3話:交わりの色
カイ・イズルハの朝は早い。
山々の稜線からかすかに曙光が差し込む頃にぱちりと目を覚まし、傍らで眠るソフィアを起こさぬようするりと寝床を抜け出る。
仲間たちの勧めもあり、最近は早寝早起きを心掛けているカイである。
かつては眠ることすらなかったことを思えば、随分と人間的な生活であろう。
朝のカイは軽く体を動かしたのち、厩舎へと向かうのが日課だ。
冬の夜露に濡れた道を歩く痩躯は軽装だ。いつもの黒衣に小剣を一振り帯びただけ。
ヴェルジオン領が平和であることはもちろん、馬の世話をするのに大仰な装備は邪魔になるからだ。
「おはよう、クティークス」
厩舎の中、カイはまずひときわ巨躯の馬に声をかける。赤国皇帝から贈られたクルスの愛馬だ。
どことなく不敵な顔をしたその馬は、カイの声に頷くような仕草を返し、群れを連れて厩舎を出ていった。
その間にカイは手早く掃除し、飼葉を詰め替えていく。
馬は社会性のある生き物だ。群れにはボスがおり、世話をする人間の顔も識別できている。自分たちが外にいる方が朝食の用意が手早く済むことを理解する知性もある。
同時に馬はとても臆病な生き物だ。かつてはカイの発する剣気に怯え、騎乗することすらままならなかった。
魔物にすら敢然と立ち向かう軍馬も抜き身の絶刀相手では恐怖を思い出すのだ。
それが今やどうだ。厩舎を掃き清め、カイは満足げに額の汗を拭った。
ヴェルジオンの名馬たちはカイを信頼し、寝床の世話を任せている。
経験したことのない類の達成感と充実感だ。本来は従士の仕事であるが、無理を言って加えてもらってよかった。
……カイが下積みの仕事をしているのは、魔神騒乱で肉体を大きく損傷した結果、施療院に戦闘および訓練を禁止されたことに端を発する。
半生の過半を占めていた事柄を禁止されたカイは当然のように暇を持て余した。
そして、途方に暮れる彼を見かねた仲間たちが助け舟をだしたのだ――。
『せっかくだし、新しい趣味でも始めたらどう?』
『乗馬はどうだろうか。まだ歩くのにも不自由しているのだろう? ヴェルジオンの馬は優秀だぞ』
『カイは、まず彼らにこわがられないようになるところから、でしょうか』
『――成程。つまり、馬たちには俺に馴れてもらわねばならないのだな』
厩舎の掃除が終われば次は馬たちの世話である。
まだカイに触れられるのを怖がる馬もいるが、そこはそれ。一年以上続けていれば如何な朴念仁でも要諦が掴めてくる。
つまるところ、逃げられる前に捕まえてしまえば――
「見つけた、カイ!!」
刹那に、視界の端をふわりと銀の髪が踊る。
ブラシを手にじりじりと群れとの距離を詰めていたカイは、次の瞬間、横合いから勢いよく抱き着かれてたたらを踏んだ。
「イリス?」
「かくほー!!」
如才なくカイを捕らえたイリスが声をあげると、どこからともなくヴェルジオンの使用人たちがわらわらと集まってきた。
彼らはその場で衝立を立てて視線を遮ると、桶と布巾を手に有無を言わさずカイを着替えさせ始める。
「ま、待て、イリス。まだ馬たちの世話が――」
「今日は式の打ち合わせと教皇サマのお出迎えがあるって言ったわよね?」
「……到着にはまだ時間があったはずだが」
「教皇サマ出迎えるのに馬糞の匂いさせるわけにはいかないでしょう!!」
殆ど涙目のイリスに叱られて、カイははたと気づいた。
そういえば世の中には外聞というものがあった。田舎暮らしですっかり忘れていた。
一時期は教皇の護衛もしていたカイはエルザマリアとは上司と部下である以上に家族――あるいは何かが違えば恋人になっていた、と言ってよい関係にある。カイの不精具合を彼女は気にしないだろう。今更過ぎる。
とはいえ、今のカイはヴェルジオン家の食客だ。着の身着のまま出迎えるわけにはいかない。
教皇――明日の大晦日で元教皇となる――エルザマリアはヴェルジオン領に新しく建てられた教会の神官として赴任する。
当然、身分としては大きく落ちる。本来なら教皇は終身制であるが、白国の政治体制が変遷したことで教皇に付属する権力も縮小され、それに則した新たな教皇を立てることになったのだ。
教皇を輩出する血族がエルザマリアを遺して滅んだ以上、この変化は時代の必然であった。
(……変化の時代か)
丁寧で、しかし有無を言わせぬ手つきで体中を拭かれながら、カイは心中でひとりごちた。
今は四大国すべてに同じような動きが起こっている。理由もまた察せられる。
エルザマリアは戦いの王だった。動乱が、魔物が、強大な敵がそう強いていた。
だが、時代は変わった。ゆえに、彼女も立場を辞すことに同意したのだろう。
「教皇サマっていってもソフィアより若いのよ。新しい土地で不安にもなるでしょう。アンタがしゃんとしてないと困るわよ」
「そうだな……そうだろうな」
本当は泣き虫だったエルザマリアの顔を思い出し、カイは小さく頷いた。
主人のハードスケジュールに付き合うヴェルジオンの使用人たちは優秀だ。そうこうしている内にカイの手入れと着替えは終わった。
かつてと比べれば随分と落ち着いた雰囲気のカイは、髪を整え、きちんと着飾れば相応の姿になる。
クルスと異なり特筆して美形というわけではないが、肩の力を抜いてすっと立つ姿には飾らぬ美があるのだ。
数歩離れてカイの全身を確かめたイリスはほう、と満足げな息をついた。
「悪くないわ。うん、悪くない」
「惚れ直したか?」
「ソフィアの次にね」
冗談めかして朗らかに咲う従者もまた、かつてより大人びて見えた。
魔神争乱からしばらくして、イリスは肌をみせる格好をしなくなった。
今着ている狩猟服も彼女のすらりと伸びた手足を隠している。もっとも、胸元の成長ばかりは隠しきれないが……。
ともあれ、戦時に於いて従者が手足を露出させていたのは触覚による感知を高める為だ。カイが冬でも袖を詰めた黒衣を着ているのと同じ理由だ。
「ん、どうしたの?」
「ああ、いや……」
今、そうしていないのは前線から離れているからであり……うぬぼれでなければ、自分以外に見せないためだ。
「お前がわらっているのが嬉しかった」
「……またそうやって自然に女の子口説くんだから」
「そうか?」
首を傾げつつ、カイはイリスの頬に触れていた。
冗談めかしたじゃれあいであったが、触れた白皙の頬は柔らかく、暖かな感触がした。
「うぅ……弱味だわ」
イリスは可愛らしく口を尖らせる。しかし満更でもないかのか、指先に熱が伝わってくる。
そこに、おのれを隠す心の仮面を被っていた少女はもういなかった。
それでも、カイの心には一抹の不安が残っていた。
◇
その夜のこと、カイは屋敷の露台で月を見上げていた。
冬の冷たい夜空は澄み渡り、冴え冴えとした月光を地上まで届かせている。
エルザマリアの出迎えは恙無く終わった。今は新しい教会で明日の準備に勤しんでいることだろう。
護衛兼従者として、十二使徒からクラウスとソーニャも来ている。日常の細々としたことであればカイよりよほど上手くこなす二人だ。信頼できる。
「……十二使徒も役目を終えたか」
声には微かな寂寥が滲む。
元より国への帰属意識など皆無に等しい集団であった。
十二使徒は“強い教皇”を体現する剣であり、ネロが同族を滅ぼすために組織した私兵であった。
双方の意義が失せた以上、強すぎる暗剣は無用ないさかいを呼ぶだけ。解体は必然である。
皇都に残ったのは、騎士団長でもある第二席アレックスと聖地でしか生きられない第三席レクシーン――
――そして、眠り続ける第一席ネロ
「剣を継いでいく」
月光を浴びる総身を静かな決意が満たす。
約束があった。もうひとりの父と言うべき相手との約束だ。
だが、ネロが目覚めるまで、予言の聖者レクシーンは八百余年を数えた。エルフですら没する永き時の果てに、どうすればおのれの剣が届くのか。
ただ技を継承するだけでは、ネロには届かない。
カイは痛感している。自分は弱くなった。
それは愛刀を喪ったとか、後遺症があるという次元の話ではない。
もっと根源的な――言うなれば、人類が世界に「もう頑張らなくていい」と告げられたような、そんな実感だった。
きっと、これから先の時代に武神が生まれることはない。あるいは、神という存在自体がなくなることすらあり得る。
確信があるのだ。ふたりの武神が雌雄を決したあの瞬間、間違いなく――
――ガイウスは世界最強であり、おのれは世界最速であった。
後にも先にもこれ以上は生まれ出ない。そのことが寂しくも誇らしかった。
(だが、それでは――)
「また泣きそうな顔してる」
ふと、いつからいたのか、肩が触れるような距離にイリスが立っていた。
手には湯気をくゆらせるカップがふたつ。
どうやら心配させてしまったようだ。袖のない真っ白なドレスを着た従者は、カイの顔を覗き込むように上体を傾けた。
「心配事? 明日の天気とか?」
「いや……」
カイは言い淀んだ。不安の種をイリスに告げることを迷った。
自分は弱くなった。技が錆びぬよう訓練はしているが、人の限界を超えることはもうない。
神の封印でなくなったソフィアも予見と読心を失った。クルスは元より億千万を率いたときにこそ真価を発揮する性質だ。それほどの軍勢が生まれることはそうそうない。
だから、ただひとり、イリスだけが神代の世界に取り残された。
古代種の血を半分引いているからか、従者の実力はまったく衰えていない。
今も彼女の隠行にカイは気づけなかった。隠行には適さないドレスというハンデがありながら気づけなかった。数年前なら彼女がどれだけ本気で隠れても見つけられた自分が、だ。
きっとアルカンシェルの中でイリスだけが、かつてカイが空に刻んだ傷痕を再び開くことができる。
「カイ、聞いてる?」
「ん、いや。すまない」
「いつにも増してアンニョイじゃない。ほんとにどうしたの?」
「……」
一瞬が、永遠のごとく続いていく。
カイは迷い、イリスは辛抱強く待った。
そうして、観念したカイはゆっくりと口を開いた。
「……お前を残してしまった」
「カイ、あなた――」
やはり言うべきではなかったか。目を丸くするイリスを見てカイは後悔した。
元より背中合わせのふたりだ。その一言で従者にはすべてが伝わってしまった。
「すまない。あまりに無責任な――」
「――そんなこと気にしてたの?」
「え?」
「そりゃあ私はあなたより長生きしそうだけど。でも、そんなの今更でしょ」
あっけらかんとして言って、イリスは月光を浴びて美しく輝く銀の髪を払う。
強い視線でカイを見据える一対の瞳が赤と青の混ざった色――紫色に輝いた。
「カイ、私は私のまま生きていく。誰に気兼ねすることもない。
――イリス・セルヴリムは、あなたの築いた伝説と一緒に生きていくわ」
カイの心臓がドクン、と跳ねた。
それは宣言であった。主の人生を誇る従者の喜びであった。
自分はもうひとりではないのだと。大丈夫だと告げるイリスの優しさであった。
「だから、カイ。あなたは弱くなっていいの。ただの人になっていいのよ。
ちゃんと看取ってあげるから、ヨボヨボのお爺ちゃんになって孫に囲まれて往生するといいわ」
「……イリス」
朝の意趣返しか、冗談めかした言葉を続けてイリスは咲う。
それに対してカイもまた飾り気のない、澄んだ笑みを返した。
「ありがとう。おかげで決心がついた」
「カイ?」
もういいだろう。足踏みする時間はこれで終わりだ。
誰よりも尽くしてくれた従者が、彼岸から連れ戻してくれた仲間が、この人生を伝説だと称えてくれたのだ。
ならば、信じられる。貫き通すことができる。たとえ――
「武門を立てる。剣のイズルハ――心技を継ぐ家だ」
――たとえそれが、不可能だと言われていたことだとしても。
「俺の剣、俺の心技、俺の魂を伝えていく。800年先まで伝えていく。最初は模倣することもできないだろう。
けれど、それが技術である限り、人の積み重ねた歴史は必ず俺に辿り着く」
――俺が最速ならば、継嗣たちが追い付いて来い。
心技とは魂の写し身、唯一人に属する唯一つの業だ――今はまだ。
だが、カイの剣が過去から連綿と受け継がれてきた歴史であるように、未来の研鑽がきっとその場所に到達する。
それは魂を表現する心技を、ただの技術に貶めることになるのかもしれない。従者が誇ってくれた伝説を陳腐化させてしまうかもしれない。
それでも――それでも、カイは800年後にネロを斬る剣を他に任せることはできなかった。
「本気?」
「勿論だ」
「……また忙しくなるわね」
「苦労をかける」
イリスは今度は苦笑ともつかない笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「慣れてるわ。だって、カイだもの」
「非常に今更だが、お前は俺をなんだと思っているんだ……?」
「世界で二番目に好きな人」
「――」
数瞬、世界が止まった。
「一度しか言わないから、忘れないでね」
「了解した」
「よろしい」
イリスは満足げに頷き、それから手元のすっかり冷めたカップに視線を落とした。
「紅茶冷めちゃったわね。淹れ直す?」
「いや、貰おう。それでもう寝る」
「そ。なら、乾杯でもしましょうか」
「何に?」
「色々」
「……そうだな」
月明かりの下、お互い真剣な表情でカップを持ち上げ――堪えきれず笑声が零れた。
「どうにも締まらないわね」
「たしかに。慣れないことはするものじゃないな」
「けど、悪くないわ」
「……ああ、そうだな。悪くない」
チリン、と澄んだ音を立てて陶器が優しく触れ合う。
――これから先、カイは数えきれないほどイリスの淹れた茶を飲むが、この日の冷めた紅茶の味を忘れることはなかった。




