第三章 ファティマ その⑩
「それにしても猊下。あの肉体を消滅させる術はないのですか? 火で焼くなりして灰にでもしてしまえば……」
そもそもヴラドの幽魂体が、数百年にもわたって《御使い》をこの世に生みだし続けている最大の理由は、実体のない自分にかわって、地底深くに封じこめられた肉体を奪還させることにある。
逆の見方をすれば、肉体を消滅させてしまえばヴラドの幽魂体は目的を失い、《御使い》の〈生産〉を断念するのではないか。それがフェレンツ大司教の考えるところであったが、それに対するグレアム枢機卿の返答は明快な「否」だった。
「過去、われらの先達たちも卿と同様のことを考え、あの地底湖より引き揚げて油をかけるなどして焼失させようとこころみたが、まるで無意味だったそうだ。灰になるどころか焦げひとつすらつかなかったらしい。そればかりか引き揚げるなり、あの白皙の肉体に赤みと艶が戻りはじめ、さらにはあの白い髪も元の金髪に変色をはじめたとのことだ」
以来、地底湖から引き揚げることは危険と判断され、肉体消失策は実行されていないとのことだった。
フェレンツ大司教が重い息を吐きだした。
「正真正銘の不死身というわけですか……」
落胆の心情を露わにする若い大司教に、枢機卿の口もとがわずかにほころんだ。
「なに、そう落胆することもない。たしかに今すぐどうこうすることは無理だが、あの地底湖に沈めておけば、さすがの不死の魔物もあのとおり、少しずつではあるが確実に肉体が朽ちていくことがわかっている。すべては時間が解決してくれるのだ」
「そのようですね」
フェレンツ大司教は小さくうなずき、地底湖に沈むヴラドに視線を転じた。
伝承によれば、ヨシュアによってヴラドの肉体が封じられたとき。実際の年齢はともかく、見た目にはまだ二十代の青年であったという。だが、湖中に沈むその姿はまごうことなき老人の容貌である。
封印から千年という年月が経っているとはいえ、決して老いることのない《御使い》がああも老いさらばえた姿になっているということは、グレアム枢機卿が言うとおり、湖水が持つ聖なる力がヴラドの肉体の「魔」を消耗させ、肉体そのものも「浄化」しているのだろう。
どれだけの時間がかかるかはわからないが、ともかくこの状態を続ければ、いずれあの肉体は地底湖の泡となって消え、ヴラドの幽体がもくろむ〈魂体融合〉は永遠に不可能となる。そうグレアム枢機卿は言うのだった。
フェレンツ大司教が皮肉っぽく笑う。
「当然、ヴラドにしてみれば、そうはさせまいと必死になるでしょうね」
「だろうな。だが、最初の〈ヴラドの渇き〉の確認から九百年。この間、奴によって生みだされた《御使い》どもが、主の肉体を奪還すべくこの聖地を幾度となく侵そうとしたが、すべて無に帰してきた。悪魔どもがファティマの土を踏むことは絶対にできぬのだ」
グレアム枢機卿が語調を強くして断言する理由を、フェレンツ大司教はむろん知っている。
ヴラドの完全な封印に失敗したヨシュアは、解放された幽魂体がいずれなんらかの方法で肉体の奪還をはかることを予測し、教皇領を整備する上でいくつかの対策をこうじた。
そのひとつが、領土を囲むように張りめぐらされた〈聖護壁〉である。
これは退魔性の効力を有する一種の霊的障壁というべきもので、あらゆる〈魔〉に反応し、それを退ける力を持つ。
その身に〈魔〉を宿した者が見えざる障壁にわずかにでも触れようものなら、その瞬間、聖護壁が発する聖なるエネルギーによって落雷にも匹敵する衝撃がその肉体を襲い、劫火に呑みこまれたごとく烈しく灼ける。
たとえ即死をまぬがれたとしても、とてつもない打撃を負ったその肉体に逃げる力は残っておらず、領内を警備する聖武僧の追撃をうけて結局は死にいたるのだ。
初代教皇ヨシュアによって築かれたこの聖なる防壁によって、聖都ファティマは建国から千年間、「魔」の侵入による破壊や混乱とは無縁の時間を刻んできた。
そして、それはこれから先も不変の理であると、グレアム枢機卿は語調を強くして言うのだった。
「いかに《御使い》が超常の怪物とはいえ、魔を宿した冥界の生物である以上、あらゆる魔を退ける聖護壁の前では、炎の灯火に吸い寄せられる羽虫にすぎぬ。ヴラドめがいかなる小細工を弄したころで、すべては徒労に終わるのだ」
「たしかに……」
微笑まじりにうなずいたフェレンツ大司教がふと視線を眼下に転じたとき。またしても水面がわずかに波をうっていることに気づいた。
「おやおや、どうやらわれわれの悪口が聞こえたみたいですよ。ただの肉の塊のくせに耳のいい奴だ」
毒のこもったフェレンツ大司教の物言いに、二人の高位司教は苦笑を漏らしたが、シトレー大司教はすぐに表情をあらためてグレアム枢機卿に向き直った。
「そろそろ地上に戻るとしましょう、猊下。このような場所に長居は無用です」
「うむ。では、そうするとしようか」
三人はそろって踵を返すと、鉄扉を閉めてそのまま洞穴を歩き戻っていった。




