾に重なるように、かわってエリーナが声を発した。
「この者たちに罪はありません。私が彼らに無理を申したのです。責めは私が受けます、ギュスター伯爵」
エリーナの一語にギュスター伯爵は得心の態でうなずき、指先で顎先つまんだ。
「ふむ、そうでございましたか。そういうことなれば是非もありませんが、しかしながら殿下。よもや散策ついでに何者かと密会しようなどとはお考えではございませんな?」
「密会?」
「さよう。例えばフランシス・ド・リドウェル侯爵とか……」
フランシスの名がギュスター伯爵の口から発せられたとき、一同の表情が戦慄にこわばったのは無理なからぬことであろう。
それでもただ一人ハンナだけはどうにか表情を乱さずにいたのだが、それも伯爵が荒々しく語を繋ぐまでのことであった。
「ふん、下賎なネズミどもが。貴様らが叛徒の間者であることはすでに承知しておるのだっ!」
吐吐きすてると同時にギュスターが指を鳴らした。
直後、それまで静寂と闇に覆われていた一帯がにわかに赤く染まり、地を駆る無数の音がそれに続いた。
建物の中や陰から、おそらくは潜み隠れていたと思われる武装した兵士の群が松明を手に場に殺到してきたのだ。
その数、およそ五十人。驚きの声を発する間もなく、たちどころにハンナたちは鎧と剣によって築かれた人壁の中に包囲されてしまった。
「こ、これは……!?」
さすがにハンナの表情が青ざめた。
薬で眠らせたはずの警備兵たちが出現したこともあるが、何よりも自分たちの計画が屋敷側に知られていたことを瞬時に悟ったからだ。
突然の事態に呆然と立ち尽くすハンナたちを、悦に入った目つきで舐めるように見据えていたギュスター伯爵の視線が一点に固定された。
「さあ、王女殿下。こちらにおいでくださいませ。いまから殿下をたぶらかす奸臣どもを成敗いたしますので」
エリーナはハンナの背後に隠れて動かない。怯えた、それでいて嫌悪感に満ちた視線をギュスター伯爵に向けている。伯爵に対する底知れぬ負の感情がその双眸からは窺い知れた。
それに気づいたのであろう。ギュスター伯爵の口端が不快げにゆがんだ。
「ふん、困った王女だ。つまらぬ手数をかけさせてくれる」
もはや殿下の敬称すらつけずにギュスター伯爵は小声で毒づくと、近くにいた指揮官らしき兵士に目配せして何事かを指示する。
「……どうやら計画をすこし修正する必要があるようね」
静かにそう独語すると、ハンナは後背の仲間たちに視線を投げた。
それに気づき、仲間の兵士たちもハンナに視線を返す。
お互いの視線と表情が交錯した瞬間、彼らの表情が一様に一変した。ハンナの決意を無言のうちに察したのだ。




