2話:再び出会う
ぴちゃん、と水滴の落ちる音でクルスは目を覚ました。
はっとして辺りを見渡せば、どうやら洞窟の中にいるらしいとわかった。
さして広くはなく、危険な様子もない。だが、尋常の洞窟ではない。
なぜなら、洞窟の壁面からは、白銀の光を放つ不朽銀や、黄金の輝きで場を満たす不壊金剛の結晶が色鮮やかに湧出しているからだ。
無論、二種の高位金属がこのように無造作に、並んで生えている筈がない……現実ならば。
思わず、苦笑する。
この風景は己の精神を反映したものなのだ。
本来の鉱床はこういうものではないと知識として知ってはいても、いまだ心のどこかで幻想を抱いているのだろう。
「夢見がちだと、またカイに叱られてしまうな」
苦笑を浮かべたまま、クルスは立ち上がる。
ここがどこで、自分がなにをすべきか、青年はもう知っている。
結晶に照らされた洞窟の中を、クルスはひとり歩いていく。
そうしているとふっと昔を思い出す。
わずか数年前のことなのに、昔と言いたくなるような過去だ。
それからの日々――魔神に挑む瞬間へと駆け抜けた日々があまりに鮮烈だったからだ。
「懐かしいな……」
かつて、今と同じようにクルスは神樹の洞を歩いていた。
そして、彼女に出会い、喪い、もう一度出会った。
その頃のおのれはまだ一介の騎士で、進むべき道もしかとは定まっていなかった。
ただひたすらに、がむしゃらに駆け抜けた日々だった。
「――俺は選べたよ。この道を、自分の意思で」
過去の自分が今のおのれを見たら、なんと言うだろうか。ふと考える。
恥じるような生き方はしていない。
ただ、随分と待たせてしまった。そんな後悔がわずか胸をよぎった。
体感時間で一刻は洞窟を進んだ頃、クルスの耳は微かな水音を捉えた。
「……水の音、か」
かつてと同じその音に、彼は終点が近いことを悟った。
緩く湾曲した洞窟を抜けた先は、巨大な地底湖が鎮座する広間になっていた。
澄んだ水が鉱石の輝きを受けて、広大な空間を眩い光で満たしている。
クルスはしばしの間、目前に広がる懐かしい光景に目を細めていた。
地底湖には先客がいた。
腰まで伸びた深緑の髪、笹穂のような耳、宝石の如く輝くかんばせ。
膝まで湖面に浸かった彼女は一糸まとわぬままこちらをじっと見つめていた。
その姿は、いつも共にあった子供の形ではない。成長した、大人としての姿だ。
それこそが、今の彼女の本質を捉えた姿なのだ。
彼女のこころはもう子供のそれではない。
……なのに、悄然とした様子は幼い迷子のようであった。
「――クルス」
風に囁くように、そっと名前を呼ばれる。
彼女のエメラルドの瞳とクルスの蒼い瞳が視線を交わす。
「シオン」
「――とつぜんよんで、ごめんなさい」
「いいんだ。結論を先延ばしにしていたのは俺の方だ」
今にも泣き出しそうなシオンの下へ、クルスは湖の中を進んでいく。
一歩踏み出すごとに湖面に波紋が起きる。
躊躇いはない。ずっと前からわかっていたことだった。
シオンはもう、クルスに憑いている必要はない。
おそらく魔神争乱の頃にはそうだったのだろう。
生まれたばかりの妖精はクルスと共に各国を旅した。数多の敵と戦った。
その中で、多くを知り、多くの人間を学んだ。
人間になることを望んだ妖精は、必要な経験をすでに経ているのだ。
「それでもお前が子供の姿でいたのは、俺のエゴだ」
「――シオンも。このままでいれば、クルスの“とくべつ”でいられたから」
彼女の言葉はどこか悲しげで、甘くも苦い後悔を孕んでいた。
妖精のままでいるのなら、悩むことはなかった。
いつまでも変わらぬまま、誰と競うこともなく、クルスの最も近い場所にいられた。
妖精と妖精憑きとは、そういう関係にある。
常に彼の裡に在り、心と心で会話する。
隔てるものはなにもなく、誤解が生じる余地もない。
だからこそ、シオンが人間になるには、安寧のゆりかごを脱さねばならない。クルスの心の一部であることをやめねばならない。
そして、ひとたび別かたれれば、もう戻ることはできない。
――それならば、ずっと妖精のままでいた方がいいのではないか。
妖精のまま、クルスの一部として存在した方が幸せなのではないか。
人間を知るほどに、シオンの中にはそういった想いが芽生えた。
憧れと同じだけ、おそれが心の裡に生じていた。
クルスもまた心地良い関係に甘えていた。
彼女のおそれを理由に、無意識に結論を先延ばしにしていた。
その怠惰に延々と付き合っていた。
「だが、それは人と人との関係ではない」
甘美な誘惑を振り切って、クルスは断じた。
気付いてしまった以上、目を逸らすことはできなかった。
いずれ幼年期は終わるものだ。
ゆえに、シオンを確固たる個人として認めるならば、決断しなければならない。
人は、別かたれているからこそ、人なのだ。
個であるからこそ他者を求め、言葉を発し、次代へと歴史を紡いでいく。
カイと共に人類の最先端を駆け抜けたクルスは、そのことを誰よりも知っている。
「でも――こわいよ、クルス。ひとりは、こわい」
「……ああ、怖いな」
おのれをかき抱く白い腕が、震える声音が、彼女のおそれを示している。
シオンがここまで感情を露わにしたのは、あるいは初めてのことかもしれない。
知識と経験は大人であろうとも、その裡に宿る心は成熟したとは言い難い。
それでも、とクルスは告げた。
堅い意思を込めた声が、踏みだす足が、湖面に波紋を投げかける。
「それでも、俺はシオンに人間になってほしい。もう“ひとつ”になれなくても、人として生きてほしい」
「どうして?」
「…………いま言わないとダメか?」
クルスはちょっとだけヘタレた。
だが、仕方のないことでもあった。
思い返せば、二十年と少しの人生で、異性に告白するという経験は彼には与えられなかった。
彼の半生はいわば、人類全体に奉仕する日々だったのだ。
「それは――」
けれど、そろそろ自分と周囲のことを考える頃合いだろう。
そう決意して、しかし、少年のようにクルスは落ち着きなく頬を掻き、何度も深呼吸して、
「――――俺が、シオンのことを好きだからだ」
結局、なんの飾り気もない告白をした。
それは拙くも、真摯な言葉だった。
言葉が伝わるにつれ、無垢なエメラルドの瞳が驚いたように見開かれる。
青い気恥しさを感じながらも、クルスは目を逸らさなかった。
「――クルスは、シオンのことが、好き?」
「ああ。この感情は心を繋げていては形にならない。伝え合って、はじめて形になるんだ」
「歌みたいに?」
「そうだ。誰かが歌って、誰かが聞くように、心の外にださなきゃいけないんだ」
「――そっか」
そのとき、しゃん、と鈴の音が響いた気がした。
それが最後のピースだったのだろう。
理解の波が広がるにつれて、シオンに変化がもたらされた。
外見に変化はない。だが、どこか希薄だった表情が鮮やかに色づいていくのがクルスにもわかった。
「シオンも――ううん。“わたし”も、クルスのことが、好き、です」
クルスは静かに息を呑んだ。
感情の初心者であるシオンの言葉はクルスに輪をかけて拙い。
だが、それは決してその感情が誰かと比べて劣っていることを意味しない。
むしろ、触れれば傷つくほどに、剥き出しの心を露わにしていた。
「わたしは、これからも、クルスのとなりにいて、いいですか?」
「ああ。一緒に生きよう、シオン」
その瞬間、クルスは胸の裡からあたたかな存在が抜けでていくのを感じた。
ずっと共にあった存在との繋がりが解けていく。
ぽっかりと穴の空いたような喪失感が胸を苛む。
それでも、クルスは微笑んだ。
別離の痛みは、これからのシオンと生きていくために必要なものだ。
それに、同じ痛みをシオンも感じていると思えば、涙を堪えるくらいはわけなかった。
「帰ろう、シオン。帰って、これからのことを話そう」
「――はい」
シオンは泣き笑いのまま、クルスを見上げて、頷いた。
差し出した手がそっと握り返される。
帰り道はわかっていた。
歌が聞こえるからだ。水人に伝わる“恋の歌”。
澄んだ歌声が、祈るように、励ますように導いている。
そうして二人は洞窟を抜けて、現実へと戻って行った。
◇
それからしばらく、クルスは常より忙しい日々が続いた。
役目を終えた大樹が消えても、屋敷の天井に穴が開いたままだったので、急ぎ修理を手配したり。
シオンのために、部屋や生活用品を用立てたり。
あるいは、泣いたり、ふてくされたりするカーメルを慰めたり、等々。
「クルスにもようやく春が来たわねー」
「……危うく花が枯れるところだったが」
「でも、これでひと安心です」
からかいながらも、彼の仲間たちはいつものように手を貸した。貸せるところは、だが。
主にカーメルに関しては「犬も食わない」とそっぽを向かれた。
加えて――
「カーメルさんだけじゃないですよね?」
未来を見通す眼を喪った妹の言葉はしかし、兄に冷や汗を浮かべさせた。
一方で、シオンにも変化があった。
大樹から戻った彼女は成長していた。人間で言えば十代半ば。それまでの少女の姿と、大樹の中での女性の姿のちょうど中間くらいの姿だった。
急激な変化に皆が驚いた。
なにより、シオンは、クルスの裡に還ることができなくなった。
それは、クルスが妖精憑きでなくなったことを意味していた。
妖精だった少女はクルスの胸を借りて、たくさん泣いた。
とはいえ、彼女が完全な人間になるのはまだ先の話だ。
その背中にはうっすらと翅があり、長時間クルスの傍から離れると存在が不安定になってしまう。
が、それも時間が解決するだろう。
背中の翅が消えていくにつれ、その存在がたしかなものになっていることがわかったからだ。
そして、シオンはカーメルの弟子になった。
「――いつか“わたし”も、うたう、から」
クルスとふたりきりの時だけ、シオンは自分をそう呼んだ。
確固たる自分を指して、そう呼んだ。
時にクルスの裡にもう還れないことを惜しみ、涙する夜もあった。
年月を経ては、クルスとぶつかり、怒ることもあった。
それでも、彼女が戻りたいと言うことだけはなかった。
彼女の歌声は今日もヴェルジオンの領地に響く。
後に、二代目“水晶鈴”として名を馳せる歌い手はこうして生まれた。
彼女が初めて歌ったのは、やはり恋の歌だった。




