第四章 争乱の王国 その⑨
「くたばりやがれ、赤毛野郎っ!!」
正面と左右から、罵声とともに三本の剣光がキリコの眼前で閃いた。
だが兵士たちの猛剣が標的をとらえることはなかった。残忍な剣光が眼前に迫った寸前、キリコの右脚が凄まじい速さで水平に半円を描き、殺到してきた兵士たちを声もなく吹き飛ばしたのだ。
蹴り飛ばされた兵士たちの身体はわずかに宙空を飛んだ後、叩きつけられた路面の上を十回転ほどした後にようやく止まった。
路上に倒れたままぴくりともしない仲間の姿に、全面攻撃の出鼻をくじかれた兵士たちはとっさに声も出せない。かわりに冷ややかな声を発したのはキリコである。
「さあ、次に宙空を舞いたいのは誰かな?」
希望する者はあらわれなかった。誰もが剣を構えたまま、声もなくその場に立ちすくんでいる。
とりわけ先の店内での騒動でキリコの強さを体験した兵士たちなどは、忌まわしい近過去の記憶が脳裏に再生されたのか。まるで鎖で身体を縛りあげられたかのように身動きできずにいた。
だが、それもごく短時間のことだった。後背からとんできた一喝が、兵士たちを縛りあげていた畏怖の鎖を一瞬にして断ち切ったのだ。
「ええい、何を怖じ気ついているか! 貴様ら、それでも警備兵団の兵士かっ!!」
雷鳴のような兵団長の怒号を浴びて、おどおどとではあるが兵士たちが再始動する。
目の前にいる赤毛の男はたしかに尋常な相手ではないようだが、後背で凄みをきかせる上官はもっと恐ろしい相手であった。たとえ部下であろうと、自分に対してわずかでも反抗すれば容赦なく斬り殺すこともある鬼のような人物なのだ。
それならばと、兵士たちは剣を握りしめてキリコににじりよった。
いかに尋常でなかろうと相手はたった一人。それに対して、味方は少し減ったもののまだ二十人以上はいる。数の優位性を信じ、兵士たちは猛然とキリコに殺到した。
「いっせいにかかれ。斬りきざんでしまえっ!」
だが兵士たちの希望が実現することはなかった。
繰り出した剣撃はことごとくかわされ、逆にキリコから強烈な張り手や裏拳を浴びせられ、悲鳴をあげて吹き飛ぶのは兵士たちばかりだった。
キリコの両拳が空を切り裂くたびに兵士たちの口から血と悲鳴が噴きだし、蹴り足が風にうなるたびに兵士たちの身体は絶叫とともに宙空を舞い、路面の上を転がり、砂埃が一帯に巻き起こった。
「す、すごい。キリコさんってとっても強いですよ、旦那さま!」
まさに一方的な展開にジェシカは歓喜の声をあげたが、声を向けられたヘルトはというと、目の前の乱闘劇にただあ然とし、声も出せないでいた。
彼の場合、キリコの常人離れした強さは山中での一件ですでに承知していたが、それでも今相手にしているのは残忍なだけの山賊ではなく、正規の戦闘訓練をうけた国軍兵士なのである。
にもかかわらず乱刃をふるってくる兵士たちをこともなげに、しかもたった一人であしらうその姿に、ヘルトは心底から驚愕せずにはいられなかった。
「い、いったい何者なんだ、あのキリコという人は……!?」
ヘルトが自問めいた独語を漏らしている間にも、大通りを舞台とした乱闘劇は終幕を向かえようとしていた。報復に駆けつけてきた当初、三十人を数えた警備兵団の兵士たちは、今や一人を除いて路上に白目をむいて倒れていたのだ。
手や服についた砂や埃をはらうキリコの視線は、すでに最後の一人に固定されていた。
「さて、ようやくあんたの番だね、団長どの」
「…………」
冷笑のまじりの視線を向けられて、ボイドは身体だけではなく思考まで凝固させた。精鋭である(と信じていた)三十人もの部下たちが、たった一人に叩きのめされてはたしかに固まるしかないであろう。
事ここに至ってボイドはようやく気づいたのだ。目の前の線の細い柔弱そうな赤毛の若者が、実は常識を無視した武芸の達人であることを。
正確には武芸とはまた次元の異なる強さであったのだが、そこまで見ぬく眼力はボイドにはない。
「な、なかなかやるではないか、小僧。フフフ……」
ひきつった表情でうわずった声を漏らすと、ボイドは両腰に吊す二本のサーベルをあいついで鞘走らせた。
それを見てキリコも軽く身がまえた。「双剣のボイド」なる異名を馳せる兵士であることなど知るよしもなかったが、抜剣の手際といい剣を構える姿勢といい、ボイドが一流の剣士であることを察したのだ。
互いに身がまえつつ、じりじりと距離を詰めるキリコとボイド。
やがて一足一刀の間合いに達したとき、先にしかけたのはボイドだった。ただし、キリコに放たれてきたのはサーベルの一撃ではなく、卑屈な響きを含んだささやき声だった。
「ど、どうだ、小僧。この場で土下座をして詫びをいれるなら、貴様の罪をいっさい不当にしてやってもいいぞ。いや、それだけではない。私の権限で警備兵団の兵士にとりたててやろう。名誉ある国軍兵士になれるのだ。どうだ、悪くない話であろう?」
抑制不能の失笑がそれに応えた。
「部下にだけ戦わせて自分は助命懇願か? 名誉ある国軍兵士が聞いて呆れるな」
そこまで言われてはボイドとしても後にはひけない。両目に憎悪と屈辱の光をたたえて、ライエン随一の剣士は地面を駆った。
「うけてみろ、小僧! わが双剣の妙技をっ!!」
咆哮とともに、二本のサーベルが二条の閃光となって打ちこまれてきた。
狙いはキリコの喉と心臓だ。だが、対するキリコはよけるそぶりすら見せず、自分めがけて一閃してくる凶刃をじっと見つめている。
殺意に閃く二本のサーベルがキリコの身体を貫こうとしたその寸前。キリコの両手が一瞬の動きを見せた。打ちこまれてきたサーベルの刃を素手で掴み止めたのだ。
「な、なんじゃあっ!?」
一瞬ボイドは仰天し、声とともに左右の眼球を飛び出させた。サーベルの刃を素手で掴み止められたら、ボイドでなくとも仰天するしかないであろう。
それゆえボイドは気づかなかった。刃を握りしめるキリコの両手が、うっすらとした黄金色の光に包まれていたことに。
それよりなによりボイドには詮索する時間すらなかった。キリコの強烈すぎる前蹴りがその身に炸裂したのだ。
まるで大砲の発射音のような音が響き上がった直後、ボイドは声もなく宙空を飛んだ。
身体をくの字に折り曲げた状態で、まず周囲に立ちならぶ人垣の間を飛びぬけ、ついで路肩に植えられた銀杏の木の間隙を飛びぬけ、さらにその先にある商店の軒先まで飛んでいくと、その外壁に頭から突っこんでいった。
総毛立つような衝撃音の後に、外壁の木板がこれまたけたたましい破砕音を響かせて砕けちり、一帯に木粉と埃がもうもうと噴きあがった。
壁に激突した際の衝撃か、それとも前蹴りをくらったときの衝撃か。いずれのものかは判別できなかったが、とにかくボイドは失神したらしく、砕け散った壁板の中に頭を突っこんだままぴくりとも動かない。
そんなボイドの姿を遠くに眺めやりつつ、キリコは手にする二本のサーベルをほうり投げ、軽く手を叩いて服の埃をはらった。
「これに懲りて二度と悪さをするなよ。お前たちのような人間が三度の食事に困らないのは、税をはらう市井の人々のおかげなんだからな」
いささかお説教がましい一語を残してキリコがその場から立ち去ろうとしたとき、「ふ、ふざけるな!」という猛烈な異議の声があがった。
それは路上に横たわる兵士の一人が発したもので、見ると発声者はあの猿顔兵士だった。
仲間を連れて意気揚々と報復にやってきたものの、八つ裂きの目にあわせるどころか逆に大衆の面前でこてんぱんに叩きのめされ、鼻骨も前歯も、ついでに自尊心もへし折られた自分が情けなくなり、せめてひと言くらい噛みつかずにはいられなかったのだ。




