第五章 ライエン夜騒曲 その⑧
皮肉の響きに満ちた声を向けると、わずかな間をおいて路肩に設けられた石塀の陰から黒衣の人影が数個飛び出し、乱刃を閃かせながらキリコに襲いかかってきた。全身を覆面と黒衣で覆い隠し、その顔は伺いしれない。
そんな襲撃者たちの姿を皮肉っぽく眺めやっている内にも、キリコは殺意をたぎらせた刃の円環の中に包囲されてしまった。その数七人。
「まったく、教会近くで闇討ちとは正気の沙汰とは思えんな。怪しげなクスリでも服用してハイにでもなっているのか?」
その嫌みの一語に答えたのは言葉ではなく、地を駆る疾駆音と喚声だった。周囲を取り囲む襲撃者の内、前後左右から四人が同時にキリコめがけて躍りかかり、頭上高くかざした剣を撃ち込んできたのだ。
「死ねやっ!」
殺意の猛り声もろとも四方から四本の剣が銀色の光となってキリコの頭上に打ちおとされ、直後、無惨に斬り裂かれたキリコの屍体が襲撃者たちの眼前に――なかった。
襲撃者たちの剣が裂いたのは通りの地面であり、そこには屍体どころかキリコ姿そのものさえなかったのである。
「き、消えた……!?」
「頭上だっ!」
仲間内から飛んできたその声に四人の襲撃者たちはいっせいに頭上を見あげ、そして見た。まるで見えない羽でも生やしているかのように、頭上高く飛びいたっているキリコの姿を。
いつ四本もの剣撃をかわし、いつ宙空高く跳躍したのか。四人の襲撃者たちにはまるでわからなかった。
「い、いつの間にっ!?」
「神をも畏れぬ不心得者たちよ、己らの罪深さを教えてやる!」
頭上から降下してきたキリコがそう吠え猛った次の瞬間、通りの宙空に銀光が一閃した。キリコが内懐から取り出したナイフを、眼下の襲撃者めがけて投げ放ったのだ。
一直線に降下していったナイフの群は、恐ろしいほどの正確さで襲撃者たちの太股の肉を刺し貫き、短い悲鳴の後に襲撃者たちは悲鳴を夜空に噴きあげながら地面に転倒した。
地面を這いつつ呻き声まじりに罵り声を轟かせる襲撃者たちにキリコはつい苦笑したが、別の方角から新たに迫ってきた凶刃がその笑みをかき消した。
「なぜ俺を襲う?」などという無意味な問いかけは口にせず、キリコはふたたびナイフを取り出して新たに迫り来た襲撃者の群に投げ放った。
一瞬後、またしても鮮血と悲鳴が宙空に散らばり、さらに三つの負傷体が生産された。
キリコは苦悶の呻き声と憎悪の罵声を飛ばし続ける襲撃者の一人に歩みより、黒衣の覆面を剥ぎ取った。
そこに見たのは昼間騒動を起こした警備兵団の例の猿顔兵士だった。さすがに骨ごと潰された鼻は回復していないようで、鼻を隠すように顔の中央を包帯で巻いていた。
「またお前か。ほんとに懲りない猿だな」
それは嘲弄というよりも心底から辟易した口調であったので、それがかえって猿顔兵士の檄を誘発したらしい。発狂した猿のように血走った目と声で猿顔兵士は喚きだした。
「き、貴様、憶えていろよ! 絶対にこのライエンから生きては出さんからな。覚悟しておけぇぇ!」
「はいはい。楽しみに待っていますよ」
そう言い捨てると、キリコは手にする覆面も路上の隅に投げ捨ててその場から歩きだした。
後背からは依然として悪口雑言の塊が飛んできていたが、ふいにその声が消えた。
怒りよりも痛みが勝り、もはや罵る元気もなくなったのかな。そうキリコは思ったのだが、それが思いちがいであったことを知ったのは異様な気配を感じとり、とっさに背後を顧みたときである。
そこでキリコは見た。地面に転がる数個の生首を。
ついさっきまで元気よく罵声を飛ばしていた猿顔兵士と仲間の兵士たちの首だった。
だが、すでにキリコの視線と注意はそれらの生首にではなく、首を失った兵士たちの後背に立つ別の存在に向けられていた。
黒い装束に黒い覆面という装いは同じであったが、その内から発せられている気配はあきらかに異質のものだった。
「貴様、何者だ?」
静かにキリコは問うた。が、この時すでにキリコは、新たに出現した黒衣の襲撃者の正体を察していた。
襲撃者が両手に構える二本のサーベルに、キリコは十分すぎるほどの記憶があったのだ。
その名前が喉元まででかかった時、キリコの鼓膜に人間のものとも獣類のものともわからぬ奇声が轟いてきた。
「シャアァァーッ!!」
黒衣の刺客は奇声をはりあげ、猿顔兵士らの首を刎ねて赤く染まった二本のサーベルを振りかざしてキリコに斬りかかってきた。
それは尋常な動きではなかった。距離にして三十メイル(三十メートル)はあろう距離を、ただ一度の跳躍でキリコの頭上まで迫ってきたのだ。
しかし当のキリコの顔には驚きの色はない。むしろその動きを予測していたかのようにすでに手にしていたナイフを、頭上から迫る黒衣の襲撃者めがけて投げはなった。
キリコの手から放たれた八本のナイフが、銀色の閃光となって上空に向かって飛翔していく。
対する黒衣の襲撃者は手にする二本のサーベルをまるで風車のように旋回させ、飛来してきたナイフの群を弾きとばした。
だが完全に防ぐことはできず、刃の風車の間隙を通り抜けた二本が覆面の黒い生地を切り裂き、繊維が宙空を漂った。襲撃者の素顔が露わとなり、「おやおや」と言いたげにキリコが薄く笑ったのは直後のことである。
裂かれた覆面の中にキリコが見た顔は、ライエン警備兵団長のボイドであった。
否、ボイドだった人物というべきであろう。全身から発せられる異様な気質と黒点のない両眼。そして常人では考えられない跳躍から、ボイドの身に生じた事実をキリコはすでに看破していた。
「どうやら少し会わない間に人間を廃業したようだな、団長」
キリコは薄く笑った。磨きあげられた剣刃のような危険な笑いだった。
だが、すでに人間としてのあらゆる感性をなくしているボイドには、わずかな畏怖も与えなかったようである。二本のサーベルを閃かせてボイドはふたたび地面を駆った。
さながら野生の豹を思わせるその俊敏な動きは、昼間対峙したときとは比べようのないものだったが、そのことに驚きと焦りを感じる必要性をキリコには見いだせなかった。
顔の前にサーベルをかまえながら突進してくるボイドに、その無防備な胴体めがけてキリコがナイフの一投を放つ。鈍い金属音が深夜の大通りに響いたのはその直後のことだ。
はね返されて路面に散らばったナイフを見やり、ボイドが黒衣の下に鉄造りの甲をまとっていることをキリコは知った。
「鉄甲まで着こんでくるとは用意周到なことだ――ならば!」
キリコは突進を続けるボイドに向けて右腕を水平に振りかざした。
「気光剣!」
一瞬、キリコの手刀の先から放出された一条の光刃が宙空を疾走し、奇声をあげて躍りかかってきたボイドの頸部を切り裂き、たちどころに頭を吹き飛ばした。
首から上を失ったボイドの身体は両腕を泳がせながら数歩よろめき、そのまま路上に崩れ落ちて――いくはずであった。
ところがボイドの胴体は頭を失ったまま疾走を続け、キリコに跳びかかってきたのだ。
「な、なにぃ!?」
さしものキリコも目の前の光景に驚愕した。その驚愕がキリコに一瞬の隙と躊躇を作ってしまった。
キリコに飛びついてきたボイドの首なし身体は、そのまま両腕両足をからませてキリコの身体を締めあげはじめた。超常の怪力が生む強烈な圧迫力に、キリコの全身の骨がたちまちきしみだす。
屍生人特有の怪力で身体の骨をへし折るつもりか! そうキリコが思った次の瞬間、ボルドの身体に異変が生じた。腕、脚、腹部、背中。奇怪な肉こぶのうねりが全身のいたるところで生じ、膨張と収縮を始めたのである。
その光景はまるで《御使い》の超魔態を想起させたが、すぐに別種の異変であることをキリコは知った。
「な、なんだこれは……?」
ボイドの身体に生じたさらなる異変にキリコは息を呑んだ。無秩序な筋肉のうねりが終わった後に、今度は身体全体が膨張を始めたのだ。
身に着けていた鉄甲を弾き飛ばし、黒衣も裂いて、まるで空気を注入されたゴム風船のようにボイドの肉体はみるみる膨れあがっていった。
「し、しまった、そういうことかっ!?」
キリコの表情と声が蒼白色に一変した、まさにその瞬間だった。膨張の一途にあったボルドの肉体が突然爆発したのだ。
ほぼ同時に発生した閃光の中にキリコの姿は消え、わずかに遅れて轟音と爆風が生じ、一帯に猛威をふるって襲いかかった。
爆風によって路肩の石塀が粉々に吹き飛び、植林樹の幹が異音もろともへし折れ、路面が土柱となって宙高く噴きあがり、一転して土砂の豪雨となって地上に降りそそいだ。
ややあって異変を察した教会の司祭や周辺の住民が、一人また一人と大通りに駆けつけてきた。
すでに刻は深夜のただ中であったが、あれだけの爆発音を聞いてはじっとしていられるわけもなく、皆何事が生じたのか確かめにやってきたのだ。
そこで彼らが見た光景は凄惨の一語であった。
幹の部分からへし折れた植林樹。
原形をとどめていない路肩の石塀。
路上に横たわる数体の首なし死体。
さらには大きくえぐられた路面の窪穴。
誰もが呆然とした態で、それら原因不明の惨事の痕跡を見つめている。
ここで一体何事が起きたのか、その答えを口にできる者はむろん一人もいなかった……。




