XX話:最後の神話
遥かな白い闇の中でネロ・S・ブルーブラッドは夢を見ていた。
波間にたゆたうようにして長い、永い夢を見ていた。
泡沫に浮かぶ夢は古い記憶の再生であった。
『――お前の名は“ネロ”だ』
それは原初の記憶、混沌の世界を拓いた“定めし者”との最初で最後の一方的な会話。
その時のネロはまだ存在が確定しておらず言葉を発することができなかった。
かつて、この世界は一度滅んだらしい。
断片的ながら獲得できた根源知識はそう語る。
繁栄に繁栄を積み上げた末に、大地に死をもたない生物が溢れ、増え過ぎた命に世界が耐えきれなかったのだと。
世界は永遠の生に等しい凄惨な死をつくりだそうとしたが、死のない存在に死を齎す――それは全たる世界をして持ち上げられない岩を作り出すが如き矛盾であったと。
世界は己を砕くことでしか不死なる者達を殺すことができなかったのだ。
そうして砕け散り、混沌へと還っていく世界の中心でひとりの存在が立ち上がった。
男でもなく、女でもなく、人でもなく、人以外でもない。
その存在は混沌である。その存在を定義すべき世界は既に滅んでいる。
故に、ネロは“定めし者”と呼んでいる。
始まりの前にいた者、零と一の間に存在する者、テトラレンマを定義した者であるが故に。
それは一振りの武器を手に存在していた。
原初の武器。剣の、槍の、杖の、弓の、斧の、あらゆる武器の原型。
しかし、ネロはそれを“原初の剣”であるとみた。
世界を斬った故に剣であるとみた。
その剣は無銘である。名づけるべき世界は既に滅んでいるが故に。
彼あるいは彼女の振るったその剣は、滅んだ世界に三度亀裂を刻んだ。
一刀にて生と死を分かち、
二刀にて天と地を分かち、
三刀にて昼と夜を分かち、
そして、剣は砕け、四十七の破片にわかれた。
破片は後に生まれてくる“最初の生命”たる古代種達へと受け継がれた。
ネロを除く四十七人の古代種は生まれながらに原初の剣の“破片”を元にした武器を持つ。
死を溜めこむ杖、生を支配する鎖、天を穿つ弓、あるいは決して折れない剣。
その破片を以て古代種は自身を定義する。
古代種の数は四十八人を超えることはない。
ひとりの古代種が死ねば、その破片を受け継いだ新たな古代種が生まれる。
尤も、数千年の後には古代種が生まれなくなり、その破片武器も人の手に渡るようになったのだが。
而して、古代種の中で、ただひとりネロだけは破片武器を持たない。
原初の剣が砕ける前に生まれたからである。
しかし、生と死が分かたれる前の存在であるが故に、ネロは完全であった。
肉体の生を持ちながら、死後の世界に思考と魂を持つ。
現実と彼岸の間に存在する者、最も神に近き“黒の完成者”。
今となっては誰も覚えていない、ネロを示す名であった。
移ろいゆく時の中で、ネロは全てをみていた。
大樹に芽吹いた小さな命が長き時を経て緑神となるのを。
蒼穹の果てより飛来した旅人が海の中で青神となるのを。
古代種と武を競い合った男が戦いの中で赤神となるのを。
戯れに魔法を手解きした少女が白神となり、一族から追放された女が無数の伝承を取り込んで黒神となるのを。
その全てを、神の時代の全てを、ネロはみていた。
時代は変わる。
人が大陸を支配し、古代種が滅び、魔神が神殺しに斬られ、そして――
――最も古き生命は今、数百年の眠りから目覚める。
◇
永きにわたる眠りが終わる。
水底から浮上するようにネロの意識は覚醒した。
上体を起こして辺りを見渡せば、懐かしい聖花に囲まれたベッドに己が臥していた事に気が付いた。
「……悪趣味だな。ここに寝かせたのは誰の発案だ?」
雲ひとつない青空を見上げながら、ネロは悪態を吐いた。
ベッドを降り、自身の体が十全に動くことを確認する。
武神ガイウスに断たれた右腕は再生していない。
否、魂から破壊されたモノが治る筈もなし。右腕の喪失は予想した通りであった。
傍らに置かれていたネロの銀剣は苔に覆われていたが、それも指をひとつ鳴らして風を吹かせれば瞬く間に在りし日の姿を取り戻す。
真なる刃に瑕疵はなく、ネロの身と共に時の流れに取り残されているようであった。
――と、そこでネロは違和感を覚え、もう一度空を見上げた。
(空がみえるだと?)
眠りに就く前、白神の聖地“聖なる丘”の上には大聖堂が建っていた。
ネロがAの一族を嗾けて白国を乗っ取る前からあったものだ。
それが今や綺麗さっぱりなくなっている。
趣味に合う建築物ではなかったが、千年以上も住んでいれば愛着も湧いてくる。その消失は僅かにネロの心に影を落とす。
そして、それ以上に時の移り変わりの果てを魔人に実感させた。
あれから、魔神との戦いからどれほどの時が経ったのか。
それを知る術は今のネロにはなかった。
(……さて、これからどうするか)
一国の中心地が消える程の時が経った以上、かつてネロが築いた地位は無意味に帰したとみえる。今やその居場所は大陸のどこにもないだろう。
尤もネロにしてみれば、また一から身を立てるのも実行可能な選択肢ではあった。
しかし、そうするだけの理由は既にその裡にはない。
魔人は既に“死”を、答えを、人間の意味を識っている。
これ以上、呼吸する必要性を見いだせなかった。
――しかし、まだひとつだけ残されているものがあった。
ざっと土を踏む音を耳にしてネロは振り返った。
一歩一歩を踏みしめるように此方へと向かってくるのは見たことのない青年であり――見覚えのある剣を佩いた剣士であった。
銀剣。ネロが手に持つそれと同じ、十二使徒の証、破魔の聖剣、最古の魔導兵器。
剣士はネロの前に立つと静かに銀剣を抜いた。
りん、と涼やかな音を鳴らして、曇りなき刃が露わになる。
「最後の魔人とお見受けする」
「如何にも。ふむ、第三位あたりが予言を残していたか」
誰何の問いに答えつつ、ネロは意識の糸を伸ばして剣士の裡を探り、その真紅の瞳を微かに見開いた。
如何なる時代の変化によるものか、目の前のたった一人には全ての血が集っていた。
人が、妖精が、森人が、水人が、獣人が、鉄人が、古代種が、神の封印が、そして――
「――真に輝け、至高なりし、白銀剣」
なによりも、剣が――刃金の魂が、伝えられていた。
わかる。ネロにはわかる。
不朽銀の刃殻が外れ、その内より出でし至高白銀の透刃。
所有者の魔力を受けて清冽に輝くその片刃の剣は、魔人に最初で最後の愛弟子の姿を思い起こさせた。
「……そういえば、我はまだ約束を果たしていなかったな」
『――だから、いつか、貴様の剣の継嗣と相まみえることを願う』
そうだ。たしかに己はそう言った。
約束したのだ。いつか“刃金”と再会すると。
ぞくり、と心が震える。魔人は己の鼓動が高まるのを感じた。
「伝わっているのだな」
「貴方を斬るのが私達の役目だと。八百余年前の“初代”より継いできた約束です」
「そうか。……まったく、いなくなっても義理がたい奴だ」
苦笑を刻み、ネロもまた銀剣の鞘を地面に落とした。
囁くように告げる詠唱に従い、莫大な魔力を喰らって至高白銀の刃がネロの魂の形を創造する。
それは一見して巨大な刃であった。
魔人の全身を超え、天まで届きかねない透き通る大太刀。人間には到底使いこなせない超巨大武器。
ネロ・S・ブルーブラッドの魂は肉の裡に非ず。その本質は彼岸に隠された――
「――原初、混沌、古なる血」
「――魔人変化・ブルーブラッド」
―― 竜の姿にある。
一瞬の内に、ネロの姿は人のそれから、金色の鬣と黒色の鱗を持つ竜へと変身した。
その姿こそが原初の“竜”。
竜種が発生する以前の古代において、竜とはネロ唯一人を指す言葉であったのだ。
『――ッ!!』
ネロは久方ぶりの全力に全身の青き血潮が湧き立つのを感じ、歓喜の咆哮をあげた。
魂を彼岸の世界に残しておけば、ネロは肉体がどれほど傷つこうと死ぬことはない。
だが、全力で戦う為には、己の魂を詳らかにする為には、肉体に魂を呼び戻す必要がある。
魔力を祓う銀剣を前にしてその行為は、己の命を剣先に載せるようなものだ。
目の前の剣士が彼らの言う“初代”に比肩しうる存在ならば、万が一があり得る。
故にこその選択肢。
不死としてこれからも生きるか、この一戦に全力を傾けるか。
ネロは迷わなかった。
魔人は、竜の前肢で以て大太刀の柄をむんずと掴む。
竜の巨体に匹敵する真なる刃はしかし、その絶大な膂力によって隻腕であっても十全に振るうことができる。
次いで、両の黒翼に魔力を込めて羽ばたかせる。
竜身はふわりと浮き上がり、聖花の真白い花びらを巻き上げながら蒼穹へと昇る。
竜となったネロは上空から、その真紅の瞳で剣士を見下ろす。
それはネロから剣士への問いかけだ。
己は全力を出す。離れれば息吹で、近付けば剣にて相対する。
お前はどうする。どのようにして戦うのか、とその姿は言葉よりも雄弁に問いかける。
そして、答えは示される。
「――水竜、翔ける、天穹の空」
朗々とした詠唱に従い、剣士の背に竜の翼が顕現する。
雄々しく広げられた、透き通るような水色の翼。
ネロは睥睨しながらも、その顎門に隠しきれない笑みを刻んだ。
最早、自分以外に使う者がいないと思っていたその詠唱に、驚愕と歓喜と僅かな憎悪が湧き上がる。
「――魔人変化・ドラグーン=ベルフィオール」
そうして、剣士は竜翼を振って空へと舞い上がり、その黒瞳でネロを真っ直ぐに見据えた。
見上げるでも、見下すでもなく、同じ高さで、ただ真っ直ぐに見据えていた。
――かつて、恐怖に駆られて恐怖そのものとならんとした同胞達がいた。
それらが古代種のなれの果て、“竜種”という存在の第一世代。
ネロは彼らを嫌っていた。蔑んでいた。憎んでいたとすら言っていい。
己の真の姿によく似ているからこそ、その憎悪は更に根深いものとなった。
自ら知性を捨て、魔神の支配に下った恥知らず共だと。
口にこそ出さなかったが、大陸ひとつと引き換えに魔神を制御し、古代種の復権を目指した戦乱の導の方がまだマシだとすら思っていた。
だが、違った。竜種は知性を捨ててなどいなかった。
彼らはただ、大いなる流れに己が身を委ねたのだ。
『はは……そうか、世界はそうなったのか!!』
笑声と共にネロは大太刀を勢いよく振り抜いた。
家屋の二つ三つは纏めて両断できる極大の刃が斬風を巻いて空を両断する。
しかし、剣士はまるでそれを予想していたかのようにするりと回避してみせた。
その動きひとつとっても剣士が翼ある戦いに熟達していることを感じさせた。
『ならば!!』
大太刀を振るった勢いを利用して首を回したネロは顎門を開いてブレスを放った。
避けきれない。水平方向を掃射する紫電の息吹が回避直後の剣士を捉える。
だが次の瞬間、斬、と一刀の下にブレスが斬り払われた。
『……ほう』
思わず、感嘆の声が漏れる。
その技をネロは覚えている。“雷切”、弟子が得意としていた一技だ。
紫電の残光が散る中、一瞬の空白を衝いて剣士が間合いを詰める。
咄嗟に、ネロは担ぎあげた大太刀を打ち下ろす。
轟音と共に大太刀が剣士を断ち斬らんと迫り、しかし、あろうことか横薙ぎに振るわれた剣士の一刀に刀身の腹を打たれて狙いを外された。
キン、と澄んだ金属音が空に鳴り響く。
十倍を超える質量と間合いの優位はしかし、決定打にはならない。
速度だ。剣速にすら追いつかんとする圧倒的な速度が、剣士をネロと対等の領域に押し上げていた。
『これは、まさかな……』
ネロは微かな動揺と共に呟いた。
剣を通じて伝わってくる。
今世は平和なのだろう。対手には殺気がない。八百年前にはあった殺伐とした空気がない。
なのに、ならば何故、あの剣はこうも冴え渡っている。
理由などひとつしかない。
今日この時、ネロを斬る為に、ただそれだけの為に、全ての技と魂を継いできたからに他ならない。
『クク、心地よいぞ、刃金のッ!!』
「――はあああああああああッ!!」
口を衝いて出た歓喜に、剣士は剣戟で以て応えた。
そのまま幾度も剣を打ち合わせ、時に懐に入り込まれ、いくつもの傷を受けながらネロは無心に大太刀を振るい続ける。
互いの銀剣が放つ煌めきが宙に散り、いくつもの剣線が閃光の如き軌跡を残す。
そうして、数十合を打ち合った末、両者は弾かれるように距離をとった。
「ハア、ハア、ハア……」
『やるな、刃金の』
呼吸を乱しながら必死に羽撃つ剣士に対し、ネロは珍しく心の底から称賛を贈った。
現状、負傷はネロの方が圧倒的に多い。至る所の竜鱗が割れ、その全身から青い血が噴き出している。
だが、それでも、戦闘経験はネロに数千年の長がある。
互いに縦横無尽に空を駆けながら、しかし、剣士は徐々に追い込まれていた。
攻め続けなければ、加速を維持し続けなければ剣士は勝てない。
だが、ネロに一撃を加える度に、少しずつ余裕を剥ぎ取られ、体勢を立て直す時間を奪われていく。
そうして、崩壊の瞬間が訪れる。
剣士が大太刀を回避せんと翼を切り返し、軌道を変えようとしたその瞬間、ネロは二度目のブレスを放った。
戦闘開始以来、この瞬間まで温存していた一撃を、それでも剣士は切り払ってみせた。
だが、それで詰みとなる。
宙で完全に翼の止まった剣士に対し、ネロは大太刀を突き込んだ。
その巨大さを感じさせない精緻な一撃。
これまで大雑把に振り回すばかりであったネロの剣に慣れきっていた剣士は、この急激な変化に対応できない。
――対応できない、筈であった。
気付けば、胸元を切り裂く乾坤一擲の一閃にネロは体勢を崩していた。
見れば、剣士の翔けた軌跡に焼け焦げた轍が残っている。
ネロは理解した。相手は翼に加え、両の足で空中を蹴って更なる加速を果たしたのだ、と。
影すら絶つ無間の加速。時代は“初代”に追いついていたのだ。
今や高加速領域に入った剣士の姿はネロの目に映らない。
ただ、後に残る軌跡を捉えられるのみ。
(……来るか)
故に、ネロは前方に大太刀の切っ先を伸ばすようにして、突きの体勢に構えた。
全ての技が伝わっているというのなら、次に来るのが何か予想もつく。
迎撃が間に合うのか。そんな疑問は端から捨てる。
できなければ死ぬだけなのだ。
そうして、視線の先、正面から真っ直ぐに奔る銀光を捉える。
『ガアアアアアアッ!!』
一瞬後の座標を予測し、咆哮と共にネロは全身全霊の一撃を叩き込む。
「――斬刃一刀」
それでも尚、剣士の方が速かった。
その刹那、ネロは確かにみた。
祈りの如く振り抜かれる一刀に、答えをみた。
受け継がれてきた魂、人間の証明を確かにみた。
そうして、万物を断つ一閃がネロに触れた。
◇
「……刃金の継嗣よ、名を教えてくれ」
自分でも気付かぬうちにネロは人間態に戻り、地に膝をついていた。
妙に体が軽い。理由には察しがついていたが、確かめる気にはなれなかった。
ただ、目の前に立つ剣士の名だけが気がかりであった。
あるいは、予感があったのかもしれない。
「――クロードの子、ハルト・イズルハ=ヴェルジオン」
故に、その名乗りは納得を以てネロの胸に届いた。
「ハルト、刃金の継嗣よ、約束は確かに履行された。礼を言う。
だが生憎と返礼の用意がない。代わりと言っては何だが、我の銀剣を持って行け。証になる」
「……ありがたく」
ハルトと名乗った青年は荒れた息を整えて深々と一礼した。
その拍子に目についた黒瞳に、ネロは微かに口元を歪めた。
その色は“黒”と初代を繋ぐ色であった。
「何か、言い残すことはありますか?」
「そうだな……」
徐々に霞みがかっていく思考を暫し虚空に彷徨わせる。
だが、何も思い浮かばなかった。
それで悟った。最早、この世に未練はないのだと。
「魔人殿?」
「……我が名はネロ、ネロ・S・ブルーブラッド。
ハルトよ、言い残すことは何もない。
我は生きた。そして、死ぬ。この名だけ墓にでも記しておいてくれ」
「承知しました」
再度礼をする剣士ハルトを眺めながら、ネロは小さく息を吐いた。
肉体が、魂が、終わりを告げていた。
「面倒をかけたな」
「いいえ、私の代で貴方に出会えたこと、嬉しく思います。神代最後の御人よ」
「……神代か。どうにも長く生き過ぎたな」
最早、立ち上がる気力もなく、ネロは聖花に抱かれるように倒れ込んだ。
見上げれば、北の空の彼方に微かな傷痕が見える。
美しい虹のかかった空の傷痕を末期の景色として、ネロはゆっくりと目蓋を下ろす。
その口元には小さく、しかし、満足げな笑みが浮かんでいた。
◇
気付けば、懐かしい場所に居た。
彼岸の世界たる原初の海。
水平線の果てまで続く、透き通った蒼海。魂の還る場所。
今の世界より前に生まれた自分でも死後はこの場所なのか、とネロは感慨深く頷いた。
その身は既に腰の辺りまで海に沈んでいるが、不思議と不快感はない。
(……死んだ、か。我は死ねたのか)
思考は靄がかかったように白く濁っている。
ネロは自らの魂が波にさらわれる砂のように少しずつカタチを喪っていくのを感じた。
そう長くは自分を保っていられないだろう。
だが、この身もまた大いなる流れの中に還るのだと思えば、恐怖はなかった。
ただ安堵だけがあった。
あるいは、母の腕に抱かれるとはこういう気分なのではないか、とネロは徐々に輪郭を失って行く意識の中、その不思議な感覚を享受していた。
これで終わりなのだ。全てが終わったのだ。
そう思えば心も随分と軽くなった気がした。
「――久しぶりだな、ネロ」
故に、その声は驚きを以てネロの中に響いた。
思考の靄が晴れる。己の輪郭を思い出す。
この声の主を前に無様を晒すことだけは、ネロの矜持に賭けて絶対にあってはならないことなのだ。
視界が戻る。両足の感覚が返ってくる。
そして、視線の先には懐かしい姿があった。
黒ずんだ道衣に、腰の一刀と、背の銀剣。
いつかみた時と変わらない弟子の姿がそこにあった。
その顔に笑みはない。
いつものことだ。この男は真面目くさった顔をして、幾度も無茶と無謀を乗り越えてきた。
だから、今度もそうなのだろう。
たしかに、黒神に取り込まれた黒国王が霊人の信仰によって自己を保っていたように、剣のイズルハの“初代”として一種の信仰を集めたことで、自己を保つことはできるのかもしれない。
それがどれほどの刻苦を強いることなのかネロにはわからない。
否、我が身に置き換えてみれば、不可能なことのようにすら思えてくる。
だが、それでも、この原初の海の中で八百年も己を保つことも、只人の身で魔神を斬ったこの男にとっては、決して不可能なことではなかったのだろう。
「約束は果たせたようだな。これで、心残りはない」
なぜなら、この男は、ただその一言を言う為に此処にいたからだ。
ネロを“孤竜”のままにしない為、ただそれだけの為に、この海に留まり続けたのだ。
仲間の為なら、この男に不可能なことなど何もないのだから。
「ああ、まったく、お前は死んでも変わらんな――“カイ”」
そうして、最後の邂逅は果たされる。
その命の終わりに、ネロは生まれて初めて涙を流した。
―― 完
あとがきは活動報告にて。




