第三章 ファティマ その⑧
「な、なんだ、この異様な空気の質は……?」
一瞬、鍾乳洞特有の湿気かと思ったが、すぐにそうではないことに気づいた。
まとわりつくというよりも、むしろ圧迫感さえおぼえるこの空気の質は、あきらかに湿気とは別種のものだ。そもそも湿気ならば、鍾乳洞に足を踏み入れた最初の時点で感じとれているはず。
グレアム枢機卿とシトレー大司教も足を止め、なにごとかささやいている。
「むうう……この妖気、奴め、あいかわらず健在とみえるな」
「そのようですな」
短く言葉をかわすと、グレアム枢機卿とシトレー大司教はふたたび洞穴を進んでいった。
わずかに遅れてフェレンツ大司教も歩きだし、二人の後に続く。
それから五十歩ほど進んだところで、三人は洞穴のつきあたりにいたった。
彼らの前には今宵三つめとなる、見るからに重厚な鉄扉がその行く手を閉ざしていた。
シトレー大司教が内懐からウォード錠を取り出して鍵穴に差しこみ、鈍い蝶番の音を響かせながら扉を開けた、その次の瞬間。ふいに差しこんできた強い光に目が眩み、フェレンツ大司教はとっさに顔をそむけた。
「うっ!」
その場に立ち止まることしばし。視力が正常を取り戻したのを見はからい、フェレンツ大司教は扉をくぐりぬけた。直後、視界に映った光景に彼はおもわず息をのんだ。
扉をぬけた先で彼を待っていたのは、それまでの横穴型とは異なる、円筒形状の空間をもつ縦穴型の鍾乳洞であった。
地下水の溶解によって磨きあげられた神々しいまでに乳白色に輝く岩壁の世界が、フェレンツ大司教の上下双方向に広がっていたのだ。
「鍾乳洞の奥深くに、またこのような鍾乳洞があるとは……うん?」
それまで感無量の態で頭上を見あげていたフェレンツ大司教が、身を乗りだして今度は眼下に視線を投げたとき。十メイル(十メートル)ほど下にある空間の底に地底湖らしきものがあることに気づいた。
それは湖というよりは泉というべき大きさのもので、まるで人工的に造られたかのようにほぼ完全な円形状をしている。
水中がまるで碧玉石を溶かしたかのように青く輝いて見える〈リムストーンプール〉と呼ばれる地底湖の一種で、およそ鍾乳洞にあっては珍しいものではない。
だが、その湖中を目を凝らして注視することしばし。碧玉色に輝く水中に「なにか」が沈んでいることにフェレンツ大司教は気づいた。
「あれは……?」
それは、どうやら驚くべきことに人間のようであった。
両の手首と足首を鎖のようなものでつながれた裸の男が一人、水中に沈んでいたのだ。
一見して、その男はかなりの老齢であるようにフェレンツ大司教には見えた。
深いしわが無数に刻まれた顔。水中で揺れひろがる真っ白な長髪。
体骨が浮きでた痩せさらばえた肢体には血色はまるでなく、まるで陶器で造られているかのように白い。そして、その肢体の胸には棒状の細長い物体が一本、垂直に突きたっていた。
大きく見開かれた双眸に黒点はなく、死者特有の白目がはっきりと見てとれる。
目と同様に大きく開かれた口は、まるで断末魔の咆哮をあげているようであった。
フェレンツ大司教が言葉も忘れてその姿を見つめていると、背後に立つグレアム枢機卿がゆっくりと口を開き、驚くべき一語を漏らした。
「久しぶりだな、ヴラド。おぞましき闇の眷属の王よ」
「あ、あれがヴラド!?」
おもわず声を高くさせたフェレンツ大司教に、シトレー大司教が小さくうなずいた。
「そうだ、フェレンツ卿。あの地底湖に沈む男こそ、有史上、最初に確認された《御使い》にして、師であるヨブ・ファティマを殺害してこの教圏世界をわがものにしようと企んだ男、ヴラド・イスカミリオだ」
「ヴラド・イスカミリオ……あの男がファティマを……」
フェレンツ大司教はひとつ生唾をのみこむと、ダーマ神教の創始者ヨブ・ファティマの、知られざる「陰の史実」について思いをめぐらせた。
ファティマによって編纂され、死後、彼の弟子たちが引き継いだダーマ神教の聖典「ヨブ記」によれば、ファティマはダーマ神教の創始と神教圏世界の構築という使命を終え、「聖人」として生きながらに神々の住む天上界に召されたとある。およそ教圏に住む人間であれば子供でも知っている史話だ。
すべてはファティマ「昇天後」における、彼の使徒たちによる布教活動の成果であり、僧籍に入る以前のフェレンツ大司教もそれを頭から信じていた。
だが、ダーマ神教の聖職者となり、教皇庁の幹部とまでなった今のフェレンツ大司教は知っている。真実は異なるということを。
ヨブ・ファティマは殺害されたのである。
世にありふれた殺人事件の被害者同様、普通の人間としてはかない最期を遂げたのだ。
それも、ダーマ神教の歴史上においてその存在を完全に抹消された、知られざる十三人目の弟子に背かれて……。




