第五章 ライエン夜騒曲 その⑩
「フランシス卿、どうかご無事で……貴方さえご無事なら私はそれだけで十分なのです」
たとえ二度と会うことが叶わなくとも……。そう胸の中で呟くとエリーナはペンダントをしまったその直後、その視線がにわかに動いた。温室の扉が開く音が聞こえたのだ。
ややあって、盆を抱えた一人の女中が温室内に入ってきた。
腰まで届く黒い長髪を背中で束ねた二十代半ばとおぼしきその女中は、冷水の入った壺と洋盃をが乗った盆を抱えたままエリーナにうやうやしく一礼した。
「王女様。冷水をお持ちいたしました」
「ありがとう。そこに置いてくださる」
一礼の後に女中はテーブルの上に盆を置いた。その中の冷水入りの壺に手を伸ばしたとき、エリーナはその壺の下に一通の封筒が隠されたように置かれてあることに気づいた。
「あら、これは何かしら?」
エリーナがそう問うと黒髪の女中は用心深く周囲を見わたし、温室の内にも外にも他に人の気配がないことを確認した後にエリーナに小声でささやいた。
「私の名はハンナ。リドウェル侯爵閣下にお仕えする従者ハウルの娘にございます。父の命でこの屋敷に身分を偽り、女中として潜りこんでおります」
そのひと言ですべてを察したのか。一瞬エリーナは息を呑み、表情を一変させた後に慌てて手紙を開封した。
「こ、これは……!?」
文面を読み、エリーナはおもわず声を失った。それはエリーナ宛てに書かれた、フランシス直筆の文であったのだ。
そこには、現在ある作戦のために革命軍の同士とともにライエンに潜伏していること。ギュスター邸内にハンナをはじめとする革命軍の間者を潜りこませていることなどが記されてあり、その文面の最後はこう締めくくられていた。
『昔日、貴女さまとの間にかわした誓いを、このフランシス今日まで忘れたことはございません。必ずや非道なる簒奪者に正義の鉄槌を下し、亡き国王御夫妻と兄君クリステン殿下のご無念をお晴らしいたし、このジェノン王国に再び秩序と平和を取り戻すことを誓約いたします。それまで何卒ご壮健であらせられることを』
手紙を読み終えた瞬間、エリーナの碧玉石の瞳から涙がこぼれ落ちてきた。それはむろん嘆き悲しみの涙ではなかった。
そんなエリーナをハンナは微笑をたたえて見つめていたが、無用な長居は屋敷側の不審を招くと判断したのか。一礼のうちに静かに温室を立ち去ろうとしたのだが、それに気づいたエリーナが涙をぬぐいつつその動きを制した。
「ま、待って、ハンナ!」
慌ててハンナのもとに駆けよると、エリーナは胸からさげていたペンダントをはずし、それをハンナに手渡した。
「お願い、どうかこれをフランシス卿にお渡ししてください」
必ずや、という短い返答とともにハンナはペンダントを受け取り、それを内懐にしまいこむと温室から出て行った。
一人温室に残ったエリーナは、しばしの間、放心の態でその場に立ちつくしていたが、やがて籐の椅子にもどり腰をおろすと、テーブルの上の手紙をいつまでも見つめていた。
†
「フランシス様、吉報にございますぞ!」
その日、朝から仲間とともにライエン市内の様子を探りにでていたハウルが、揚々とした態で臨時の拠点である至高荘に戻ってきたのは、その日の夕刻のことであった。
談話室でランベール伯爵、ボイド男爵、ロベールといった幹部たちと協議を開いていたフランシスは、どこか興奮を抑えられないといった様子のハウルに軽く目をみはった。
「どうしたのだ、ハウル。そんなに息をはずませて?」
「はっ。じつは先刻、ギュスター邸にいる同士から報告が届きました。わが娘ハンナが王女様との接触に成功し、フランシスさまの文を無事にお渡しできたのことにございます」
ハウルの言葉に、フランシスはおもわず色めきたった。
「それは本当か、ハウル!」
「はい。娘からの報告によれば、王女様におかれましてはご壮健であらせられるとのこと。フランシス様の文にたいそうお喜びになられていたとのことにございます」
「そうか、エリーナ様はご壮健か……それならよい。それだけが気がかりだった……」
安堵の声を漏らすフランシスに、誰も声をかけようとする者はいなかった。フランシスの声は他者に向けたものではなく、自身に対する独語とわかっていたからである。
だがハウルには、さらにフランシスに伝えねばならないことがもうひとつあった。
「それといまひとつ。ハンナが王女様より、フランシス様にお渡しするように申しつかった品がございます」
「なに、エリーナ様から?」
ハウルはうなずき、内懐から絹布に包まれた物をフランシスに手渡した。
フランシスが布をほどいて中を見ると、そこには見憶えのあるペンダントが包まれていた。
「これは……!?」
かつて婚約の誓いとしてエリーナに贈ったペンダントであることをフランシスが認識するまで、わずかな時間も必要としなかった。これを渡すことでエリーナが自分に何を伝えたいのか、フランシスにはわかる気がした。
手にするペンダントを無言で見つめるフランシスと、そのフランシスを同じように無言で見つめる幹部たちの間にしばし静寂の時間が流れたが、一通の伝報を手に談話室に駆けこんできた兵士の足音が、その静寂を断ち切った。
「申しあげます。たった今、伯爵邸内の同士より新たな情報が届けられました!」
フランシスは兵士から伝報を受け取り、その文面に目を通した。
新たに送られてきた情報にはリンチ王一行の行動予定について記されてあり、とりわけフランシスの注意をひいたのは、リンチ王が国都ガルシャへの帰還を三日後と定めたくだりにであった。
「三日後か……では、われらも例の計画について急ぎ取り決めねばなるまい」
ランベール伯爵がそう切り出すと、フランシスたちは無言でうなずいた。
ランベール伯爵が口にした「例の計画」。それはリンチ王が警備の厳重な国都ガルシャを離れ、警備が手薄となる地方領へ行幸にでたところを襲撃するというものだった。
このライエンに各地から密かに集結したのも、すべては国王のライエン行幸を事前に察知し、乾坤一擲ともいうべき襲撃作戦を実行するためだった。
そして、その作戦における最重要情報ともいうべき帰還日を知り得た今、フランシスたちには決断しなければならないことがあったのだ。
「ここで一番の問題となるのは、いつリンチに襲撃をかけるかだ。ガルシャへの帰路の途中か、それともギュスター邸に滞在しているときか。ふたつにひとつじゃな」
ランベール伯爵が提示した選択肢に、一番に反応したのはボイド男爵である。
「むろん、屋敷に滞在しているときを狙うべきだ。深夜屋敷の者たちが寝静まった頃合いを見はからい、いっきに屋敷内に突入してリンチの首を獲る。われらには屋敷内に間者を擁しており、彼らと緊密に連絡をとりあい、内部のくわしい状況を把握して行動にでれば必ずリンチめを討ちとれよう」
ボイドの意見に、室内に立ちならぶ兵士たちが一様にうなずいた。
実際、強襲を仕掛けるとして、国都への途上を狙うよりも、誰もが寝静まる深夜の屋敷に襲撃をかけたほうが作戦の成功する可能性は高いように思えた。
だが、その提案に対して異を唱える者がいた。親衛隊長のロベールである。
「だがギュスター邸には随行してきた近衛隊の他に、百人ほどの警護の兵がいる。さらに高台の麓にある警備兵団の屯所には五百人もの兵士がいる。屋敷内に突入していっきにリンチの首を獲れればよいが、万が一にも中で手間どったりすれば、内の近衛隊と外の警備兵団に挟撃され、袋のネズミとなるのは逆にわれらのほうだ」
ロベールの指摘に、ランベール伯爵が得心したようにうなずいた。
「たしかに屋敷への襲撃となれば、その危険性は十分にあるの。逆に帰路の途中であれば、万が一に失敗したときもこちらとしても逃げるのは容易だ」
「二人とも、何を今更弱気なことを言われるかっ!!」
テーブルをばんと強くひと叩きし、ボイド男爵は二人の慎重論を一蹴した。
「今回の作戦は、劣勢を強いられてきたわれらにとって、まさに起死回生を狙う決死の作戦。万が一のことなどを考えていては、成功するものも成功せん。今われらに必要なのは必勝の信念。ただそれだけではあろう!」
「信念だけでは戦いに勝つことはできませんぞ、男爵」
応じたロベールの声には、あからさまに冷たい響きがあった。
「戦いとは相手の存在があってのもの。ゆえに用心するに如くはなしと申しているのです。あなたは今、起死回生の作戦といわれた。ならばこそ、ただ勢いにまかせての軽挙は慎むべきではありませんか」
ロベールの発した反論――というより皮肉まじりのアンチテーゼに、ボイド男爵は一瞬鼻白んだが、戦場の勇者として知られるロベールの言葉には説得力があり、ボイド男爵もとっさに反論できない。
ロベールの懸念するとおり、屋敷の内外から挟撃をうければ、数におとる革命軍の全滅は必至である。とりわけ、外からの襲来が予想される警備兵団は無視できない。
厳しい訓練をうけた精鋭たる近衛隊の騎士とはことなり、兵士の多くは武芸のぶの字も身につけていない、ただ粗暴なだけの軽輩であるが、それも五百人という集団になれば十分に脅威となりうるものだった。
警備兵団という単語が場に流れでると、それまで黙して幹部たちのやりとりを聞いていたハウルが、ふと心づいてフランシスに声を向けた。
「警備兵団といえば、今日市街をまわっているときに妙な話を耳にしました」
「妙な話?」
「はい。つい先日、第二市街区の一画で起きた怪現象のことは、すでにフランシス様もお訊きのことと思いますが」
わずかな沈黙の間に、フランシスは脳裏の淵から対象となる記憶をひきだした。
「ああ。たしか大通りの真ん中で何かが爆発したような痕跡があり、一帯の路面や石塀が破壊されていたという話のことだな。結局そこで何があったのかは、誰にもわからずじまいだったとか」
「さようです。それでその場に駆けつけた住民の一人から聞いた話なのですが、現場には首を切断された数体の死体があったそうで、しかもそれらの死体はすべて、どうも警備兵団の兵士のものらしいとのことです」
「警備兵団の兵士の死体?」
「はい。それで気になりましたので、昼から酒場に顔をだしていた末端の兵士にそれとなく話を向けたところ、その兵士が言うには、昨日以降、兵団長と数名の同僚の姿が屯所で見かけなくなったとのことです。不審に思った兵士がそのことを幹部に質しても、彼らにも兵団長や同僚の所在はわからないとのこと。死体の件といい、団長らが所在不明となっている件といい、迂闊なことは申せませんが、警備兵団内になにかしらの異変が生じているのではありませんか」
すると、またもボイド男爵がテーブルをひと叩きして、嬉々とした声をはりあげた。
「これこそまさに天の配剤! 指揮官たる兵団長が屯所に不在というのならば、作戦を実行するにあたって躊躇するなにものもない!」
不確定な情報を都合よく解釈したボイドの強硬な主戦論に、ランベール伯爵とロベールは眉を潜めたが、男爵はそんな二人には目もくれずフランシスにむかってさらに強硬論で迫った。
「ご決断を、侯爵。ギュスター邸滞在中の襲撃こそ、あのリンチめの首を獲る最大の好機。この機を逃せばわれらが勝利を手にする機会は二度と訪れませんぞ!」
ボイドの熱弁を耳にしながらフランシスはじっと目を閉じて沈黙していたが、それも長いことではなかった。ゆっくりと目を開き、
「わかった。今回の作戦、屋敷に滞在中に決行することとする。ロベール、他の拠点にいる同士たちにその旨を伝えておいてくれ。決行日にそなえて準備を怠るなと」
「……はっ、かしこまりました」
わずかな返答の遅れがロベールの心情を如実にあらわしていたが、声にだしては何も言わず、忠実な巨漢騎士はうやうやしく頭をさげた。




