第五章 ライエン夜騒曲 その③
それでも自身と親しい間柄にある子爵を不憫に思ったのか。伯爵は擁護の一語を王に漏らした。
「ですが、無念にもリドウェル侯を捕り逃がしはしましたが、百人近い叛徒どもの捕縛に成功したと聞きました。その中には幹部級の兵士も含まれていたとか。まるっきりの失敗とは思えな……」
ギュスターはふいに口を閉ざした。リンチが手にしていたグラスをテーブルに叩きつけるように置いたのだ。
「雑魚どもを何百人捕らえたところで意味などない。リドウェルだ、あの生意気な小伜だ。彼奴めを捕らえて断頭台にかけねば、いつまでたってもこのジェノンを治めることはかなわぬ。そうではないか、ギュスター!?」
「ま、まことにそのとおりにございます!」
国王の怒気みなぎる眼光と言葉をまともにうけて、ギュスターは冷水を浴びせられた表情になって全身をこわばらせた。
そんなギュスターを尻目にグラスの葡萄酒を口に流しこむと、王は話題を変えた。
「ところでギュスター。かねてから命じていた例の件、順調に進んでおるだろうな?」
「はっ? 何のことでございましょうか?」
どこかとぼけた調子の伯爵の返答に、わずかな沈黙の後にリンチ王は底光りするような眼で伯爵を見すえた。
「小倅の支援者の調査のことだ。このライエンは元はリドウェル一族の領地。国内でもっとも奴の支援者が潜伏していると思われる街だ。市街に密偵を放ち、小倅や反乱軍に協力する者を探りだせと余は命じていたと思うが、都合よく忘れてしまったかな、伯爵閣下は?」
獰悪としか表現できない声と表情を向けられて、またもギュスターは全身をこわばらせた。
「め、滅相もございませぬ! 不肖は陛下よりの勅命を一日たりとも忘れたことなどございません。このギュスター、リンチ王家によるジェノンの恒久の統治と繁栄に日々、心を砕いております身なれば……」
要を得ないギュスターの弁明の語尾は、テーブルをひと叩きする音の前にかき消されてしまった。
「何をゴチャゴチャと言うておるか! 余が訊きたいのは貴様が余の勅命に対しどういう行動をとり、どういう成果を得たのか。それだけだ!」
「は、はい。それにつきましては現在、二百人ほどの償金稼ぎの者どもを雇いいれ、必死の密偵活動の最中にございますれば、近日中にも吉報を届けられるものかと……」
「要するに何の成果もあがっていない。そういうことでしょう、伯爵?」
身も蓋もない事実を嘲笑まじりに口にしたのは近衛隊長のフロストである。
王の遠縁とはいえ、二十歳も年少のフロストに冷笑を向けられてギュスターは憎々しげにその顔を睨み返したが、実際にそのとおりなので反駁することもできない。
まるで塩をかけられたナメクジのように身体を縮ませると、消え入りそうな低声で語をつないだ。
「も、申しわけございませぬ。近日中にも必ずや朗報を……」
「まあ、よいわ」
王の口から返ってきた声は、意外にも穏やかなものであった。
「叛徒どももバカではない。そう易々と尻尾をつかませることはなかろう。引き続き密偵を放って捜索を続けろ。場合によっては公然と活動させてもかまわん。その行動じたいが反乱軍と支援者たちへの圧力となり、その動きを鈍らせることになるゆえな」
リンチ王も「忠誠心だけは人三倍」と公言する側近を必要以上に責めなかった。
ハナからその能力や手腕に高い期待などを抱いていないこともあるが、じつはギュスターに命じたものとは別の計画を、リンチ王は水面下で同時進行させていたのだ。
この後者の計画こそ、王の本命とする革命軍掃討のための「奸計」であったのだが、むろん、そのことをギュスターは知るよしもない。
「ははっ、承知いたしました。必ずやご期待に応えてみせまする」
まだ期待されている。そう思いこんだギュスターは安堵の笑みを浮かべ、静脈が青い紐のように浮きでた手をこすりあわせた。
だが王の視線と関心は、このときすでに別の人物へと向けられていた。
「どこへいく、将軍?」
リンチが声と視線を向けた先にいたのは、それまで同じ円卓に座りながら、一言も発せずに無言で酒を口にしていた王国大将軍のガウエルであった。
昼間とはことなり今は兜も甲冑も仮面もつけておらず、肩のところできれいに切りそろえられた漆黒の髪と、血色のない色白の素顔がまともに姿を見せていた。三白眼の、一見蝋人形を思わせる風貌で、その面上からは感情というものがまるで感じられなかった。
「いささか酔ったようです。しばし外の風にあたってまいります」
風貌と同様、感情の希薄な声であった。
目礼して席をはずすガウエルのうしろ姿を見送ると、ギュスターはワイングラスを卓上に置き、どこかいぶかしむような声をリンチに向けた。
「それにしても不思議な御仁でございますな、ガウエル将軍は」
「何のことだ?」
「いえ。私が初めて将軍とお会いしたのは、たしか十五年ほど前。陛下がまだ伯爵家のご当主であらせられた時分に、流浪の傭兵であったかの御仁をお屋敷の警護隊長に召し抱えられたころだと思います。あれから刻はうつろい、失礼ながら陛下も私もそれ相応に年齢を重ね、頭髪や髭に白い物が混じるようになりましたが、あの御仁に限ってはいささかもその風貌に変わりが見えませぬな。まるで時が止まっているかのように……」
「うむ、言われてみれば確かに……」
ギュスターが指摘したように、頭髪や口髭に白いものが混じりはじめるなど確かな「老い」というものを感じているのに対し、ガウエルの風貌は初めて会った頃とほとんど変化が見えないことに王は気づいた。十五年という刻の流れにあって、人がまったく変わらずにいることがあるのだろうか……。
ギュスターの一語で今更ながらにそのことに気づき、極微量の不審の念が王の脳裏の隅をよぎったが、謁見を求める来賓たちの群がその念を一瞬でかき消した。
次々とやってくる街の有力者たちは、国王の前であれやこれやと「おべっか」を口にしたあと「手土産」を渡し、最後にささやかな「申し出」をしてその前から去っていく。この一連の流れは何もゲルラッハの専売特許というわけではないのだ。
街の有力者たちが謁見の列を成している頃、ガウエルは屋敷の露台へと姿を見せていた。
その眼下には菩提樹などが生え繁る樹庭園が広がり、その樹木間をはうように石畳の舗装路が縦横に伸びている。人の蠢く気配と地を踏む足音は、その路上から発せられてきた。
半月の光が降りそそぐ中、闇と樹木の間から姿をあらわしたのは鎧姿の兵士だった。その身を包む厚手の革鎧の胸部には、国軍兵士の証しであるジェノン紋章が刻まれている。顔は黒い布のようなもので覆われて表情は伺いしれなかったが、その両腰には二本のサーベルが吊されていた。
黒覆面の兵士はしばし、露台に佇むガウエルとともに沈黙の中に身をおいていたが、やがて指先で自分の首筋を横に切る仕草をガウエルが見せると黒覆面の兵士は無言でうなずき、ふたたび樹庭園の奥へと姿を消していった。
ほどなく男の気配と足音が完全に庭園から消えると、ガウエルは頭上を見あげた。まるで天上の神々が無数の宝石をなげうったかのような満天の星空が、その視線の先に広がっている。
その星空を黙して眺めやっていたガウエルの口端がにわかに湾曲にゆがみ、薄い笑いがその面上に浮かんだ。「邪悪」という表現に足る笑いだった。
「ふん、ファティマの猟犬め」




