プロローグ 魔人誕生 その②
ダーマ神教を国教と定める〈教圏国〉のひとつバスク王国は、教圏南方帯に位置する国である。
そこに住む国民は老人から幼子まで、教義上における唯一絶対の神である万物の創造主ダーマへの信仰が厚く、そして強い。
むろん、それは他の〈教圏国〉も同様であるが、とりわけバスク王国は「神聖王国の模範的君主」と讃えられる国王ハルシャ三世による厳格な治世の下、教義で定められている朝夕二回の祈りはもちろん、七日に一度おこなわれる教会での聖儀式を欠かす国民は国内に一人としていないと謳われるほどで、その信心深い国民性は教圏世界に広く知れ渡っていた。
そんな敬虔なバスク国民が自らの信仰心の拠り所としているのが、国都ドレンフォーラに拠をおくバスク第一教会である。
バスク国内における布教活動の本拠であるこの教会は、市街地の中心部からやや西に寄った高台の上に建ち、五十万都市である国都の主要部を四方に見はるかすことができて眺望がすばらしい。
創建から二百年を数える歴史ある教会堂建築物として知られ、花崗岩とオーク材とによって築かれたその建物は、外観内装ともに華美さこそないものの見るからに堅牢である。
その教会内の一室。
古びたランプが唯一の光源の明るさに欠ける部屋の中で、黒を基調とした祭服姿の人物が一人、深夜にもかかわらず静かに机と向かいあって忙しくペンを走らせていた。
それは銀色の頭髪を持つ中年の男性で、浅いしわが刻まれた温雅そうなその顔だちには、奥深い豊かな知性のようなものが感じられた。
第一教会の代表司教、ルシオン大司教である。
この年、五十歳になるルシオン大司教は、第一教会の代表とバスク国教会の総長を兼務するダーマ神教の高位司教で、国内に点在する大小三十余りの教会と、そこに勤める聖職者たちを統べる人物である。
神学校の教師を務めたこともある学者肌の司教で、これまでの実績から総本山たる教皇庁の幹部司教に就く日も間近とされているが、本人は自身の出世には関心がないようである。あくまでも寡黙に日々、教会の長としての勤めに励んでいた。
この日も早朝から教会の職務に精を出し、夜は夜で早めの夕食をとった後はすぐに自身の執務室にこもり、山のように積まれた仕事の決裁に没頭していたのだが、まもなく日付も変わろうとしていた時分、ペンを走らせるその手がふいに止まった。
何者かによって執務室の扉が慌ただしく叩かれたのだ。
ノックの残響が消えぬうちに室内に飛びこんできたのは、教会に勤める部下の一人のリンツ司祭であった。
薄いそばかす顔が印象的なリンツ司祭はルシオン大司教の神学校時代の教え子の一人で、地方教会を経て昨年、この第一教会に赴任してきた。
以来、ルシオン大司教の側近として公私両面で忠実に仕えている。
まだ二十四歳という若さゆえか、胆力の劣るところや融通の利かない面はあるものの、実直で勤勉で人柄もよく教徒たちからの評判もよい。
そのリンツ司祭がどういうわけか血相をかえて、大司教の執務室に飛びこんできたのである。
「げ、猊下、大変にございます!」
「どうしたのだ、リンツ。いったいなにごとだ、騒々しい」
ルシオン大司教にやんわりと叱責されてリンツ司祭は恐れいって頭をさげたが、それでも荒い息づかいともつれる舌を必死に制御して語をつないだ。
「も、申しわけございません。ですが、いますぐ外をごらんになってください!」
「なに、外を?」
リンツ司祭のただならぬ様子に、さすがに異常を感じとったのだろう。
それ以上、子細を質すことなくルシオン大司教は椅子から立ちあがり、カーテンを開けて窓の留め金に手をかけた。
窓が開け放たれると、身震いするほどの寒気が流れこんできた。
南方帯に位置するバスク王国は、本来、六月も終わりにさしかかった今頃は、夜でも窓を開放して眠ることができるほど温暖なはずなのだが、どういうわけかここ数日来、バスク王国は全土で異例の寒波に見舞われていたのだ。
白く濁った息をひとつ吐き出した後、窓から身を乗りだしたルシオン大司教の眼下では、真夜中にもかかわらず教会に勤める聖職者や衛兵たちがこぞって庭に出て、なにやらうろたえたように騒いでいた。
中には神の名を唱えながら手をあわせて祈る者までいる。
彼らの姿にルシオン大司教は眉をひそめていぶかり、一様に指をさしむける西の方角にゆっくりと視線を走らせた次の瞬間――。
「な、なんと!?」
その光景を視認したとき、胆力にすぐれているはずのルシオン大司教はおもわず心身を硬直させ、大きくみはった碧眼を驚愕に濁らせた。
窓枠におかれた手は小刻みに震え、喪心したような眼差しは遠景の一点に固定されている。
ルシオン大司教が絶句した理由――。
それは教会から西の方角にはてしなく広がる夜空の一角が、まるで夕焼けのように朱色に染まっていたのだ。
さながら黒い画布の上に垂れおちた赤いインクが滲んで広がったような、そんな光景である。
むろん、夜半過ぎの現在、夕焼けなどではないことは明らかで、それゆえリンツ司祭を含めた教会の人々は声をあげて驚き、怪異としか表現できない光景に怯え、うろたえていたのだ。
それはルシオン大司教も同様であるが、彼の場合、蒼白顔で声をわななかせた理由は別にあった。
「ま、まさか、あれは【ヴラドの渇き】か!?」
うめきにも似たその声は低く、他者に向けたというよりは独語に近かっため、後背にひかえるリンツ司祭には聞こえなかったようである。
胸の前で小さく十字を切りながら、リンツ司祭がしみじみとした声を漏らした。
「まことにまがまがしい光景にございますな。昨今の季節はずれの寒気といい、なにかの天変地異の前兆でなければよろしいのですが……」
うそ寒そうに首をすくめるリンツ司祭の声はこのとき、ルシオン大司教の鼓膜にも届いていなかった。まるで惚けたように無言を保ったまま、怪異な遠景を声もなく見つめている。
ルシオン大司教は知っていたのだ。
季節はずれの寒波はともかく、あの朱色に染まった奇怪な夜空がいかなる事態の前兆であるかを。
それは《御使い》と称される人外の悪魔が、この世に、それもこの国のいずこかで誕生したことを。
朱色に染まったあの奇怪な夜空こそ、この第一教会に勤める、否、世界中に数多いるダーマ神教の聖職者の九割九分の者が知ることのない、ごく一部の高位司教だけが知る教皇庁の最高機密【ヴラドの渇き】なのであった。
「こ、こうしてはおられん!」
ようやく自己を回復させたルシオン大司教は、向き直りざまにリンツ司祭に命じた。
「リンツ、至急、早馬を用意するのだ。教皇庁に急使を送るゆえな」
「は、急使でございますか?」
唐突な大司教の言葉に、リンツ司祭はおもわず目をしばたたいた。
額に微量の汗をにじませながらルシオン大司教がうなずく。
「そうだ。事態は一刻を争うのだ。急ぐのだぞ!」
「は、はい。かしこまりました!」
事情はよくわからないが、ともかくルシオン大司教の切迫した表情と声に鞭うたれたリンツ司祭は、一礼するなり飛びだすように部屋を後にした。
従者を呼びもとめる部下の声を耳にしながら、ルシオン大司教はもう一度窓から身を乗りだして、西の方角に視線を走らせた。
朱色というよりは、むしろ濁った血を思わせる赤黒く映える奇怪な夜空が、今も西天の一角に広がっている。
そして、それは刻一刻と濃度を高めているように大司教の目には見えた。
「あれが〈ヴラドの渇き〉か。よもやこの目で見ることになろうとは……」
あえぐようなルシオン大司教の声には、底知れない焦燥と不安の響きがあった……。