第五章 ライエン夜騒曲 その④
ギュスター邸の所在地があるライエン第一市街区は、政庁舎や警備兵団本部といった行政機関の施設が建ちならぶ特別行政区に指定されており、市井の民家はむろん、あらゆる民間施設の建造とそこでの商いが禁止されている。
前領主の時代にはそのような区分けはいっさいなく、屋敷のある高台の麓一体には多くの商店や住宅が建ちならんでいた。それを改め、市井のあらゆる建物を区外に追い払ったので、それまでそこに住んでいた者や商いをしていた者は当然ながら新しい領主に抗議したのだが、
「行政施設を一カ所に集中させて、連帯を強化して行政を円滑に進める。すべては市民生活向上のためである」
というのが新領主側の返答であった。
一見理にかなった考えのようではあるが、ギュスター伯爵の言葉を額面どおりにうけとった者は一人もいなかった。
とかく小心者と噂される新領主のこと。自分の統治に不満を募らせた民衆がいざに暴発したとしても、警備兵団の本部などを麓一帯に構えておくことで、いざ市民が蜂起したとしても屋敷に殺到できないようにするため、それらの施設を「防波堤」にする腹づもりであることを市民たちは見抜いている。
見抜いてはいるが、それをギュスター伯爵が認めたわけでもなく、また行政区創設の考え自体に異論のはさむ余地がなかったため、市民たちは不満を口にしつつ区外に与えられた代替地へと去ったのである。
その第一市街区の一画。右隣にはライエン政庁舎、大通りを挟んだ正面には警備兵団本部、そしてギュスター邸のある高台を後背に望む場所に、白亜の城塞のようにそびえたつ建物がある。一切の商業活動が禁じられているはずの第一行政区にあって、唯一営業を許可されているライエン随一の高級宿屋【至高館】である。
大理石と花崗岩を組みあわせて造られた、地上七階建ての部屋数五十室を数える巨大なその宿泊施設は、前領主のリドウェル候フランツがライエンを訪れる各地の諸侯や豪商のための宿屋として建築させたもので、領主がかわった現在も、宿泊できるのはひと握りの特権階層という客層はかわらない。
領主とともに変わったのは客層ではなく宿屋の経営者である。
それまでリドウェル家から経営を一任されていた前任者は、新領主となったギュスター伯爵によって追放された。前領主の影響力を排除するための処置であることはいうまでもない。
現在の【至高館】の経営者であるサンデスは、この年五十歳になる恰幅のよい体躯をした中年の商人で、髪にはいくらか白いものがまじっているが、実年齢より十歳は若々しく見える。
ギュスター伯爵とは同郷の間柄で、革命以前はその地で小さいながらも七代続く老舗の宿屋を営んでいたのだが、革命後にかねてより知己であったギュスター伯爵求めに応じてライエンに移住し、新しい【至高館】の経営者におさまったのだ。
そのサンデスは三日ほど前から正妻に内緒で囲っている情婦の一人と、エルド海沿岸の港町に所有する別邸に出掛けていたのだが、予定を二日ほど早く切り上げてライエンに帰ってきた。
鬼より恐ろしい正妻に情事がばれたとか、国王の極秘行幸を人ならざる直感で察知したとか、そういう理由ではなかった。件の情婦から正妻との離別を要求されて口論となり、現地で喧嘩別れをしてしまったのである。
むろん、それは当人たちにしかわからない事情であり、それゆえ宿の留守を預かっていた番頭のロッドなどは、どこか消沈した態でエントランスにあらわれた主人の姿に軽く目をみはったものでる。
「やあ、ロッド。今帰ったよ」
「これは旦那様。ずいぶんとお早いお帰りで。たしかお帰りは明後日のはずではありませんでしたか?」
「う、うむ、まあな。その、あれだ、繁盛期に店を留守にするのもなんだと思ってな」
どこか歯切れのわるいサンデスのもの言いにロッドは小首をかしげたが、深く質すことはしなかった。
「ところで、の留守中に何か変わったことはあったか」
「これといって特にはございません。今日もこのとおり、ほぼ満室にございます」
ロッドは受付窓口の抽斗から台帳を取り出し、それをサンデスに手渡した。
そこには部屋の番号とそこに主泊する客の名が記されてあり、五十室を数える客室のうち、空いているのはわずかに二部屋だけだった。
さらに宿泊客の顔ぶれも【至高館】が主要顧客層と定める貴族や豪商などの富裕層の人々ばかり。満足そうにうなずくサンデスであったが、台帳をめくるその手がふいに止まった。
「おい、ロッド。この最上階の高級客室に泊まっている客なんだが、なんだね、この三十人という数は?」
「高級客室の? ああ、彼らのことでございますか」
サンデスに問われ、思いだしたようにロッドは語をつないだ。
「この方たちは、ザナウィ王国からファティマを目指して旅をされている巡礼者の方々です。一度に三十人全員が泊まれる部屋が他の宿屋になく、困ってうちに相談してまいりましたので私の判断で宿泊を認めたのですが、まずかったでしょうか」
「ふうん、巡礼者の一行ねぇ……」
そう応じたサンデスの声には、どこか嘲るような響きがあった。
彼自身、教圏に住む人間としては珍しく俗人的な性格で、神というものをまるで信じず、必然的に信仰心というものも微塵も持ちあわせていなかった。
サンデスに言わせれば、これまでの自分の人生で神とやらに助けてもらったことは一度もなく、支えてくれたのは権力と金銭だけであり、それゆえ敬虔な信徒だの巡礼者だのといった人々を「頭のねじがゆるんでいる輩」と内心で蔑んでさえいた。
だからこそ嘲笑まじりにこう語をつないだのである。
「まあ、お前が判断したのならそれはかまわないが、しかし高級客室なんかに泊めて勘定のほうは大丈夫なんだろうね。なにしろ巡礼者というのは貧乏というのが相場だからね」
巡礼者に対する主人の侮蔑的な台詞を、ロッドはさりげなく無視した。
「そのことでしたらご心配なく。全員の宿泊代として、すでに前払いで金貨五十枚をいただいております」
「な、なに、金貨五十枚だって!?」
一瞬、サンデスを驚きのあまり目玉をむいた。いかに高級客室とはいえ、金貨五十枚といえば三十人どころか五十人分の料金に値するからだ。
予想外のことに口をあけて絶句する主人に、ロッドは微笑まじりに頷いた。
「はい。無理を聞いてもらったお礼だそうです」
「とんでもない上客じゃないか。こりゃ挨拶のひとつもしてこないといかんな」
たちまち態度を急変させたサンデスにロッドは失笑しかけたが、とっさにある記憶に思いいたり、そのことをサンデスに告げた。
「あっ、それが旦那様。先方からの要求で、自分たちに対するいっさいの気づかいは無用に願いたいとのことです。それと従業員たちの部屋への立ち入りも禁じて欲しいそうです」
「なに、いっさい不要とな?」
「はい。どうやらかなり敬虔な教徒の方たちばかりのようで、すこしでも自分たちの礼拝の邪魔すれば全額返済してもらうと、そう申しております。多額の代金を前払いしていただいたこともあり、つい私も承諾してしまったのですが」
「別にいいじゃないか。宿泊代を気前よく弾んでくれた上に気づかいをする必要もないのだろう。こんな上客滅多にいないぞ」
「はあ……まあ、たしかに」
「よしよし。それなら先方の気の済むようにしてやりなさい。他の者にもそのことは伝えてあるだろうね」
「はい。すでにすべての従業員に通達済みでございます」
「うむ、ご苦労。じゃあ何かあったら呼んでおくれ。私は奥にいるからね」
「かしこまりました」
弾むような足どりでサンデスは店の奥へと消えていった。
胸の内がこれほど態度にあらわれる人もめずらしい、とロッドは苦笑まじりにその姿を見送ると、台帳をもとの抽斗へとしまいこんだ。受付窓口に伝報屋の配達人がやってきたのは直後のことだ。
その配達人の姿を視界にとらえた瞬間、ロッドの表情が一瞬の変化を見せたがそれも文字通り一瞬で、ロッドは温雅な態で配達員に応じた。
「こんばんわ。伝報です」
「あいよ、ご苦労さん」
ロッドは数通の伝報を受け取り、配達証明書の欄にサインをした。それを配達員に手渡す際、二人が意味ありげな視線を交わしあったことや、伝報のひとつをロッドがすばやく内懐にしまいこんだことに気づいた者は誰もいない。
ほどなくして配達員が宿から出て行くのをみはからうと、ロッドは近くを通りかかった荷物係の若い従業員を呼び止めた。
「おい、ちょっといいかい」
「はい、何でしょうか?」
「うん。じつは少しの間だけ、ここを頼みたいんだ。私は最上階にお泊まりのお客様に頼まれたお荷物を届けなくてはならないのでね」
「はい、わかりました」
「じゃあ、頼んだよ」
若い従業員と受付窓口を交代すると、ロッドは足早に階段をあがっていった。
 




