第一章 ジェラード邸事件 その⑧
「待った! 俺は敵じゃない!」
するどい語気の、だが、生気にみちた声がシェリルの聴覚を刺激した。
その声は、底知れぬ恐怖になかば錯乱状態だったシェリルに、いくぶん正気を取り戻させた。
両目を見開き、顔をあげてシェリルは正面を見すえた。
視線の先にいたのはジェラード侯爵の私兵ではなく、一見して自分と同世代とわかる温雅な顔だちをした若者だった。
黒い革の上着に黒い革のズボン。さらには黒革のブーツという全身黒革ずくめの装い。
胸もとで鈍く光る銀造りの十字架が、その黒一色の装いにさりげないアクセントをもたらしている。
若者の名をキリコといい、ある密命を帯びてこの屋敷に駆けつけ、さらには邸内にまで忍びこんできたというそのあたりの事情を、むろんシェリルは知るよしもない。
知りえたのは目の前の若者がみごとな赤毛の所有者ということだ。
まるで頭の上で燃えているかのようなその赤い頭髪は、薄闇につつまれた室内でもはっきりとわかるほどだ。
おもわず見とれてしまったシェリルであったが、すぐにはっとわれに返ると、もつれかける舌を必死に制御して誰何の声を向けた。
「あ、あなたは誰なの?」
そう訊ねたシェリルは、ナイフを身がまえたままである。
よくよく考えてみれば、この赤毛の若者も十分に怪しい。
見たところ舞踏会の客ではないようだし、かといって屋敷の使用人にも見えない。
そもそも五階にある大窓から邸内に忍びこんでくることじたい、不審のきわみ。「あの男」の仲間でない確証はどこにもない。
そんなシェリルの心情を知ってか知らずか、キリコは微笑をたたえて素性をあかした。
「俺はキリコ。よろしく」
明朗快活とは、まさにこの口調であろう。
その声は、シェリルから警戒と不審の念を払拭するには十分な効果を発揮したようで、シェリルなどはおもわず「いえ、こちらこそ」と、お辞儀をしかけたほどだ。
一方、キリコは微笑をおさめるとくるりと踵を返し、広間内に散在するほかのテーブルの中をひとつひとつ覗いてまわった。
その様子をシェリルが無言で見つめていると、やがてすべてのテーブルを確認しおえたキリコが声を投げてきた。
「ひょっとして、この部屋にいるのは君だけか?」
「えっ?」
ふいに問われて、シェリルは返答に戸惑ったものの、
「う、うん。私しかいないと思うけど……」
「そうか……」
どうやら遅かったか。
赤毛の若者はそうつぶやいたようにも聞こえたが、はっきりとはわからない。
視線の先であごを指でつまんだまま沈黙し、なにやら考えこんでいる。
そんなキリコの姿に、シェリルはいつしか手にするナイフを降ろしていたが、それでもおそるおそる訊ねた。
「ね、ねえ、あなたはいったい誰なの?」
「うん? ああ、そういえば、まだくわしい自己紹介をしていなかったな」
温雅な笑みをたたえながら、キリコは内懐からなにかを取り出した。
その手の中にシェリルが見たのは、鈍い光沢を発する銀造りのペンダントである。
それだけならシェリルは驚かなかったであろう。
おもわず目をみはり、驚きにみちた視線をキリコに返した理由は、ペンダントの表面に刻まれている紋章にある。
「こ、これって教皇庁の……?」
X字にまじわった二本のウォード錠の鍵と、三重形状の教皇冠帽とが重なるように配された絵柄。
重なった二本の鍵は、神と人間、天上界と地上界との交わりをあらわし、三重形状の教皇冠帽は、ダーマ神教の最高司教たる教皇だけが、神・人間・聖霊の三者をつなぐ唯一の存在であることを表現している。
およそ教圏国の人間ならば知らぬ者はいない、ダーマ教皇庁の紋章である。
エルデイ領の担当司教がこれと同じペンダントを持っていたので、シェリルにはすぐにわかったのだ。
――ダーマ神教。それは大陸西方地帯に広く浸透する一神教の名である。
刻をさかのぼること千年前。万物の創造主とされるダーマより人類救世の啓示をうけた預言者ヨブ・ファティマによって創始され、迫害と弾圧で彩られた過酷な歴史を経た現在では、大陸西方地帯に散在する四十余りの国すべてで国教と定められるまでに発展を遂げ、広大にして強固な一大宗教圏を築いている。
《地上に神の王国を築き、人類を悪魔の使いより救済せよ》
神託をうけたヨブ・ファティマは、自身に下された啓示を編纂した聖典「ヨブ記」をもとに布教を開始。その活動拠点として創設された「ダーマ神教会」こそ、現在のダーマ教皇庁である。
ダーマ神教の総本山は、教皇を元首とするダーマ教皇庁であるが、広義では、教皇庁を中心に大聖堂、宮殿、美術館、図書館、病院、修道院、神学校、一般居住区などが整備された、人口五千人あまりの都市国家「ファティマ教皇領」をさす。
預言者ファティマの名を冠したこの都市国家は、教圏国のひとつ神聖ラファーン帝国の国都内に領土をかまえるが、ダーマ教皇の直接統治の下、ラファーン帝国を含めたすべての教圏国から独立した存在であり、一方で、そのすべてを宗教的支配下においている。
バスク王国も、その支配下にある教圏国のひとつだ。
「さっきも言ったが、俺の名はキリコ。教皇庁奇蹟調査局の命令でここにきた」
「奇蹟調査局?」
その組織名はシェリルも聞いたことがある。
教皇庁の内部組織のひとつで、世の人々が体験、もしくは目撃した理解不能な超常現象を調査し、その研究をおこなっている機関だ。
伝え聞くところでは、博識と教養に秀でた学者肌の聖職者によって構成される組織とのことらしいが、シェリルには、目の前にいる赤毛の若者が「学者肌の聖職者」にはとても見えなかった。
しかし、嘘をついているようにも見えない。
なによりダーマ神教の聖職者の証明であるペンダントも持っているし……。
「あなた、教皇庁のお役人さんなの?」
「……お役人?」
シェリルの一語にキリコはおもわず苦笑を漏らしたが、たしかに「宮仕え」には違いはないので、苦笑しつつもキリコは首肯してみせた。
「うん。まあ、似たようなもんだ」
「そ、そうなの……」
つぶやく声に安堵の息がまじる。
そのシェリルに、今度はキリコが訊ねた。
「ところで、君は?」
「わ、私はシェリル、シェリル・ランフォード。エルデイ領主フランツ・ランフォード男爵の娘よ」
「へえ、諸侯のお嬢さまってわけか」
応じたその声には、彼女の身分に意外さを禁じえない心情の響きがあったが、そのことにシェリルは気づかなかった。
「じゃあ、シェリル。ここでなにが起きたか話してくれるかな。もっとも……」
キリコは血で赤く染まったシェリルのドレスに視線を落とし、
「君のその姿を見れば、おおよそのことはわかるけどね」
「……そ、そうだわ!」
キリコの一語で自分がおかれている現状を思いだしたシェリルは、今宵、この屋敷で自身が体験したことを事細かに話しはじめた。
家族とともにジェラード侯爵主催の舞踏会に参加したこと。
その最中に、手配犯であるカルマン・ベルド卿が突如、屋敷にあらわれたこと。
先の国王弑逆未遂事件の真犯人が、ウォレス第一王子とジェラード侯爵であったと暴露したこと。
屋敷の警備についていたジェラード侯爵の私兵たちが、突然、舞踏会に参列していた貴族たちを襲ったこと。
そして、自分の家族もその巻きぞえとなって殺されたこと……。
その中でもとくにキリコの強い関心を誘ったのは、カルマンの「不死身ぶり」についてのくだりだった。
「剣や弓矢で斬られたり射ぬかれたりしたのに、あのカルマンという人は平然としていたわ。嘘だと思うかもしれないけど、すべて本当の話よ!」
穏やかな微笑がそれに応えた。
「もちろん信じるよ。というか、俺にもわかっているから」
「わかっている?」
「ああ。カルマン・ベルドという人物が、人間の姿をした怪物ということがね」
「よ、よかった。信じてもらえて……」
シェリルはほっと息を漏らしたが、すぐにはたと気づいた。
実際に目の当たりにした自分ですら荒唐無稽としか思えない話を、なぜこのキリコという若者は、疑うことなく素直に信じてくれたのだろうかと。
その疑問が、さらに別の疑問をシェリルの脳裏に喚起させた。
その場に居合わせたわけでも、直接見たわけでもないのに、どうしてカルマン卿が「怪物」であることを知っているのだろうか、と。
ひとつ息をのみ、シェリルはおそるおそる問いなおした。
「いったいなんなの、あのカルマンという人は。あなたは知っているんでしょう?」
いちおうはね、と、キリコはうなずいてみせたが、それだけでは不十分であることをシェリルの表情が訴えている。
シェリルを見つめるキリコの顔には、これ以上、口にすべきかどうかをためらう心情が浮かんでいたが、それも長いことではなく、意を決したようにキリコは口を開いた。
「カルマン卿の正体は《御使い》だ」
「御使い?」
誰の? という、さらなる疑問をシェリルが口にするよりもはやくキリコが語をつないだ。
「そうだ。おそらくはこの教圏世界が誕生する以前から存在していたと思われる、人間の姿をした悪魔のことだ。そして、君たちを襲ったという侯爵の私兵は、そのカルマン卿によって生命を奪われたあげく、あらたに闇の生命を吹きこまれた屍生人だ」
キリコの口にした意外な固有名詞に、シェリルはおもわず目をみはった。
「屍生人ですって? でも、あれは空想上の怪物でしょう」
屍生人とは、「悪魔憑き」と呼ばれる憑依現象によって屍体のままよみがえった、文字どおり屍体のまま生きる人間のことである。神教圏の国々においては、異教徒や背教者の死後の姿として、聖職者などの口からこの存在がたびたび語られる。
ダーマの教義に背いた者は、死後、天上の世界にいくことはかなわず、屍生人となって未来永劫、現世をさまようことになる。だから日々の敬虔な信仰心が大切というわけだ。
むろん、話をするほうも聞くほうも、そのような怪物がこの世に実在するとは本気で思っていない。
信仰心の大切さを説くための、一種の方便として教会によって創造された空想上の怪物だ。すくなくともシェリルは、これまでそう信じてきた。
だが、シェリルがそのことを口にすると、薄い苦笑がキリコの口もとをかざった。
「空想の怪物かどうか、今宵、君は身をもって知ったはずだが?」
「…………」
シェリルは声を詰まらせた。たしかにそのとおりであった。
空想上の怪物というなら、自分の家族やほかの貴族たちを次々と殺したあの兵士たちは、いったいなんだというのか……。
「世間では悪魔憑きなどとも呼ばれているが、正直なところ、どういう魔道の法なのかは、われわれ教皇庁の人間にもよくわからない。ひとつたしかなのは、《御使い》は死者をも自在に操ることができるということだ。今宵、君たちを襲わせたようにな」
得体の知れない冷たいものが背中を流れ落ちるのを自覚しつつ、シェリルはさらに疑問を口にした。
「で、でも、どうしてカルマン卿がそんな怪物に?」
「彼は転生したのさ。自分の一族を破滅においやった連中に復讐するためにな」
「転生って……つまり、生まれ変わったということ?」
そのとおり、と、キリコは小さくうなずいた。
「もしかしたら、君も目撃したんじゃないかな。そう、今から一月くらい前。夜空が朱色に染まった奇怪な光景をさ」
「……み、見たわっ!」
おもわず声をうわずらせたシェリルは、自身が目撃した怪異な現象について語りはじめた。
「夜、屋敷で飼っている犬がやたら騒ぐので窓から外を見たら、西の方角の空が赤く染まっていたの。それも夕焼けのようなあざやかな赤色ではなくて、なにかこう、黒ずんだ血のような色に。なにかの天変地異の前ぶれじゃないかって、屋敷の使用人たちが怯えていた。もちろん、私もだけど……」
「あれは〈ヴラドの渇き〉という現象だ」
「ヴラドの……渇き?」
「そう。この世に《御使い》が誕生するときに発生する、一種の怪異現象だ。空が朱色に染まったあの夜、カルマン卿は人間であることを棄てたのさ。さっきも言ったように、一族を破滅においやった人々に復讐を……」
言いさしてキリコは声をのみこみ、頭ごと視線を転じた。
それまでの温雅な表情から一変、ただならぬその険しい顔つきに気づき、シェリルも同じ方向に視線を走らせた。
コツコツという異音に気づいたのは直後のことだ。
「な、なに、この音?」
「気づかれたか……」
蝶番が鈍い擦過音を奏でた直後、広間の扉のひとつがゆっくりと開き、そこから一個の人影があらわれた。
広間内をおおう薄闇にその容貌はすぐには確認できなかったが、大窓から差しこんできた月光がそれを解決した。
あざやかな黄金色の光に照らされたその素顔を見たとき、シェリルはおもわず息をのみ、心身を戦慄に硬直させた。
舞踏会場で見たときは知らなかったが、今ならその正体がわかる。
復讐のために《御使い》なる悪魔に生まれ変わった青年貴族のことを……。
 




