第四章 争乱の王国 その⑤
ふいに意識を回復したとき、キリコはいつのまにか自分が眠っていたことに気づいた。
両目を軽くしばたたかせた後、キリコは首を振りながらゆっくりとベッドから起きあがり、窓を開けて外の様子を眺めやった。
宿に着いたときは真上にあった太陽も今ではすっかり西の方角に傾き、うっすらとした朱色の陽射しが大通りを照らしていた。どうやら三刻ほどは寝ていたらしい。
「……うん、酒場が開いているのか?」
キリコがそう口にしたのは、建物の一階に次々と出入りする人々の姿が見えたからだ。
そんな彼らの姿が食欲を刺激したわけではないだろうが、キリコは急激な空腹感に駆られた。
「そういえば、さすがに腹が滅ったな」
一階に降りて何か食べるか。キリコは窓を閉めて部屋から出ていった。向かったのは隣の部屋である。
「おい、シェリル。そろそろ食事にしないか?」
しかし室内からの返答はなかった。自分と同様、おおかた旅に疲れて眠っているんだろうと思い、キリコは一人で一階に降りていった。
一階の酒場は、すでに喧騒と独特の匂いに包まれていた。麦酒の匂い、果実酒の匂い、肉の焦げた匂い、干魚の生臭い匂い。客たちの体臭も混じっている。
天窓から差し込む光で酒場内はそれなりに明るかったが、壁に設置された複数のランプにはすでに火が灯され、淡いオレンジ色の輝きが店内を照らしている。
その店の中をジェシカをはじめとする店の従業員たちが、客の注文を取ったり、料理や酒を運んだりと慌ただしく動きまわっていた。
ざっと見まわしたところ店内はほぼ満席状態で、二十ほどあるテーブル席はひとつも空いていない。
もうしばらく待つかとキリコは部屋に戻ろうとしたのだが、よく見るとカウンター席の一角に空席があったので、そこに座ることにした。
そんなキリコに気づき、ジェシカが声をかけてきた。
「あら、キリコさん。言ってくれれば部屋まで運んだのに」
「いいさ。それより料理を頼んでいいかな。もう腹ぺこでね」
「ええ、なんでも注文して。すぐに持ってくるから」
葡萄酒といくつかの料理をキリコが注文すると、ジェシカはすばやく筆を走らせた。
それが書き終わらぬうちに、店内のあちこちから注文をもとめる声があがった。
「ああ、もう。本当に忙しいわね!」
ぼやきまじりに駆けだすジェシカを苦笑いで見送ると、キリコはカウンター席から店内を見まわした。
活気と喧噪の坩堝。店の状況を評すればさながらそうなるであろうか。
テーブル席にもカウンター席にも客があふれ、にぎやかに談笑しながら料理や酒に舌鼓をうっている。
中には座る場所がないからか、壁にもたれながら手に皿やコップを抱え、そのまま飲み食いしている剛の者までいた。喧騒と熱気にアルコール臭がくわわり、場にいるだけで悪酔いしそうだ。
ただその店内にあってとくにキリコの関心をひいたのは、テーブル席のひとつに陣取り、奇声をあげて騒いでいる男たちの姿だった。
彼らは兵士なのであろうか。ジェノン王国の紋章が刻まれた厚革の甲冑を身につけ、テーブルの端には、やはり紋章入りの長剣が立てかけられてある。
そのテーブルの上に、軍用長靴をはいたままの両足を投げだして椅子にふんぞりかえる様は、行儀の悪いことこのうえない。
奇声をあげては必要以上にグラスをかちあわせ、投げだした足でテーブルをどんどんと叩く。そのたびに麦酒の液や皿の料理が床に飛び散っていたが、兵士たちはわれ関せずだ。
周囲の客たちは迷惑なはずであろうに、ちらちらと兵士たちに恨めしげな視線を向けるだけで、声に出しては何も言わないでいる。
はた迷惑なふるまいを見せる兵士たちと、それを注意もせずに黙認している客たちの態度が気になったが、それよりも優先しなければならないことが目の前にやってきた。ジェシカが注文した料理を運んできたのだ。
「はい、お待たせ。いっぱい食べてね」
料理が盛られた皿をジェシカが手ぎわよく次々と並べていく。
内海にほど近いライエンの名物料理は、やはり魚介類を主としたものだ。
香辛料で味つけされた大鱒のフライ。あさりの酒蒸し。鮭のクリームソテー。車海老の塩焼き。ライ麦のパンと数種類のチーズ。バターをのせた茹でジャガイモ。見た目の豪華さではなく、素材を生かすことに重点をおいたライエンの郷土料理である。
「こいつは旨そうだ。では遠慮なく」
葡萄酒で軽く口を潤うしてから、キリコはそれらの料理を存分に味わった。
そのキリコのもとにヘルトが厨房から顔を出してきたのは、一杯目の葡萄酒を飲み干したときだった。
「おっ、食べてるね、キリコさん」
そう声をかけると、宿の経営者、仕入れ責任者、総料理長の三役を一人でこなす陽気なライエン商人は、キリコのグラスに葡萄酒を注いだ。
「ところでマスター。あそこでバカ騒ぎしている連中は何者だい? 見たところ兵士のようだけど」
「……ああ、あの連中かい。あんまり詮索しないほうがいいよ、キリコさん。あれは警備兵団の連中だから」
ヘルトは声を潜めてそう言った。
警備兵団とは、国境の警備や都市の治安維持を主任務とする国軍組織のひとつで、ほぼすべての教圏国に常設されている部隊である。
戦時にあっては国境を外敵の侵入から守り、平時にあっては外国から逃れてきた犯罪者や不法移民の流入を阻止し、街の治安を守ることを役目としているのだが、ヘルトに言わせると、街の治安を一番乱しているのが、彼ら警備兵団の兵士らしい。
「とにかく、はた迷惑な連中でね。立場を傘にきてそれはもうやりたい放題。街中で買い物をしても、代金はとんでもないくらいに値切るわ、商店に顔を出してはショバ代を要求するわで、もう散々だよ」
耳なれない語彙に、キリコの眉が微動した。
「なんだい、そのショバ代というのは?」
「まあ、いわゆる隠語というやつでね。簡単にいえば用心棒代みたいなもんさ。この街で安心して商売させてやるからその見返りを、というわけさ」
さすがにキリコは驚いた。民の払う税で俸給をうけているはずの国軍兵士が、その民衆からさらに金銭をまきあげていると聞いては、それも当然であろう。
「国軍の兵士が、そんな阿漕なことをやっているのか?」
ヘルトはうなずき、深刻なため息がその口から漏れた。
「前のご領主さまの時代にはこんなことありえなかったんだけどね。あれ以来、ライエンは変わってしまったよ。まあ、ライエンに限った話じゃないんだろうけどさ」
ヘルトの言う「あれ以来」とは、リンチ王による武力革命をさしていることは、キリコにはすぐわかった。
カウンター席に座る他の客たちをちらりと見やった後、ヘルトはさらに声を潜めて続けた。
「あまり大きな声じゃ言えないけど、今の国王になってから軍隊の規律なんかあってないようなもんだからね。いや軍隊だけじゃない。貴族とか役人とか、一握りの上層階級の連中は特権を傘にきて、それこそやりたい放題さ。あの連中を見ればわかると思うけど、そういう空気は上から下へと伝染するもんなのさ」
「なるほどね……」
ヘルトの説明に納得し、葡萄酒の入ったグラスを手にしつつテーブル席の兵士たちをかえりみたとき、キリコの両目がにわかに強く光って針を含んだ。
視線の先で、ジェシカが件の兵士たちにからまれていたのだ。




