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かくて聖者は《奇蹟》に抗う  作者: RYO太郎
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第一章  ジェラード邸事件 その⑦

 つい先刻まで栄華と権勢にあふれていたジェラード侯爵の屋敷は、いまや流血と殺戮とが支配する煉獄と化していた。

 

 その光景はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

 殺戮に狂奔するジェラード侯爵の私兵と、その凶刃の餌食となっていく貴族たちの姿を、カルマンは無言で眺めていた。

 

 恍惚(こうこつ)としたその表情は、まるで華麗な歌劇(オペラ)でも鑑賞しているかのようである。

 

 そのカルマンがわずかに視線を動かした。

 

 十人ほどの貴族たちが立ちはだかる兵士たちの間隙をついて、扉のひとつから広間の外へ逃げだしていったのだ。

 

 その集団にシェリルという名の少女が含まれていたことなど、むろんカルマンは知るよしもない。


「ふん、無駄なあがきを。この屋敷からは絶対に逃げられぬというのに……」


 冷笑をたたえつつカルマンが視線を転じると、その先でジェラード侯爵が自失を絵に描いた姿で場に立ちつくしていた。

 

 それも当然であろう。


 広間内で無慈悲きわまる殺戮に狂奔しているのは、皆、今宵の舞踏会のために呼び集めた、ほかならぬ侯爵自身の部下なのだから。


「こ、これはいったい、なんとしたことか……!?」

 

 痙攣したような動きを見せる唇はそう言っているようにも思われたが、声らしきものはなにも聞こえてこない。


 そんなジェラード侯爵の背中に、カルマンの興がった笑声がはじけた。


「どうしました、侯爵。いつになったら私を殺すのですか? もっとも、あなたがまぬけ面で惚けている間にも、頼りの部下たちは主人を見かぎったようですがね」

 

 冷ややかなその一語に、ジェラード侯爵ははっとして振り返り、そして絶句した。

 

 自分の周囲にいるべきはずの兵士の姿が、ただの一人もいなかったのだ。

 

 あわてて周囲を見まわしたとき、ジェラード侯爵は視線の先に彼らを見つけた。

 

 主人の護衛を放棄し、さらに広間から逃げだそうと狂奔し、さらにさらに同じ私兵同士で斬りあう部下たちの姿を。


「ど、どこにいく、きさまら。私の命令がきけぬのかっ!?」


 声を震わせてジェラード侯爵は叫んだが、狂乱の渦と化した今の広間内にあってはその声もかき消され、兵士たちに聞こえるはずもなかった。

 

 もっとも、声が届いたところで戻ってくる者は皆無であったろうが。

 

 さすがにそのことを悟ったのであろう。

 ジェラード侯爵は閉口すると、くずれおちるようにして床の上にへたりこんだ。

 

 石像のように座りこんだ侯爵の背中に、またしても冷ややかな声音(こわね)がはじけた。


「哀れなものだな、ジェラード。舞踏会という華やかな舞台で妻女には先だたれ、部下には見捨てられる。醜悪なきさまの最期にふさわしいではないか、んん?」


「…………!!」


 冷然きわまる嘲弄が鼓膜を刺激した瞬間、ジェラード侯爵の中で「なにか」が音もなく()ぜた。


 赫怒(かくど)焦燥(しようそう)、屈辱、そして絶望――。

 

 それら「負の念」が渾然一体(こんぜんいつたい)となって恐怖心を凌駕したとき、ジェラード侯爵は魂の底から激発した。

 

 そうでなければ、おそらく侯爵は聞きとがめたであろう。「妻女には先立たれ」というカルマンの発した言葉を。


「お、おのれぇぇ……この死にぞこないがぁ!!」


 激情の声ともにジェラード侯爵は立ちあがり、床を駆けだした。


 憤怒の態で床を駆る侯爵の手には、いつしか長剣が握られていた。


 警備兵の一人が逃げる際に落としていったもので、ジェラード侯爵はその剣を奇声もろともカルマンの肩口に打ちこんでいった。


 こと武芸というものに侯爵はまったく通じていなかったが、それでもその一撃はカルマンの肩を裂いた。


 視野を翳らせるほどの血しぶきが裂かれた肩口から噴きだし、一瞬にして宙空に朱色の紗を織りあげた。


「ど、どうだ、思い知ったかっ!」


 刃を介して伝わってきたたしかな手応えに、ジェラード侯爵の顔に会心の表情(いろ)が浮かんだ。しかし――。


「ばかめ!」


 カルマンの口もとに冷笑がゆらめいた瞬間、すばやく振りあげられた腕がジェラード侯爵に向けて一閃した。

 

 垂直に振りおろされたカルマンの手刀は、ジェラード候爵の右肩に直撃した直後、肉を裂き、骨を砕き、侯爵の腕をたちまち肩口から切断した。

 

 口からは絶叫を、肩口からは噴血をそれぞれ宙空に放出しながら、ジェラード侯爵はもんどりうって床に倒れこんだ。

 

 悲鳴をあげてのたうちまわるたびに、肩口から噴きだす鮮血が床に血沼をつくり、その血沼の中を流れるような歩調でカルマンが近づいてくる。

 

 肩にくいこんだ剣を無造作に抜きとり、それをほうり投げるとカルマンは足を止め、血にまみれた姿で悶絶するジェラード侯爵を見おろした。

 

 完全な勝者のみが放つことができる愉悦の光が、その双眸にはあった。


「そろそろ終幕(おわり)にしようか、ジェラード。わが父シャラモンがきさまの来るのを冥界(あのよ)で待っているのでな」


「……た、助けてくれ、カルマン卿。た、頼む……!」


 消え入りそうな助命懇願(いのちごい)の声に応えたのは、冷酷を絵に描いた薄笑いだった。


「ジェラード家の当主とあろう者が、情けない命乞いなどしてくれるな。きさまとわが父シャラモンは、王立学院で席を並べた学友同士と聞く。その友誼(ゆうぎ)に免じ、せめて苦しまずに地獄へ送ってやろう」


 カルマンの血に濡れた手が、ゆっくりとジェラード侯爵の顔に伸びていった……。



     †

    


「逃げろ、シェリル!」

 

 フランツの最期の言葉が、今もシェリルの内耳で反響していた。

 

 まるで耳もとで叫ばれているかのようにはっきりと、そして何度となく……。

 

 屋敷には舞踏会用のものとはまた別に、集会用に造られた大規模な広間がいくつかある。

 

 そのひとつが、屋敷の五階にある「白薔薇の間」である。シェリルは今、そこにいた。

 

 否、潜んでいたというべきか。

 

 絹のクロスが掛けられたテーブルの下で息を殺し、膝を抱えた姿で身体の奥底からこみあがってくる恐怖に細い身体を震わせていたのだ。


 どうやってこの部屋にまできて、このテーブルの下に隠れたのか。当のシェリルにはまるで記憶がなかった。


 逃げまどう貴族たちの群に呑みこまれ、なかば押し出されるように広間から逃げだしたものの、屋敷内のいたる所に殺人鬼と化したジェラード侯爵の私兵は待ちかまえていた。


 一緒に逃げだした貴族が一人また一人と、兵士たちの凶刃の餌食となっていく中、シェリルは無我夢中で屋敷の中を逃げまわり、気づいたときにはこの広間のこのテーブルの下で、一人心身を震わせていたのだ。

 

 一瞬、シェリルの身体がびくっと動いた。


 それまで静寂を保っていた室内に異音を感じとったのだ。


 金属がこすれるような鈍い音。


 それが蝶番の摩擦音であることに気づき、シェリルはおもわず息をのんだ。

 

 露台(バルコニー)に通じる大窓が開閉されたことを即座に察したのだ。


 それも風などによるものでない。誰かが屋外から侵入してきたのだ。

 

 その証拠に、コツコツという床を蹴る靴の音が聞こえてくる。


 しかもその音は、徐々に大きくなっていた。こちらに近づいてきているのだ。


「こ、こないで……お願い……」


 胸の内で必死に念じるシェリルの手には、一本の果物ナイフが握られていた。


 それをいつ手にしたのか、シェリルにはまるで記憶がなかった。


 おそらく舞踏会場から脱した際にでも、偶然その手につかんだのであろう。


 もしものときは、せめて名誉ある諸侯の娘らしく、これで一矢をむくいてから死のう。


 胸の内でそう覚悟をきめると、シェリルは震える手を必死に制御し、ナイフを力強く握りしめた。


 靴音が消えたのはまさにそのときだった。

 

 止まったのだ。それもこのテーブルの前で!

 

 やがてテーブルクロスがゆっくりとめくりあげられていくと、もはやこれまでと観念したシェリルは胸の前ですばやく十字を切り、短く神への祈りの言葉をつぶやくとテーブルの下から飛びだした。


「か、覚悟しなさい、この怪物(ばけもの)っ!!」


 絶叫とともにシェリルがナイフを前方に突きだした、その直後――。




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