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鼠の目2

作者: 土成 謹造

ルール違反かもしれませんが、連載形式にはしたくないので、書きたまり次第、追加していきます。

なお、前編途中で規定の6万字を超えたため、続きはこの「鼠の目2」としてアップしました。


前編URLは http://ncode.syosetu.com/n4350c/ です。



<主な登場人物>


オレ=初老のフリーランス便利屋

オカマのマリー=オカマバーの主人

ケンスケ=オレの助っ人

山下=所轄の刑事

和田さん=事務所の雑用を請け負ってくれているオバサン

和田洋子=和田さんの一人娘

川崎真知子=オレの依頼人

川崎真理子=真知子の妹

徳永高男=波動研究会の会長

後藤=徳永の部下、対外折衝部門の長

宮崎一平=和田洋子のサークル仲間。波動研究会の末端メンバー

長田=波動のメンバー。

滝川順平=靴屋の隠居。川崎徳一の戦友

川崎徳一=本名・李光徳。川崎姉妹の祖父

上島上等兵=滝川、川崎の上官。こすからい古参下士官

「宮崎一平くんだね」

オレは精一杯の笑顔を作って問うた。

さほど美的でなかろうことは、充分、想定している。

おおかた引き攣ったような顔だったろう。

「ええ、そうですが、あなたは?」

「時間があればお茶でも飲みながら話さないか?」

「また、あの件ですか」

宮崎のいう「あの件」とは、多分オレの用件とまったく一緒だろう。

「そう。もう少し聞きたいことがあってね」

「まだあるんですか?もう散々話したじゃないですか。いい加減に勘弁してくれませんか」

「いや、それほど時間はかからない。どうかね?」

「あーもう、仕方ないな。じゃあ、喫茶コーナーにでも行きましょう」

「すまないな、これも仕事だ」

オレは宮崎の後ろに付いて、学生食堂の喫茶コーナーへ向かった。

自動販売機で宮崎に缶コーヒー、オレにはトマトジュースを買い、それぞれの缶を前に、学生食堂の安っぽいテーブルを挟んで座った。

「で、なにをお聞きになりたいんです?」

宮崎は一口缶コーヒーを啜って尋ねた。

「手短にいおう。君は波動研究会に属しているね」

宮崎は無言で頷いた。

「それで、だ。君はサークル内で、和田洋子と波動の件で揉めた。そうだね?」

「そのことは何度も話したじゃないですか」

宮崎は口を尖らせた。

「その後なんだがね、君はそのこと、つまり和田洋子とサークル内で揉めたことを、波動の誰かに話をしたかね?」

宮崎は考え込んだ。

その問いに答えることの利害を推測しているように見えた。

ここは畳み掛けるべきだな。

「いや、君が和田洋子の事件に無関係なことは判っている。ただな、彼女が死んだという事実は動かせない。犯人は挙げなければならない。それはわかるね」

オレは宮崎に返答を促した。

爪を噛んでいた宮崎が、下向きにボソボソと話し始めた。

「ボクは波動でもまだ新人です。活動期間も短いし…。ただ、波動の摂理はみんなに広めたいと思っていま。だから、えーと、ボクに対して、なにくれなく面倒を見てくれる先輩には、えーと、そのう、話を、ちょっとしました。でも、ちょっとだけですよ」

宮崎の返答は苦しげで、途切れ途切れだった。

「だれかね、それは」

「いわなくちゃいけませんか」

オレはトマトジュースを含みつつ、無言で頷いた。

「長田さん、です」

「長田?誰かね、それは」

「よく知りません。ただ…」

「ただ、なんだね?」

「ボクが初めて波動のセミナーに参加したとき、話しかけてきてくれたんです。ボク、ちょっと引っ込み思案なところがあって、人見知りしやすいんです。それを長田さんが察してくれて、皆に溶け込みやすいようにしてくれたんです」

「なるほど。それで?」

オレは次の言葉を促した。

「で、それからは、セミナーの度によくしてくれて、有難いな、って感謝してたんですけど、ちょっと…」

「ちょっと?」

「えーとですねぇ、なんていったらいいのかな、最初の印象とずいぶん変わっちゃったなぁ、って」

「どういうことかね?」

長田の名前を出して弾みがついたようだ。

宮崎は段々、しっかりと喋るようになってきた。

「最初はホントに優しい人だなぁ、と感心していたんです。でも一緒に過ごす時間が長くなってくると、ちょっと違うかなぁ、って。なんてんだろう、こうなんか、剣呑というか、危うさというか、なんかそんなの…」

宮崎は今の若者らしい「雰囲気」や「空気」を表現する形容詞をしきりに使った。

やむをえんな、最近は言葉の訓練がなっちゃいないんだ。

すまねぇが、また説教をさせてもらう。


そもそも人と人とのコミュニケートは言葉だ。

言葉が全てだ。

いかの自らの意志を最適の言葉で、過不足なく伝えるか、これがコミュニケートの本質だ。

であるならば、言葉の取捨選択に細心でなくてはならない。

意志やイメージを伝える言葉を常に磨かなければならない。

逆に言えばこういうことがいえる。

言葉がなってないやつは、ハナから人とコミュニケートする意志がないのだ、と。

だからオレはそういう言葉にいい加減なヤツを信用しない。

いや、コミュニケートする必要を認めない。

なぜなら言葉にいい加減ということは、畢竟、言葉の定義に曖昧であるということだ。

ならばいくらコチラが意を尽くしたところで、それが理解されぬのである。

それこそ、そこで数多の言葉を用いたところで、徒労に終わるであろう。

徒労の果ての物別れじゃ、あまりに不毛だ。

そのくせ英語が必要だ、と。

おかしいんじゃねぇか?

ネイティブな言語で意志が伝えられないのに、英語なら伝えられるのか?

破綻しているな、この英語至上主義は。

そんなに英語が喋りたいなら、アメリカでもイギリスでも永住すりゃいい。

否が応でも英語でコミュニケートさせられるからな。

しかし、こう断言しよう。

日本語でコミュニケートできぬ者が、英語でなら可能などとは思わぬことだ。

バカはどこまでいってもバカという不朽の真理に気付くこったな…。

ああ、すまねぇ、説教が長くなった。

宮崎の話を続けよう。


オレは「ん?」という表情で宮崎一平を見た。

宮崎は、困ったな、とばかりに頭を掻いた。

「具体的にいうと、どういうことかな、それは?」

オレは宮崎の背中を押した。

「えーと、つまりですね、暴力の匂いがし始めたんです。時に表情が一変して、大声で仲間を怒鳴り上げる、とか。特になにかあるとは思えないんです。虫の居所が悪い、というか。それが段々、頻繁になってきてですね、ちょっと近づくと怖いな、という感じかな」

「その長田という男は波動ではなにをやっているのかね?」

「さあ、よく知りません。本部にたいてい居ますね。役割は…えー、ああ、こういえばいいかな、えーと、ナチスってのが戦前ありましたね」

オレは宮崎を見据えて頷いた。

「そのヒトラーの親衛隊、SSといいましたっけ、あんなの。ただ徳永会長はほとんど本部にいませんから、勝手に自分で親衛隊役を演じている、ってとこかな」

「長田は何歳ぐらいの人間なのかね?」

「35、6歳かな。40歳にはなっていないですね」

「独り者?」

「さあ、どうでしょう。知らないです」

「職業は?」

「それも知りません。あ、そうだ…」

宮崎一平は、ポケットからゴソゴソと携帯電話を取り出した。

「写メに長田さんの写っている画像があったと思います」

携帯のボタン上を親指が忙しく動いた。

「あ、ありました。これです」

オレは宮崎の示したディスプレイを体を捻って見入った。

この人です、と宮崎の指差す男が宮崎と並んで立っていた。

確かに、一見すると35歳前後か。

身体つきはかなりがっしりしている。

しかし、なにかこう性格が破綻している危うさを感じさせる。

それがどこなのか、具体的ににはいえぬが、長年の鼠商売で身につけた芸ってやつだ。


ああ、もう説教ついでにこういうことを教えてやろう。

直感は過たない、ということだ。

しかし人間は判断を誤る。

直感通りに動けないことが、日常生活ではゴマンとあるのだ。

たとえば君が外回りの営業マンとしようか。

そこであるお客と対応したとしよう。

それも古くからの会社のお得意さんで、君が初めて任されたところだと考えてくれ。

君はその会社の担当者に引継ぎで名刺交換をする。

それから世間話の二つ三つをテーブル越しにするだろう。

そのときだ。

なんかイヤだな、この人、と思ったら、君のその直感は間違っちゃいない。

その人間は君のスタンダードから外れている。

しかし、だからといって君は席を立てない。

そりゃそうだ、君は君の会社を代表しているのだから。なにしろ相手はお得意さんなのだから。

君はそこで目まぐるしく脳細胞が働くだろう。

ここでお得意さんをしくじるわけにいかない。

上司からもきつくいわれているし。

そうだ、きっとこの人はいい人に違いない。

ボクがそう思うだけで、ホントは気持ちのいいひとなんだ。

少しだけボクが我慢すればいいんだ…。

それから間もなく、君はストレスに潰されるか、あるいは自分自身に蓋をしてひたすら耐えるかの二者択一を迫られるだろう。

まあ、サラリーマンであり続けるためには、耐えなければならない。

いちいち潰れていたんじゃ、サラリーマンにはなれんよ。

しかし、そこで君は悟らなければならない。

この人とは合わない、という直感を、君はサラリーマン人生と引き換えに、いい人に違いない、と判断した。

どうかね?

これ以上判りやすいことはなかろう。

直感は常に正しい。しかし判断が正しいとは限らない。

そういうことだ。

話を戻そう。


その長田という男、少なくとも携帯画面の小さなフレームの中でも凶相なのが見て取れる。

オレは宮崎に直裁に尋ねることにした。

「この長田という男の連絡先は?」

「携帯番号ならわかりますよ。ちょっと待ってください」

宮崎はシャカシャカと忙しく親指を走らせた。

「えーと、いいですか。書くものあります?」

オレはポケットから手帳とシャープペンシルを取り出した。

×××−××××−××××、と宮崎の読み上げる番号をメモした。

「ありがとう。最後に一点だけ尋ねる。なんども聴かれたと思うが、和田洋子が殺される理由に、なにか思い当たることはないかね?」

「ありませんよ、まったく」

宮崎は憮然としていった。

「そうか。ああ、君にまだ名乗っていなかったな。わたしはこういうものだ」

オレはポケットから、名刺入れを取り出し、一枚宮崎に渡した。

宮崎はその名刺を一瞥すると、エッ、警察の方じゃないんですか、と声を上げた。

「そう。しかし、和田洋子と波動には浅からざる因縁がある。君もなにかに困ったら電話をくれたまえ。学割で受けようじゃないか。また会おう」

宮崎が言葉を失ったように名刺とオレを見比べていた。

オレはトマトジュースの空き缶をゴミ箱に放り投げ、そのまま立ち上がって地下鉄へ向かった。


学生連中のぞめき声の中を通り抜け、事務所最寄駅で降り、そのまま和田さんのマンションへ歩き始める。

和田さんの部屋は沈黙が固まっていた。

ドアをノックし、名前を名乗ると、ほどなく扉が開いた。

父親の正義氏が疲れの抜けきれない顔つきで現れた。

「ああ、どうも。いろいろとご心配をおかけしまして…」

正義氏の言葉は語尾が消えてしまっていた。

「いやそんなことはありません。和田さんのご様子は?」

「ま、立ち話もナンですから、とりあえず上がって下さい」

正義氏に促され、オレは奥のリビングに進んだ。

正義氏が慣れぬ手付きで茶を運んできた。

「あ、どうぞお構いなく」

正義氏の無骨な手に、オレはお辞儀をした。

対面に正義氏がゆっくりと腰掛け、重い口を開いて話し始めた。

「今、娘は寝ています。アナタからいただいた、なんといったかな、ああ、ハルシオンでしたね、あれを呑んで。なんといっても一番混乱しているのは娘でしょうから」

「それは、そうでしょう。で、昨夜お帰りになってから、なにかお話になったのですか?」

「ええ、少し。なにしろ、こういうときは女房でもいてくれればと思うのですが、早くに亡くなったものですから…どうにも男親というのは役に立ちません」

「なにを仰いますか。どんな他人より親ほど心強いものはないはずです」

「そうであってくれればいいんですがね。まあ、それはそれとして、娘といろいろと話す中で、これはあなたにお願いするしかない、と思ったことなのですが…」

正義氏がいいにくそうにしていた。

「なんです?わたしにできることなら、協力は惜しみません」

「そうですか。それじゃお話します」

正義氏は区切りをつけるかのように、お茶を一口啜った。

「娘に九州に帰るか、と聞いたんです。ああ、実家は九州の田舎でしてね、そこで心を休めたらどうだ、と勧めたんです。ところが娘はかぶりをふるばかりでしてね、どうやらここを離れたくないようだ。ここで洋子を産み、育て、今までの思い入れがあるのでしょう。わたしもそれを無理に、とはいかない」

オレは黙って聞いていた。

「しかし、わたしもいつまでもここにいるわけにはいかない。それでお願いなんですが…」

今度はオレが茶を啜る番だ。

「娘はアナタのことを信頼しているようだ。事実、事件から今日まで、アナタの力がなくては何もできなかったと思う。娘の信頼通り、アナタにこれからも力になって頂きたい、と」

「といいますと?」

「なんといったら、いいんでしょうか、後見人という言葉が適切なんですかね、まあ、大所高所から娘を今後見守っていただければ有難い、ということでしょうか」

「とんでもない。そりゃ逆ですよ。私のほうが和田さんに指導してもらっているようなもんだ」

正義氏が手で続きを遮った。

「判っています。娘の性格は。でも考えてみてください。勝気で男勝りの娘でも、一人娘を殺されたという事実の前には、あれも単なる弱き女になってしまう」

正義氏の一言にオレは何も言えなくなってしまった。

どうしてこうもオレは気が利かない。

たった一人の娘を惨殺されて、勝気になれる人間がいるか?

ホント、この初老バカ鼠は能書き垂れの説教好きのくせして、なにもわかっちゃいねぇ。

度し難いバカだ。

オレの心の動きを察したかのように、正義氏が続けた。

「とんでもないはねっかえり娘ですが、あれも人の親だった。娘の心持を察していただいて、わたしの目の行き届かない所を、どうかひとつ、支えてやって頂けないでしょうか」

「わかりました。大した力はありませんが、全力で」

オレは正義氏を正面に見ていった。

「ありがとうございます。そういって下さると、わたしも安心です。どうか、くれぐれも…あなたにおすがりするしかないです」

正義氏はテーブルに体を乗り出し、深々と頭を下げた。

親の情愛が切実に見て取れた。

「いや、どうか、頭を上げて下さい。ご存知のように、わたしはフリーランスの、いってみればいかがわしいたつきで暮らしています。たいした力はありません。ただ、和田さんを守る、この一点だけは譲らないつもりです。和田さんには、わたしを叱り飛ばす溌剌とした女性であって欲しい、それだけが願いです」

下げたままの正義氏の肩が震えていた。


ダメだ、こういうシチュエーションは。

剣呑な暴力の匂いの方が、鼠にはまだ相応しい。

とにかくオレは保護本能を揺さぶられていた。

こんなことは初めてだが、やむをえん。

大切な和田さんなんだ、彼女はオレが保護する。

鼠がなにをエラソウに舞い上がっている、とんだ白馬の騎士だな、と嗤いたきゃ嗤え。

でもな、どこかに譲れないルールを持つことは男の矜持だ。

誇り、といってもいいかもしれん。

オレにとっての最低限のルールとは、力なきものを打擲することを許さねぇ、ということだ。

簡単にいえば弱いものイジメはヘドが出るということだ。

力や数にものをいわせる暴力バカ、権威志向者が心底嫌いだ。

女子供に手を挙げるヤツ、少数者を抑圧する某野蛮国、みんなまとめて屑篭に捨てたいと思う。

人は犬畜生よりも上等であると信じたいが、歴史と現実の出鱈目をみると、人間が一番野蛮でどうしようもないクズに見えて仕方がない。

しかもそれを何度も繰り返す。

人が唯一、他の動物より優れている点といえば、歴史に学ぶ智慧があるということではないのか。

であるにも関わらず、有史以来、人は学ぶことを放棄してきた、と断罪したくなるね…。

フウッ、説教癖がとまらねぇな。


オレは正義氏の手をとり、頭を上げて下さい、と再び告げた。

そのときだ。

奥の部屋から和田さんが現れた。

化粧っ気のない蒼ざめた顔ではあったが、髪をキチンと束ね、正確な足取りだった。

「おや、起きてきたのか」

正義氏が足音に気付き、振り向いていった。

「いろいろとご迷惑をおかけしました。ありがとうございました」

和田さんはオレに向かって深々とお辞儀をした。

「いや、そんなことはどうでもいいんだが、起きても大丈夫なのか?」

「ええ。昨日は自分が自分じゃないような混乱でしたけど、今は眠ったことで少し…。すっかり、とはいえませんが、昨日ほどじゃありません」

和田さんの声は小さいながら、凛とした響きがあった。

「そう。少し良くなってくれただけでも心強い」

「父がどういう話をしたか知りませんが、二、三日気持ちを整理したら、また事務所の手伝いに参ります」

「無理はしないほうがいい。掃除、洗濯くらい自分でもできる」

「下着やワイシャツのストックもなくなったでしょ?」

「なに、新しいのを買えばいいだけさ」

「それが勿体ない。無駄遣いは…あら、わたし叱ってる…」

オレは素直に嬉しかった。和田さんはこうでなくちゃいけないのだ。

「無理のない程度でいい。ワタシも和田さんに来ていただけると有難い」

「そうします。父さん、いいわよね?」

和田さんが正義氏に同意を求めた。

正義氏は何度も首を振り、頷いた。


くれぐれも無理はしないでくれ、と念を押し、オレは和田さんの部屋を辞した。

今、オレが手伝って上げられることはなにもない。

なすべきはオレが犯人を見つけ出すことと、和田さんが自力で悲しみを克服することだ。

仮になにかを手伝おうとしても、和田さんは拒否するだろう。

そこには成熟した女の姿がある。

独立不羈の凛とした姿勢だ。

なまじな男じゃ敵うまい。


さて、今度はオレだ。

山下刑事には悪いが、抜け駆けをする。

まずは長田に会うことだ。

手繰れる糸は少ない。

ならば一本ずつ手繰り寄せなくちゃなるまい。

とにかく動いてみることだ。

でなきゃなにも始まらない。

強引に渦を巻けば、なにかが中心に引き込まれるはずだ。

和田さんになにもできないんじゃ、後生が悪い。

通りに出てタクシーを捉まえる。

行き先は波動の本部だ。

車中、煙草を吸いたいのを我慢した。

二十分ほどで波動本部の入ったマンション前についた。

金を払ってタクシーを降りると、オレはハイライトと携帯灰皿を取り出した。

相変わらず静かな一画だ。

とてもここに波動の本部があるとは思えぬほどの平和ぶりだ。

オレは大きく紫煙を吸い込むと、携帯灰皿でハイライトを潰した。

正面エントランスから堂々とインターフォンを押す。

マヨネーズ顔の後藤も、今回からはガチャガチャいわずに会うだろう。

誼も通じているはずだ。

多少、強引じゃあったがね。

ほどなくインターフォンが答えた。

オレは名を名乗り、後藤がいるかどうか尋ねた。

後藤を呼ぶ声が遠くで交わされている。

雑音のようなシャカシャカ音がしばらく続いたあと、後藤の声がした。

「またですか。なんなんですか、今日は」

「結構な挨拶、恐縮だ。単刀直入にいおう。長田という男はいるか?」

「長田?彼がどうかしたんですか?」

「いや。どうかわからん。ただ会ってみたいのだ」

「今日は…そういえば見かけないな。いないですね」

なぜか長閑な声で後藤は答えた。

切迫感が感じられない。

どうやら実際にいないのだろう。

無駄足は鼠商売の必須だ。

こういうことはゴマンとある。

その判断をいかに下すか、それが智慧だ。

「そうか。では仕方がないな。ところで後藤さん、なにか変わったことはないかね」

「あったとしてもアナタにいう必要は認めない」

「なるほど。それは正しいジャッジかもしれん」

「大きなお世話です」

「また来る」

「来ないでくれ。虫唾が走る」

「はは。そう嫌うな。来るときは優しく迎えてくれ。オレは…」

話の途中でインターフォンは叩き付けられたようだった。外人なら大仰に肩を竦めるな。

オレは踵を返し、最寄私鉄駅に向かった。



私鉄駅近くのウドン屋で遅い昼食を取る。

かけうどんに稲荷寿司。

やはりウドンは関西風が断然うまい。

鉄漿ドブに浮かんだような関東風ウドンは願い下げだ。

蕎麦は…やはり東京がうまい。

悔しいが、事実だ。

遊び、食い物、いずれも関西が上だと思うが、蕎麦に天麩羅、それと鰻だけは関東がうまい。グルメ談義はガラじゃないが、同じ銭を払うなら、うまいほうがよかろう。

まあ、腹が減ってりゃナンでもうまいのだがな。

昼食時を過ぎたウドン屋は静かで、平和なもんだ。

品のよさそうな老婆がウドンを静かに啜っている。

箸の持ち方も見事だ。

背筋がピンと伸びて、見ていて清々しい。

ものを食べるという行為は、どうしてもその人間の品性があからさまに出る。

ときにいい年こいたオッサンがだらしのない格好で飯を食ってるが、あれは実に見苦しい。

握り箸、肘をついて犬食い。

お里が知れる。

それでちゃんとガキを躾られるのかね。

そんな格好でものの美味い、不味いとかいうんじゃねぇよ。

しっかりしろや、初老諸君。


最後の茶を啜り、さて出るか、と立ち上がりかけたとき、大声でぞめく男が入ってきた。

おばちゃん、カツ丼、とその男は怒鳴るようにいった。

うるさいヤツだな、と視線を送った。

ピン、と直感がアラートを鳴らした。

ヤツだ。

長田に間違いない。

宮崎一平の携帯で見せてもらった画像そのままだ。

長田は快活なように振舞っても、どこかおぞましい破綻した神経を窺わせる。

豪放磊落と酷薄残忍を取り違えている雰囲気。

これは鼠でなくてもわかる。

生来的に暴力のみに依拠するものが持つ、妙に熱い空気。

血腥さが神経を昂らさせているのだろう。

オレは爪楊枝を取り出し、歯間をほじる振りをして長田を観察し続けた。

運ばれてきたカツ丼を、長田はこれ以上なく下品に食った。

握り箸、肘つき、犬食い。

時々あける大口には汚い乱杭歯が覗いていた。

大方、口臭もひどいはずだ。

オレの直感は若い女性をいたぶることになんら痛痒を感じぬ最低の男だ、と警告を発していた。

ただ、オレはなにもつかんでいない。

見掛けが最低だとしても、それが和田洋子殺害とはまったくリンクしない。

今は黙って見ているしかない。

するとオレの視線に気付いたのだろう、長田はオレをねめつけるような視線を返してきた。

「オッサン、なにメンチ切っとんじゃ」

凄むために無理矢理関西弁を使っている。

誇大妄想狂の夜郎自大だな、こいつは。

「すまんな。うまそうに食うなと感心していたのさ」

「そうか。オレはなんでも豪快にするのが好きだからな。ぐははははは」

乱杭歯を剥き出して、顔を凄惨に歪ませた。

これで笑っているつもりなのだろう。

オレは寒気を覚えた。

オレは最後の茶を啜ると立ち上がり、勘定を済ませた。

そうして振り返りもせず、ウドン屋の暖簾を掻き分けた。

長田の狂相は目に焼きついた。

もう、何処で会っても長田とわかる。

それほど印象の荒んだ男だ。

ただそれはオレ程度には人を峻別する嗅覚が必要だ。

エラソウにいうが、オレはこの能力を獲得するために半端でない時間と金と暴力を経験した。

ちょっと見には当たり前の顔した長田の奥底に、徹底した無慈悲があることを嗅ぎ分けられるからこそ、鼠商売が成り立つんだ。

いいかね、諸君。

時間と金と経験から、何らかの法則を見つけ出す努力を惜しんじゃいかん。

でなけりゃ生きてはいけん。

無論、説教なんざできんのだよ。

オレは足早に駅に進むと、私鉄に乗り込み、事務所へ戻った。



事務所の留守番電話に依頼人の川崎真知子からメッセージが入っていた。

クッソー、まずいな、あれからなんにも進展しちゃいねぇんだ。

オレは暗澹たる思いでメッセージ再生ボタンを押した。

「依頼の件ですが、進捗状況はどうですか?もしなにかあったら連絡下さい。あ、いや、そうだ、わたしの携帯に連絡いただけませんか。お話もしたいし。携帯番号は…」

オレは川崎真知子の読み上げる11桁の番号を控えた。

ハイライトを一本吸い終わって、川崎真知子の携帯番号をプッシュした。

二回めのコール音で川崎真知子がでた。

「探偵さんですわね」

「よくわかるな」

「馬鹿なことを仰らないで。今日日、発信元の表示されない携帯電話なんてなくってよ」

「ああ、そうか。そうだったな」

なんと頓珍漢なことをこき倒しているんだ、このオレは。まったくイヤんなるぜ。

「で、なにか吉報がございましたの?」

「それがないのだ」

「まったく?」

「そうだ」

沈黙が流れた。

「今晩、お時間あります?」

川崎真知子が唐突に尋ねてきた。

「夜は基本的にバータイムと決めている」

「あら、そう。じゃ、そのバータイムにお誘いいただけないかしら?」

「おや、話したところでなにもないぜ」

「構いませんわ。探偵さんのナイトライフも興味ありますし。どんなバーがご贔屓なのか、それだけでも面白そう」

「若い女性が来るような店は知らないんだがな」

「殿方専用のお店かしら?」

「バカな。瘋癲と鼠ばかりが出入りしている店だ」

「面白そうなお店なのね」

正直にいうと、オレはちょいと心が弾んだ。

スレッカラシの初老鼠でも若い別嬪さんは大好きだ。

小汚いオッサン同士で飲むより、うんと華があっていい。

「ああ、わかった。オレはたいていマリーという店にいる。オカマのやっているバーだ。場所は、エート…」

大体の場所と電話番号を教えた。

川崎真知子は、わかりました、といって電話を切った。

本当に来るのかね?

まぁ、釣られてみるのも悪くなかろう。

オレはそれまでの時間、溜まったデスクワークと細々した連絡に追われた。

まったく、和田さんがいないと、こうも大変なのか。

オレは再度、和田さんの復帰の早からんことを願った。

電話をかけ、メールを書き、請求書の処理にヘトヘトになる頃には陽はとっぷりと暮れていた。

デスク周りにはハイライトの灰が飛び散り、ゴミ箱はクソのようなダイレクトメールや紙屑で一杯になった。

うず高く積もった灰皿では、喫い差しがブスブスと燻っていた。

オレは水をかけて煙を押さえ、そのままレジ袋に捨てた。


やめ。

やめだ。

もういい。

一段落したはずだ。

もし残っていても思い出せないし、これ以上やる気はない。

第一、この時点まで思い出せないことは大したことじゃない。


さて、晩飯にしよう。

まだこんな時間じゃマリーの店が開いているわけがない。

オレはシャワーを浴び、着替えを済ませた。

ジーンズにポロシャツ、スィングトップにワークブーツ。

はは、四十年前の横須賀スタイルだな。

流行らねぇ格好だが、初老がジジ臭いナリをするよりマシだろう。

オレは事務所の鍵を締め、外へ出た。

行き先は全国チェーンの居酒屋。

そう、宮崎一平のアルバイト先だ。

特に話したいことがあるわけじゃないが、見ることで何かを掴めることもあるだろう、という程度の動機だ。

居酒屋までは歩いて十五分といったところか。

ブラブラ歩いてりゃ、どってことない距離だ。

ハイライトに火を点け、機関車状態で歩く。

無論、携帯灰皿はお約束だ。

ポイ捨てはNGくらいわかってる。

一人を慎む、は大人の大切な教養だからな。


若者の蝟集する喧騒な一画にその店はあった。

有象無象の若者がたむろし、嬌声をあげている。

金髪、茶髪、メッシュ…。

和朝あるべき黒髪は…ない。

タトゥーあり、ボロ着のようなジーンズあり、歌舞伎役者も霞むようなド派出メイクあり、なんでもありだ。

まぁ、若造の勘違いは歳を経れば自分でもわかる。

オレだって二十歳の頃は錯覚と自意識過剰で生きていた。

それが若造の若造たる所以なのだ。

当時のオレたちはカウンターカルチャーまっ盛りの頃だった。

政治的スローガンとともに「三十歳以上の連中を信じるな」とタワゴトを吐いていた。

そして三十歳を過ぎると、そのスローガンの空疎ぶりに呆れたね。

その檄を飛ばしたヤツはなんにもわかっちゃいねぇ、ということだ。


残念ながら世の中はコンサバティブにできている。

歴史は一気に駆け抜けはしないのだ。

大陸がミリ単位で動くのと同様、ほとんど可視できぬ速度でしか変化しない。

社会を貫く幹は不動不壊、そよりそよりと枝葉が揺れるだけなのだ。

その枝葉に右顧左眄し、アタフタしてしまうのが人間だ。

だってそうだろう?

生物の進化が百年単位で変わるかね?

変わることに気付けるわけがないのだ。

それこそ気の遠くなるような時間が必要なのだよ。

この若造どもの乱痴気騒ぎとて、オレたちが「政治の世代」として駆け抜けた時代の空気の揺らぎと、本質はなんら変わらない。

それをエラソウにいうから「最近の若造は…」となる。

ちゃんちゃらおかしいぜ。

オレたちと彼らの間には、なんの違いもない。

いかなる世代であっても、若造には錯覚と自意識過剰、これがあるだけだ。

と、これは説教だ。


本論に戻ろう。

宮崎一平がアルバイトをしている居酒屋チェーン店は、雑居ビルの二階にあった。

階段を足早に上がると、自動ドアが開いた。

いらっしゃいませー、と必要以上に大きい挨拶が飛んできた。

まあ、なんにもできねぇなら、せめて大きな挨拶をするぐらいはいいだろう。

いかにも女子大生のバイトといった風情のネェチャンが、お一人ですか?と尋ねる。

ああそう、と答えると、カウンターでよろしかったですか、と聞いてきた。

「よろしかったですか?」でなく「よろしいでしょうか?」だろうが、と説教を垂れたいところを我慢した。


カウンターに尻を預け、ビールと適当に食い物を頼んだ。

ハイライトに火を点け、周りを見渡す。

テーブル席では茶髪のニイチャンやネェチャンたちに混じってオッサンたちがトグロを巻いている。

なんたってこの手の店は安いのだ。

サラリーマンにとっちゃオアシスみたいなもんで、こういうった席で怪気炎を上げる彼らの気持ちは痛いほどわかる。

オレもフリーランスになる前はサラリーマンだった。

五年ほどで見切りをつけ、瘋癲生活をしばらく続けた後、鼠商売を始めた。

フリーランスがいいのか、サラリーマンがいいのか、それはわからない。

正確にいえば、どちらの選択も正しいのだ。

自分で決めたことなら、それに従えばいい。

前に言ったよな、直感は過たない、と。

それだよ、それ。


運ばれてきたビールをコップに注ぎ込む。

よく冷えている。

よろしい。

コップも清潔で泡も見事だ。

グッと体ごと倒しこむと、乾いた喉を細かい泡が刺激して通過していく。

キュンと喉が収縮するのがわかる。


フーッ、うまい。

日本のビールは実にうまい。

キリンでもアサヒでもいいじゃないか。

無論、サッポロでもサントリーでもいい。

厳しい競争が品質を決定的に向上させるという、経済学の見本だ。


ホッケの干物をつついていると、カウンター突き当りのノレンの奥に宮崎がチラリと見えた。

どうやら厨房で働いているようだ。

宮崎に料理の心得があるとは思えぬから、大方、厨房の追い回しををやらされているのだろう。

ビールを飲み干し、日本酒に変える頃、なにか用があったのか宮崎がフラリとカウンターに出てきた。

オレは、軽く手を挙げて存在を知らせた。

宮崎に一瞬、ハッとした表情が見えた。

ツカツカとオレの前に宮崎が進んできた。

厳しい顔だ。

いいぞ、宮崎君。

労働の顔はそうでなきゃいかん。

「なんなんですか、ここまで。いい加減にして下さい」

「これはまた突慳貪なご挨拶だな。まあ、そう尖るな」

「うんざりですよ、もう」

「宮崎君。誤解してもらっちゃ困る。オレはこの店の客だ。君に用があって来たわけじゃない。君をここに呼びつけたわけでもない。静かに飲んでいるだけだ」

オレは諭すようにいった。

「でも…」

「いいかね、宮崎君。客に口答えはするもんじゃない。客を見たらカボチャが現金を持って来たとういうぐらいに考えておけばいい」

宮崎は黙り込んだ。

「といったところで、それは屁理屈だ、と思うだろう。その通りだ。単に飲みに来たわけじゃない。和田洋子の件で、なにか判りはせぬかと覗きに来た。君の働いているところを確かめてみよう、どうせ飲むならそれもよかろうというスケベ心だな」

宮崎がオレを睨みつけた。

「なにかそれで判るんですか」

「いや、なにも。オレは警察じゃないんでな、勘で動くしかない。しかしな、この勘というのがバカにできん」

「そうですか。とにかくもう付き纏わないで下さい。あ、お酒入ってますか、お客様?」

いいぞ、そういう切返しがいいのだ。

「おう、ちょうど空だな。新しいのをもらおう」

オレは銚子を確かめていった。

「熱燗ですね」

「宮崎君。もうひとつ教えてやろう。燗酒イコール熱燗というのは酒音痴のいいぐさだ。熱燗は安酒を誤魔化す手段なのだよ。それとも君の店では安酒しか置いてないのかね?」

オレは挑発した。

「わかりました。ぬるく燗をして持って参ります」

憮然として宮崎は奥の厨房に入って行った。

仏頂面で宮崎が運んできた燗酒を、オレはゆっくりと呑んだ。

干物を突つき、豆腐を崩し、それから二本酒を呑み終え、オレは立ち上がった。

奥の宮崎に声をかけた。

「帰る。勘定してくれ」

伝票を手渡されたとき、オレは宮崎にいった。

「長田に会ったよ」

「どこでです?」

「うどん屋で」

「うどん屋、どういうこと?」

「すれ違っただけさ。しかしすぐにわかった」

それには答えず、宮崎は、有難うございました、とお辞儀をした。

居酒屋の出口から階段を降りる時、ガヤガヤと騒がしく上がってくる一団と擦れ違った。

その中の一人がまごうことなく長田であることがわかった。

オレは胸苦しさを憶えた。



長田の吐く瘴気にムカつきながら、オレはオカマのマリーの店へ歩を進めた。

ああいう下卑なヤツと酒を呑むというのは、どういう神経なのだろう。

確かに、宮崎が長田の最初の印象を、優しい人、と評価していた。

そこで騙されるのだろう。

早晩、宮崎も看破したように、人間性のかけらもない最低として馬脚を現すのであろうが…。

二本目のハイライトを携帯灰皿に捻じ込むころ、オレはマリーの店に到着した。

店に入るなり、オレはビールを注文した。

なにかこう、ガーッと呷るものが欲しい、そういう心持だった。


あら、ずいぶん不機嫌なのね、とビールを出しながらオカマのマリーがいう。

仏頂面はいつものことさ、とオレ。

こぼれんばかりにビールをコップに注ぎこむと、オレは体ごと倒してビールを呷った。

あんまり褒められた飲み方じゃないことはわかっている。

ムカついて飲む酒は決して美味くないし、悪酔いする。

ヤケ酒ほどバカな飲み方はないのだ。

泡立つ液体が喉を通過し、口に上がって来た炭酸をベフッと出すと、やっと落ち着く気分がしてきた。

やはり屈託は癒すには酒精が一番だ。

前言を撤回する。

ビールを空け、バーボンに移る頃にはすっかりリラックスしてきた。まったくバカ鼠そのままだな。

心を伸び伸びさせていると、ウィーッス、という声とともにケンスケが現れた。

いつもながらブキブキした筋っぽい身体つきがしなやかだ。

「おや、鼠の旦那じゃござんせんか、お久しぶりで」

ずいぶんおどけた調子でケンスケがいった。

「なにがお久しぶりなもんか。先日の荒事以来じゃないか。しかし、なんで今日はそんなにファンキーなんだ?」

「予感がするんだ」

「予感?なんだい、そりゃ?」

「あのなオッサン。オレが外人部隊で学んだことで一番大切なことはな、感覚を研ぎ澄ませておくことなんだ。そうでなきゃ殺られる。勘の悪いヤツはそのまま死ぬんだ。予感も同じさ」

ケンスケの座ったカウンターに、オカマのマリーが烏龍茶のグラスを差し出した。

それを受け取るとケンスケは茶色の液体を少し舐めた。

「どういうことだ?」

「なに簡単なことだ。現場じゃ体の周りをビュンビュン弾丸が飛び回る。気が付いて避けようなんてできっこない。弾丸に当たりたくなけりゃ、弾丸が飛んでこないところへいち早く移動するしかないんだ。その場所を見つけ出すのはな、結局、感覚なんだ。まあ、修羅場を何度もくぐり抜けりゃ、おのずと身につくがね」

そういうとケンスケはメンソール煙草に火を点けた。

「なるほど。じゃあ、ケンスケの予感としてはファンキーなことが起こりそうだ、ってことかい」

「そう。予感はそういっている」

そのときだった。店のドアがゆっくりと開き、川崎真知子が現れた。

彼女はオレを見つけると、軽く会釈をして近づいてきた。

「お邪魔してごめんなさい」

川崎真知子は莞爾と微笑んだ。

見事な、実に見事な笑顔だった。

「鼠ちゃんのお知り合いなの?美しい方ね。惚れ惚れするわ」

オカマのマリーも呆けたようにいった。

「ほほっ、ビンゴ!予感は当たるぜ」

ケンスケが素っ頓狂な声をあげた。

こいつもこういうところがあったのかね。

大方、川崎真知子の度外れた美しさに仰天したのだろうが。

「まさに掃き溜めに鶴ってとこか。まぁ、座らないか」

オレがカウンターの席を勧めると、オレとケンスケの間になんの衒いもなく、自然に腰をおろした。

自然な振舞いが爽やかだ。

妙に照れたような、あるいは露悪的なところがまったくない。

素直にサーブを当たり前に受ける、そういう品位の高さが溢れていた。

「なんになさいます?」

オカマのマリーが畏まって尋ねた。

チェッ、オレたちへの扱いと全然口調がちがうじゃないか。

「じゃ、探偵さんと同じバーボンをソーダで割ってください」

いいねぇ。

さりげなく酒をオーダーできる歪みのない率直な女っぷりがいい。

「なんに乾杯すればよろしいかしら」

川崎真知子がいった。

「乾杯できるほど成果はなにもないんだがな…。まぁ、ようこそ、鼠の巣へ、と参るか」

オレはグラスを上げ、目線で乾杯した。

じゃ、オレもだな、とケンスケも烏龍茶を持ち上げた。

オレも一口バーボンを啜って、グラスを置いた。

ケンスケとマリーを川崎真知子に紹介した。

彼女は如才なく答え、会話が弾んだ。

現状、成果らしきものはまったくないのだが、彼女の素直な明るさに救われる思いがする。

だってそうだろう、こっちはまだなにも掴んじゃいないのだ。

わかりやすく喩えるなら、納期間近になっているにも拘らず、発注主がにこやかに対応してくれているんだ。

むしろ恐縮するぜ。

オレはあることを思いついた。

「長田という男をご存じないかね?」

「長田?ありきたりの名前なのね。知っているかもしれないし、さぁ、どうかしら」

オレは長田の特徴を口頭で述べた。

真知子は少し考え込んだ。

「その方って、いくら綺麗な格好をなさっても、不潔感が拭えない感じの方じゃないの?失敬な言い方で申し訳ないですが」

「ああ、体中が瘴気に覆われたような男だ。付き合うなんざ、金輪際願い下げという印象だ」

ちょっと待っててくれ、とオレはいい、携帯電話を手に店の外に出た。

宮崎一平の携帯に電話した。

宮崎は4回目のコールで出た。

オレの名前を名乗ると、すぐに不機嫌な声になった。

「すまない。これが最後の頼みだ。オレの名刺、まだ持ってるか?」

「ええ、持ってますよ」

「そこにオレの携帯アドレスが書いてある。そのアドレスに長田の画像を送ってくれないか。いや、そこにいる長田を撮影して送ってくれてもいい」

「なぜ長田さんがいるのを知ってんですか?」

「帰るときに擦れ違った。印象深い男だからな、一度見ればわかる」

「ホントにこれが最後ですよ。もう付き纏わないと約束できますか?」

「約束しよう」

「わかりました。本当に最後ですからね。写メの画像を転送します。くどいようですが、最後ですよ」

「わかった。送ってくれ」

携帯が切れた。

ほどなく携帯電話がブルブルと震え、宮崎からのメール着信を知らせてきた。

受信を確認し、オレは店に戻った。

「すまないが、この画像を見てくれないか。キミの思っている長田とは、この男かね」

オレの差し出す携帯を川崎真知子が覗き込んだ。

「ああ、この人です。ちょっとゾッとしない印象の方ですよね」

「この男、つまり長田をどこで見たんだ?とてもあなたの友人に相応しいとは思えんが」

「妹の真理子と一緒にいました。波動に出奔する直前だったら、ちょうど半年くらい前かしら。自宅の玄関前でした。帰宅したときに妹がその方と話をしていました」

「なにを話していたんだ?」

「さあ、内容まではちょっと…。ただ妹が困ったような顔をしていたので、どうかしたの、と声をかけたんです。そしたら…」

「そしたら?」

「ゴニョゴニョとなにかを口走ったかと思うと、そのまま引き返されましたわ。ただ、ひどく荒んだ印象の方だったんで、顔は憶えています」

「妹さんはなにかいっていたのか?」

「まったく。その頃から、家族にもほとんど口をきかなくなっていましたし」

少なくとも依頼主の妹である川崎真理子と接点があることだけはハッキリした。

しかしそれが和田洋子殺害とどう関係するのか、それはまったく闇の中だ。

無論、犯人も動機もなにもわかっちゃいない。

今、とにかくわかっていることは、川崎真理子と長田に面識があること、和田洋子が殺害されたこと、それに繋ぐキーワードが波動であるということだけだ。

端的にいえば、まだなにもかにも藪の中。

渺々たるものだ。

「その方がなにか妹と関係があるの?」

オレの堂々巡りを遮るように、川崎真知子が尋ねた。

「あ、いや。まだ、なにも。ただいろんなことが起きている、いや、起きつつある気がしてならん」

「どういうことかしら?」

オレはかいつまんで、これまでの経緯を川崎真知子に話した。

時々、ケンスケやオカマのマリーの手伝い借りながら、だが。

時に説明が面倒になると、はしょる癖があるんだ、オレにはな。

川崎真知子は黙って聞いていた。


一通り説明し終わると、ドッと疲れが出た。

話すことはたくさんあっても、それが成果に結びつく内容ではないのだ。

延々と言い訳を述べているようで、不毛な疲れを感じる。

考えをまとめようにも、ジグソーパズルの欠品が多すぎる。

なにかがある、ということしかわからん。

鼠のザル頭には手に余る。

やむをえない。

今は飲むしかない。

なにがやむをえんのかワカランが…。

会話が和やかに進む。

川崎真知子の如才なさに驚く。

座談の上手さ、人を対する気働き、どれもこれも敵わない。

まったく川崎真知子といい、和田さんといい、女に男は敵わないということをテキメンに思い知らされる。


オレが三杯目のバーボンを啜り終えると、川崎真知子が、それじゃそろそろ、といった。

ケンスケもマリーも名残惜しそうな顔をした。

彼らも間違いなく気分が良かったはずだ。

送ろうか、とオレが問うたが、大丈夫です、真知子は答えた。

真知子はピンと背筋を伸ばし、流れるような姿勢でマリーの店のドアを押して出て行った。

彼女が出て行ったあと、脱力感のような空白が漂った。

それほど彼女の存在が大きかったのだろう。

「素敵な方だったわねぇ…」

オカマのマリーが溜息をついた。

「そうだね。驚いたよ。鼠の旦那にあんな知り合いがいたなんてさ」

ケンスケも頌辞を惜しまなかった。

「知り合いというのは正確じゃないな。正しく言えば依頼人だ」

「どっちでもいいさ。話のできる間なら知り合いだ。酒を一緒に飲むくらいインティメットなんだろ?」

「いや。インティメットはいいすぎだ。今日のは…打ち合わせ、ってところだな」

「照れるなんざ、あんたらしくないな」

「照れてるか?」

「そう見える。オレだって彼女とならインティメットになりたい。マリーもそう思うだろ?」

ケンスケがマリーに同意を求めた。

「そうねぇ…。女から見ても惚れ惚れするわね」

「ほうっ。オカマも女の仲間入りかい」

オレの茶々に、マリーとケンスケも笑った。

腕時計のカレンダーはすでに翌日の日付に変わっていた。


翌朝も二日酔いではなかった。

次から次になすべきことができてくると、深酒をしているヒマがなくなる。

小人閑居して不善をなす、とはこのことだな。

牛乳、それに梅干と焙じ茶で朝飯もどきを済ませると、シャワーを浴び、すべてを着替えた。酒精の抜けた頭だと気分も満更ではない。

ざっと新聞に目を通す。

和田洋子の続報はない。

どの新聞にも一行たりとも書いていない。

仕方なかろう。

あまりに多すぎる。

人が一人殺されたった、世間の耳目を集めるほどの出来事ではなくなっているのだ。

荒廃、という言葉が頭をよぎった。

しかしそれでも時世時節は流れていく。

この世の形はオレたちが取捨選択した結果なのだと思えば、悲憤慷慨したところでなにも変わりゃしねえ。

新聞を畳み、そそくさと事務所を出る。

和田さんのところを覗いておこうと思ったのだ。

オレは和田さんのマンションに向かって歩き始めた。

どんより曇った空だった。

もうすぐ雨模様になるかもしれん。

大通りに出て、最初の角を曲がると、なんだか妙な気分がする。

蟻走感、といったらいいか。

痒いとか、痛いとかじゃない。

なにかこう背中に違和感がある。

オレは後ろを振り向いた。

なにもない。いつもの朝の風景。

サラリーマンが足早にオフィスに向かい、女子高生が際限のないオシャベリをしながら歩いている。

気のせいかな、そう思い込むことで違和感を振り払った。

次の信号を渡ろうとする時、また妙な圧を感じる。

見られている、直感がそう囁いた。

これがケンスケのいう「予感」か。

オレは信号に面して建つビルのショーウィンドウをチラっと見た。

背後に何かが走った。

影?

違う、人だ。

しかもおぞましい瘴気がする。

直感がアラートを鳴らし始めた。

少し先にビルのへこみがある。

しかも後方の確認しやすい反射ガラスが張ってある。

オレはぎこちなくならぬよう、つとめて自然に歩こうとしていた。

へこみに足がかかった瞬間、オレは倒れこむようにへこみに体をまぎれさせた。

そのまま後方を確認した。

そして後方の姿は反射ガラスでも確認できた。

長田。

見られてはマズイとヤツも思ったのだろう、長田は瞬間的に後ろを振り返り、そのままビルのエントランスに身を潜めさせた。

そうはいっても長田の瘴気は消せない。

ヤツは身を潜めたと思っているのだろうが、今の一瞬ですべてを了解できた。

オレは知らぬ顔を決め込むと、また通りに戻った。

和田さんのマンションまで、あとは振り返りもしなかった。

ただ、反射ガラスに映る長田の姿はときどき確認できた。

ケンスケに教えてやれば大笑いするだろう。

オッサン、かくれんぼやってんじゃないんだぜ、と。

確かにこのオレでさえ気付いてしまう尾行なんざ、尾行のうちに入るまい。

和田さんのマンションのインターフォンを鳴らした。

和田さん本人が出た。

ほどなくドアが開き、和田さんの顔が現れた。

昨日と違い、唇に朱がさしてある。

いいぞ、和田さん。

そうでなくっちゃいけない。

以前からほとんど化粧をしない女性だったが、今回はさすがに顔色が蒼白だった。

それを補う意味でも彼女には化粧をして欲しい、そう願わずにはいられない。

上がりこんでお茶をいただく。

同じ番茶でも彼女が淹れてくれると、どこかおいしく感じる。

彼女の人徳、だな。

父上の正義氏は外出しているという。

「で、気分はどうなの?野暮な質問で恐縮だが…」

「こちらこそご心配をおかけして…。少しずつですが、段々と…。父もまだおりますし、心強くやっています」

「そう。なにかあったら、いつでもいってくれ。役に立てればうれしい」

「あの、来週からでも事務所にあがるつもりです」

和田さんがキッパリとした口調でいった。

「大丈夫か?無理はしてほしくないんだがな」

「いえ、そんな。わたしの性格はご存知だと思いますが、むしろ今は身体を動かすことで忘れたいんです。じっとしていたらあの子のことばかりが思い出されてなりません。そうすると果てしない落ち込みのスパイラルに入ってしまいそうで、余計に悪くなりそう。ですから事務所にお邪魔するのは、わたしにとってお薬みたいなものかもしれません」

「なるほどね。和田さんらしいな。じゃあ、できる範囲で結構。無理でなければ、フルタイムでお願いしたいと思っている。大して給料を払えるわけじゃないが、あなたが事務所を見てくれれば、これほど心強いことはない。ただ、えー、ガミガミ叱られるのは勘弁していただきたいが」

和田さんは下をむいて小さく笑った。

「事務所は散らかっているんでしょうね」

「キレイとはいいがたいな」

「ワイシャツや下着は?」

「まとめ買いしたが、それでもストックが少なくなった」

「また叱らないといけませんね」

「それは手短に頼む」

お互いに微笑した。


ところで、と話を折り、オレは携帯をかざした。

宮崎一平から転送された長田の画像を見せるためだ。

「この男に見覚えはないか?」

テーブル越しに和田さんが携帯を覗き込む。

オレはそのまま携帯を彼女に手渡した。

彼女はしばらく画面を眺めていた。

「見たことありませんね。でも、なんだか薄気味の悪い人ね」

「そう。蛇蝎のような男だ」

「で、この方がなにか?」

「いや、まだなにもわかっていない。今、オレがやっていること、つまり娘さんの一件も含まれるのだが、それを辿る線に浮かんでいるのがコイツだ」

「犯人、なの?」

「わからない。ただオレの勘ではこの線を追えば、なにかが浮かび上がってくる予感がする」

「この方が犯人なら、わたしが殺します」

「馬鹿なこといっちゃいけない」

「なぜ?娘を殺されても、犯人には拱手傍観していればいいということ?」

和田さんが気色ばんだ。

「あ、いや、そういうつもりではないんだが…」

オレは核心をつかれてヘドモドする木っ端役人風になってしまった。

当たり前のことに気付けよ、この大バカ鼠がっ!

人は神じゃない。

罪を憎んで人を憎まずなんてな、殺すことも殺されることもない安全地帯の人間の言い草だ。

暴力は憎悪とさらに輪をかけた憎悪しか生まぬ。

憎悪は拡大循環しかせぬのだ。

最後の最後まで徹底殲滅せぬかぎり、人の憎悪はやまぬのだ。

「とにかく、まだ藪の中なんだ。軽率な行動は慎んでくれ。それに…」

オレはいい淀んでしまった。

「それに、なんです?」

「あー、えーと、つまりな、注意して欲しいんだ、和田さんには。現に、オレはこの長田に尾行されている」

「尾行?あなたを、なの?」

「ああ。とてつもなくヘタクソな尾行だがね。それでもヤツは妙に冴えた印象がある。粗暴なくせに計算づくという感じだな。単に暴力嗜好のチンピラより始末が悪いように思える」

「そう…。精々、注意します。でもね、彼であれ誰であれ、わたしは犯人を赦す気持ちはサラサラありません。この手できっと殺します。倫理として神様が赦してくれなくても、洋子と私自身がそれを赦します」

オレはなにもいえず、火の点いていないハイライトを唇で上下させるしかなかった。

「長田ってまだその辺にいるのかしら?」

沈黙を破って和田さんがいった。

和田さんはツト立ち上がり、ベランダへ立った。

オレはそのあとに続いた。

彼女の後には、清潔な石鹸の匂いがした。

特に変わったことはないみたいね、と彼女は目を眇めながらいった。

確かに、ベランダの向こうには平和な風景が広がっている。

長田が犯人であるかないか、それは捨象するとして、とても何日か前に殺人事件があったとは思えない。

オレは無意識に和田さんの肩を抱いた。

彼女はゆっくりとオレを振り向いた。

「くれぐれも気をつけてくれ。荒事はオレに任せるんだ。初老のヘッポコだが、荒事に慣れちゃいる。それになにより、和田さんはオレにとって大切な人だ。大切な人を守る、それは陳腐だが、オレの最低のルールだ」

「そう。ありがとう」

オレを見上げる彼女の目が眩しかった。


もう一杯お茶をいただき、オレは事務所に引き返した。

道すがら反射ガラスや角で振り返ることで長田を探したが、ヤツの姿は見えなかった。

いずれにせよオレが尋ねた先が和田洋子の自宅であったことはバレバレだろう。

いや、最初から行き先を知っていたのかもしれん。

とにかくこれでわかることは、和田さんの自宅がデンジャラスだということだ。

当面、和田さんの父君が居てくれるのは安心だが、その後のことを考慮せねばなるまい。

長田が犯人かどうか、それは置く。

しかし置いたところで長田の酷薄無残が減少するわけではない。

さらにいえば、オレはまったくの袋小路状態なのだ。

事務所に戻る途中、商店街で少し買い物をした。

なに、少なくなったソックスや下着をな。

洗濯物がどっさり溜まっているが、どうにもヤル気がおきん。

せめて和田さんが事務所に戻る前に、多少は片付けなきゃいかんがね。

買い物を済ませ、商店街を歩いていると、オレがパソコンを教えている靴屋の隠居とばったり出会った。

「おや、買い物かい?」

「ええ、一人なもんであれこれ、と」

「そうかい。ああ、そういや今週のパソコンはどうなる?」

隠居はいかにも好々爺然とにこやかに尋ねた。

「やりますよ。いつがいいです?」

「今から、どうだい。それとも用ありか?」

オレのシノギとしちゃ、この隠居にパソコンを教えること、いや、それはほとんど茶飲み話みたいなもんだが、非常に実入りのいい帆待仕事だ。

PCなんざどうでもいい。

隠居の無駄話に付き合えば法外な授業料を頂ける。

デイケアみたいなもんだな。

数日前も最後が食事会みたいになったことは、前にいった通りだ。

「いいですよ。やりましょうか、今から。急ぎもないですしね」

「そうかい。うれしいねぇ。じゃあ、ウチにおいでよ」

オレはそこで踵を返し、隠居の靴屋に一緒に向かった。

靴屋の奥が隠居夫婦の自宅になっている。

居間に上がると早速、隠居がビールと将棋盤を持ち出してきた。

「おや、パソコンじゃないんですか?」

「なに、いいってことよ。パソコン憶えたって使うわけじゃねぇ。アンタとはバカ話ができりゃいいんだよ。アンタだってそう思ってるんだろ、いいカモだ、って?」

「いや、カモだなんて、そんな…」

「いいんだよ、爺に合わせてくれるアンタだからこそ、バカ金を使っても惜しくないのさ」

「畏れ入ります」

なんだい、とっくにこっちのスタンスはお見通し、ってやつかい。

それがわかってて、法外なオアシを下さるってな、粋な隠居だ。

人生の芸だね、こりゃ。

隠居の勧めるビールで喉を潤しながら、盤上に駒を並べる。

隠居とは何度か手合わせをしている。

オレのほうが香車一枚強い程度か。

互いに「待ったあり」のヘボ将棋だ。

隠居の先手で始めた。

戦法は隠居が居飛車、オレが振り飛車だ。

二人とも頑固に変えない。

というより互いにそれしか能がないといったほうがいいか。

オレはハイライト、隠居はショートホープをくゆらせ、ビールを飲みつつ、手を指し進めた。形勢はまだ五分五分、といったところか。

駒を取ったり取られたり、そろそろ急戦模様の局面に指しかかったところだった。

「こないだお前さんのところに、どえらい別嬪のお客さんがきてたな」

隠居が盤上を眺めたままボソリといった。

オレはビクッとして、盤上から目を離し、隠居を見た。

「あの別嬪さん、川崎んとこの娘だろ?」

「ご存知なんですか?」

オレは緊張しながら尋ねた。

「ああ。あの別嬪さんの親父と妙な縁があってな…ほれ、どうだ…ここは急所だな」

核心部分に強烈な一手が打ち込まれた。

「縁、とは?」

「まぁ、あとで教えてやらぁ。それよか次の一手はどうするね」

その思わせぶりな一言にオレの将棋はメタメタに崩れた。

将棋でもギャンブルでも、勝ちに対する執着心が失せると、負けは火を見るより明らかだ。

オレはポカ手と暴手を連発し、なすすべもなく完敗した。

「ありません」

オレは頭を下げた。

「オレの心理戦勝ちだな」

隠居がニヤリと笑った。

「少し早いが、昼飯にしよう。蕎麦でもたぐろう」

隠居の言葉に壁に掛かった時計を見ると、十一時少し前を指していた。

「ついてきな。ちょっと飲みてぇや」

下駄をつっかけ商店街に歩き出した隠居の後にオレは従った。

いくらもいかぬうちに洒落た蕎麦屋がある。

地元じゃ結構な名店として知られている。

オレも時々食べる。

うまい蕎麦だと思う。

いかにも常連という風情で、隠居は小あがりに席を占めた。

ここはオレに任せろよ、と隠居がいう。

隠居は適当な酒肴と酒を頼んだ。

ほどなく板ワサや蕎麦味噌といった、いかにも蕎麦屋らしい酒肴と酒が運ばれてきた。

「昼酒は美味いんだ。ま、一杯飲んでくれ」

隠居がオレのグイ呑みに酒を注した。

「あとはお互い手酌だ。取ったり取られたりはキライでな」

隠居は自分のグイ呑みに酒を注し、蕎麦味噌を少し舐めた。

「あー、昼酒は美味いよなぁ。これがあるから酒はやめられん。婆はウルサイこといいやがるが、なに、自分が好きでやってんだ、放っといてくれってな」

隠居はグッと杯を乾した。

「聞きてぇんだろ、川崎のこと…」

オレが黙って飲んでいる理由を見透かしたように、隠居がいった。

「ぜひ、お願いできれば」

「しかし、なんで川崎んとこの娘がアンタんとこに現れたんだい?まずそいつが聞きてぇ」

「いや、それは偶然だと思いますよ…」

オレは川崎真知子が現れた経緯から、かいつまんで説明した。

ただし、和田洋子にまつわる話と長田の件は伏せた。

作為的にではない。

話が面倒になるのが嫌だったのだ。

「ふむ、なるほど。その波動ってのに妹の真理子がイカれちまったってことか」

「ええ。ご隠居は姉妹いずれもご存知なんですか?」

「そりゃ、な。滅多にお目にかかれない美人姉妹だぜ、ありゃ。一度眼福にあずかれば、男なら忘れやしないや。そうだろ?」

「確かに。わたしも初めて会ったときに度肝を抜かれました」

「はは、度肝、かい。そいつはいいや。ま、それはそれとして、だ。川崎との件はちょいと長くなるが、いいか?時間は?」

「ええ。構いません。そのつもりでしたから」

オレは杯を置くと、隠居を正面に見た。隠居は再び手酌でグイ呑みに酒を注し、話を続けた。

「古い話から始めなきゃなんねぇんだがな…」




隠居の名前は滝川順平という。

すでに八十歳を超えているが、実に矍鑠としたもんだ。

酒も煙草も現役、ひょっとしたら股間もそうかもしれん。

彼は中国地方の寒村の出身である。

その当時の青少年の常識として、彼は皇国少年であり、神州不滅の決意をもって十八歳になると陸軍に応召した。

滝川二等兵が配属されたのは中国東北部、いわゆる満州奥地の守備隊であった。

寒さは辛かったが、まだソ連の横紙破りな侵略もなく、たまに抗日ゲリラとの散発的な干戈を交える程度だった。

そこで滝川二等兵は川崎二等兵と知り合うことになる。

川崎二等兵は朝鮮半島出身だった。

創氏改名により川崎徳一と名乗っていたが、本名は李光徳といった。

二人は年齢も同じ、また妙に気が会うこともあり、ほどなくオイ、貴様の関係になる。

同じ非番の日には、二人してP屋に行くこともあった。

たまに酒を飲む機会もあった。

酔うと川崎は必ず故郷・朝鮮の話をした。

そしてこう述べるのが常だった。

オレは朝鮮人だ。

日本人じゃない、と。

滝川二等兵には、これが鬱陶しくてたまらなかった。

なぜなら当時の状況でいえば、朝鮮民族は和朝に呑み込まれたのであり、朝鮮民族の独立をいうことは、イコール国体に唾する行為だったからである。

滝川は苦笑いを浮かべて常にやり過ごした。

滝川には「朝鮮を中国やロシアから日本が救ってやったんじゃないか」という思いがある。

第一、下手に古参上等兵なんぞに聞かれたらタダじゃすまない。

足腰立たなくなるまでブン殴られるのがオチだったはずだ。

それはオレ以外の前でいうな、と滝川は川崎に注意していた。


昭和二十年に入ると、戦局の緊張が彼ら守備隊の中でもひしひしと感じられるようになった。抗日ゲリラの活動も激しくなる一方だった。

小競り合いの中で、落命する兵士が日を追って増えていった。

ソ連参戦の噂もさらに末端兵士たちの志気を萎えさせた。

彼らの部隊に前島上等兵という古参兵がいた。

前島は滝川ら新兵の怨嗟の的だった。

滝川が入隊前に散々聞かされた古参兵の理不尽さそのものだった。

滝川は入隊前、ある意味タカを括っていたのかもしれない。

オレは人並み以上に国にご奉公し、もって国体の艱難を救う、という思いが強かった。

軍隊は国体護持の一点で結束し、事にあたるであろう。

ならば人のいう古参兵の理不尽にも耐えられるはずだと思っていた。

しかしそれが完全な誤解であることは、入営当日から骨身に思い知らされた。

確かに軍隊である以上、上意下達式の規律を保持するために、鉄拳制裁もあろう。

規律の緩みは即、戦闘能力の壊滅につながるからだ。

上官の命令は絶対であるくらい、赤子でもわかることだ。

しかしそれにしても、と滝川は思う。

古参兵、とりわけ前島上等兵の理不尽さは常軌を逸しているとしか思えない。

前島上等兵は殴るために殴る。

理由はなんでもいいのだ。

難癖をつけているとしか思えない。

整列、点呼、復命、行進、起床、就寝、喫飯、とにかくありとあらゆることが対象になる。

早い、遅い、高い、低い、小さい、大きい、過剰だ、不足だ、右だ、左だ…。

すべての形容詞が殴るべき理由となる。

とりわけ川崎は目の敵にされた。

なにかあれば、この朝鮮人が!と人一倍殴られるのだ。

それを見ながら滝川は、オレが朝鮮人だったらああ殴られるのか、と怯えた。

すまん、川崎、許せ、と心で詫びながらも、オレは朝鮮人でなくてよかった、と安堵するのだった。

いつも顔が変形するほど殴られる川崎は、いつしか常にドス黒い表情で前島上等兵を見るようになり、次第に口数が減ってきた。

そのことが更に前島上等兵のカンに触るのだろう。

前島の川崎への鉄拳に際限がなくなってきた。

川崎は常にどこかを腫らし、どこかが切れ、どこかに青痣があった。


昭和二十年の夏になった。

ある夏の暑い日、前島以下、川崎、滝川を含む小隊は埃っぽい満州の道を行軍していた。

最近とみに増えた抗日ゲリラの探索活動だった。

小隊長の、小休止の号令とともに、滝川と川崎は木陰に腰をおろし、水筒の水を飲んだ。

別の木陰には前島上等兵と小隊長が座っていた。

「今朝な、前島のクソ野郎にまたやられた」

川崎が汗を拭いながらいった。

今度はなんでだい、と滝川は煙草に火を点けながら聞いた。

川崎は陰では前島上等兵を呼び捨てにする。

憎悪に満ちた棘々しい口調だった。

「朝の点呼前にオレが糞をしてたんだ。終わって戸を開けたらヤツがいやがった。敬礼するとな、いきなりこういいやがった」

川崎も煙草を取り出し、火を点けた。

「洗ってもいない汚い手で敬礼するな、とね。第一、朝鮮人の糞は臭くていかん、というなり拳が飛んできた。そのままオレは朝顔にぶつかったってわけさ」

川崎は盛大に煙を吐いた。

満州の日差しは強烈だったが、乾燥しているせいか、木陰は涼やかな空気に包まれていた。

「あの野郎、いつか叩きのめしてやる。必ず、だ」

川崎の目は憤怒でぎらついていた。

「穏やかじゃねぇな。しかし、そうはいっても軍隊にいる限りは無理だろうが」

滝川が諭すようにいった。

「いや、そうは思わねぇ。この戦争は負ける」

滝川の顔色が一瞬にして変わった。

「おい、川崎。おまえなんてこといいだす。帝国が負けるわけがない。前島上等兵でなくても、殴るぞ」

「ああ、オマエなら殴られても構わん。少なくともオマエはオレが朝鮮人であることをナンとも思っちゃいない。常に虐げられてきたオレ達は、そのへんの匂いに敏感なんだ」

滝川は忸怩たる思いがした。

心の奥底では、朝鮮人でなくてよかった、と安堵していたのだから。

「おい、川崎。負けるなんてことをオレの前でいうな。不愉快極まりない。神州は不滅だ。オマエが朝鮮人であろうがなかろうが、もう一度いったら殴る」

「ああ。わかった。もういわんよ。しかしな、滝川。前島はな軍規のために殴っているんじゃない。テメェの鬱憤晴らしでやってるのさ。やつはな日本に帰ればオレと同じ差別される側なんだ。それがわかっていて確信犯で殴り回っているんだ」

「なにがいいたいんだ?」

「前島はな、部落出身なのさ」

滝川は沈黙した。

滝川の故郷にも被差別部落がたくさんある。

さらに滝川が幼い頃、山からは季節ごとにサンカや木地師といった山の漂白民が現れた。

それら部落民や山の漂白民に対する徹底した迫害は、滝川自身も理不尽と思っていた。

理非曲直でいえば、なんとでもいえる。

しかし、村の規範として、差別の構造に乗っかることが自然であるような気がしていた。

それが村の成文化されぬ法規であったのだろう。

ものいえば唇寒し、端的にいえばそういうことだったのだ。

「だからな、前島はオレら朝鮮人を徹底的に痛めつける。意趣返しさ、部落民のな。差別される同じ側にいるんじゃねぇか、と腹立たしいが、ヤツにとっちゃ部落民より朝鮮人のほうが下等なんだろう。ヤツも日本に帰りゃ、差別されるのによ。それがわかってて殴り続けるんだから、余計に始末が悪い。戦争に負け…いや、終わったらオレはヤツを赦さんぜ」

川崎は凄惨な顔を歪め、煙を吐いた。

「赦さん、といったところでどうしようもないだろう」

「ああ。それはそうさ。軍隊にいる限りはな。しかしいつまでも軍隊にいるわけじゃない。除隊してからのハナシだ。もっとも敵に弾丸喰らっちまえば、ハイさよならだがな。しかしオレは死なんよ。絶対に生き延びる」

「南方じゃ玉砕が続いているらしい。オレたちだってどう転ぶかわからんぜ。玉砕命令が出てもおかしくない」

滝川が不安げにいった。

「銃殺覚悟で逃げるね、オレは。どうせ玉砕させられるんだったら、少しでも生き延びられる可能性に賭ける」

川崎の言葉に滝川は反論できなかった。

川崎には、わが身の生命と引き換えに日本を守るという意気込みが、いつしか消沈していたからだ。

敵米英に蹂躙されるのは身を切られるほど辛い。

が、しかし前島を初め、幹部連中の傲慢不遜を目の当たりにすると、なぜオレが彼らの軍命ために死ななくてはならないのだ、と素朴に思う。

父や母を護る、ひいては国を護る、現実を前に理屈があえなくも形を失っていった。

有体にいえば、滝川はこう思っていた。

終わらぬ戦争はないはずだ。

本土にいる父や母、兄弟姉妹を含め眷属全員、ここはなんとかかんとかしのいでくれ。

オレは絶対に死なん。

生きて全員、また日本で暮らそう、と。

そのとき、前島の全員集合の号令が掛かった。

弾帯の付け直しに手間取った川崎が、ほんの数歩集合に遅れた。

前島の顔が赤黒くなった。

「この朝鮮!なにやらしてもモタモタしやがって」

そういうが早いか、前島の拳が川崎の頬を捉えた。

川崎はそのまま前のめりに満州の大地に突っ伏した。

「早く立て!寝てるんじゃねぇ」

前島の軍靴の蹴りに呻きながらも、川崎は敬礼しながら直立の姿勢を取った。

「手間取らせやがって、朝鮮が!」

前島は唾を吐きながら、口汚くいった。

「申し訳ありませんでした。上等兵殿」

敬礼し、そう答えた川崎の口からは鮮血が流れ出ていた。

その場を制するように小隊長が、前進、と号令をかけた。

この小隊長も再召集の四十歳前の男だ。

前島にいいようにあしらわれている。

要するに生きのいい小隊長など望むべくもない。

できる下士官は最前線で戦っているか、あるいは露命を絶やしたか、いずれかだ。

この小隊長も兵役終わり、ヤレヤレと思ったところに、兵隊不足のために駆り出されている。口にこそださないが、とにかく無事で除隊を迎えること、そのことに汲々としているのが、態度の端々から見て取れた。

つまりこの隊は前島のような小狡い古参兵、小隊長のようなロートル再召集組、そして滝川や川崎といった新兵で構成されている。

志気もなにもあったものじゃない。

烏合の衆に近いだろう。

下士官がだらしなければ、その隊の戦闘能力は皆無に等しい。

すなわち組織としての執行力がなければ、いかな軍備も無力なのだ。

戦闘とはすなわちマンパワーの結集に他ならない。

そして、そのことがあからさまになる戦闘が、その日の午後に行われた。




「まだ序破急の序みてぇなもんだぜ」

靴屋の隠居、つまり滝川順平がモリソバに箸を伸ばしながらいった。

あまり酒は進んでいない。

「蕎麦屋の長居は野暮だ。続きは家でやろう。長くなるが、いいよな?」

隠居の問いにオレは大きく頷いた。

長い話に備えて、腹も拵えておかなくちゃなるまい。

オレはもう一枚、モリソバを頼んだ。

蕎麦を手繰り終え、オレが金を払おうとすると、年寄りに恥をかかせるんじゃねぇ、と隠居からピシリといわれた。

どこまでも粋なご隠居だぜ。

隠居の家に戻り、居間の卓袱台に胡坐をかいた。

隠居は台所からウィスキィボトルと瓶詰めグリーンオリーブを運んできた。

「アードベッグですか。ご隠居もお飲みになるんで?」

「ああ。好きだな。酒はなんでもいい。天の美禄だ」

タップリとアイラウィスキィの注ぎこまれたカットグラスを、手盆ですまねぇな、と隠居が渡してくれた。

お互いにグリーンオリーブを齧りながら、アードベッグを啜る。

「こういう酒は、満州で覚えた。あそこは冷えるんでな、白酒や火酒みたいに強烈な酒が多い。普段は日本酒ばかりだが、時にこういう陰惨な酒が飲みたくなる」

「陰惨、ですか?」

「ああ。オレには蒸留酒の味は満州の思いに直結しているんだ。満州には陰惨な記憶しかない。酒に罪があるわけじゃないんだ。爺ィのメランコリィだがね、衝動的に飲みたくなる。特にこういう一癖二癖あるやつが、ね」

隠居はショートホープに火を点けた。

「さて、と。どこまでいったけな…。ああ、終戦前の事件のとこだったな…」

オレは飲んではいるが、これは絶対に酔っちゃいけない、と予感していた。




暑い満州の夏だった。

からからに乾いた大地を滝川順平以下、重い足を引き摺って巡邏していた。

西側のこんもりした丘以外は、渺々とした地平とひねこびた潅木が広がるばかりだった。

時折吹く突風で砂塵がもうもうと立ちこめ、滝口たちの褌の中まで細砂の不快感が生じた。

ほどなく丘の麓に回りこんだ。

小隊はノロノロと進んだ。

そのときピシッという炸裂音とともに大地に兆弾の土煙が上がった。

敵襲だっ!という大声ともに全員が地面にひれ伏した。

散開しろ!という号令も聞こえた。

いわれなくても皆、本能的に目は遮蔽物を探した。

何本かの潅木、さらにうねるような地面の段差が見える。

とりあえず身を潜めるにはあそこしかない。

身を低くして小走りに遮蔽物に駆け込む。

あと数歩というところで二人の兵士が前のめりに転倒した。

敵弾に射抜かれたのだろう。

せめて致命弾でなければいいが、と滝川は願った。

滝川とて安全なわけではない。

ごく僅かな大地の窪みと潅木に遮られているだけなのだ。

頭上や掩蔽する土塊が兆弾でピシピシと爆ぜる。

滝川たちは身を伏せたまま、小隊は応射することも忘れ、荒い息を吐いていた。

右翼側には前島上等兵と小隊長が飛び込んでいた。

前島上等兵が滝川と川崎に向かって叫んだ。

「小隊長とオレは後方に下がる。掩護しろ」

滝川と川崎は視線を交わした。

ホントかよ?

下士官や古参兵が指揮しない戦闘があるのか?

「どうした、滝川。川崎。聞こえたのか。返事をしろ」

前島が怒鳴った。

反射的に滝川と川崎は、掩護します、と叫んだ。

なるべく身体を低くし、歩兵銃を応射した。

狙いは音のする方向、射撃としては実に幼稚で雑なやり方だった。

しかしその応射にも効果があったのだろう、ゲリラ側からの射撃が一瞬やんだ。

間髪をいれず、小隊長と前島上等兵がさらに安全な後方の窪みに脱兎のごとく下がった。

「滝川、川崎!本隊はさらに安全な後方に下がる。敵は本隊の数倍規模だ。オマエらはしんがりを務めて応戦しろ」

前島の怒声に滝川と川崎はさらに顔を見合わせた。

敵が数倍規模?

なぜわかる。

これまでの小競り合い経験からいっても、それほどの衆とは思えない。

さらに、だ。

オレたち新兵がしんがりだって?

しんがりが最も危険な任務であるくらい戦闘の常識じゃないか。

せめて下士官の一人でも残すのが筋だろう。

しんがりを破られて本隊がズタズタになることはよくあることじゃないか。

「本隊が撤収するまで、そこを死守するんだ。いいな」

それだけ言い残すと、小隊長を含めた本隊がじりじりと下がっていった。

とにかく応戦だけはしないといけない。

滝川と川崎は歩兵銃を大体の方向に打ち込んだ。

しかし、一発打つとその数倍の発射音が聞こえる。

二人は土を舐めんばかりに態勢を低くし、耐えた。

「前島の野郎、逃げやがった」

川崎が顔を傾けて滝川にいった。

見捨てられたな、と滝川は答えた。

「小隊長と前島、それに通信兵がつるんでんだ」

川崎が一発打ち込んでいった。

「なんのことだ」

「このまま生き延びられりゃ教えてやるよ」

ヒュンと頭上を銃弾が通過する。

下手に身体を起こそうものなら、間違いなくズタズタに打ち込まれるだろう。

小便をちびりそうな恐怖の中、二人は必死に生き延びるべくもがき続けている。

一発の応射。

数倍の銃撃、銃音。

喉がからからに渇いている。

そのくせ全身に夥しく脂汗が滲んでいる。

ピシッ、ピシッと兆弾が土煙をあげる。

二人は塑像のように固まったままだった。

どれくらい時間がたったろうか、不意に静寂が訪れた。

シーンという擬音が凝固されたような空白。

二人が見上げる蒼穹に小さな雲がゆっくりと移動していた。

「おい、川崎。大丈夫か?」

「あ、ああ。滝川もなんともないのか」

二人は仰向けになったまま言葉を交わした。

「急に静かになったな。敵は…いなくなったのか」

「わからねぇ…。オレが左翼に展開して、様子を見てみよう。合図したら一発打ち込んでみてくれ」

そういうと滝川は匍匐前進で地面の凹みの左翼側に進んだ。

二十メートルほど肘と膝でのたうつと、向こうが見通せるところに出た。

滝川が、撃て、と鋭く声をかけた。

刹那、川崎の撃つ歩兵銃の乾いた炸裂音がした。

滝川はさらに低く構え、銃弾の打ち込まれた方向を見た。

沈黙が続いた。潅木の葉擦れの音ばかりが聞こえる。

寸刻みに滝川は頭をあげた。

徐々に視界が広がってくる。

指呼の間にこんもりとしたブッシュが見える。

あの方向から敵弾は飛んできたのだ。

腰を矯め、銃をブッシュの方向にむけたまま静かに滝川は立ち上がった。

その方向は静まり返ったままだった。

「川崎。敵は…いないみたいだぜ」

「大丈夫なのか?」

川崎も立ち上がりながら尋ねてきた。

「理由はわからんが、とにかく敵はいない。オレたちのような雑魚は相手にしない、とでも思ったんじゃないのか」

川崎も隣に立った。ふたりして脱力感のような情けない笑い声が思わずでた。

助かった、それがまぎれもない本音だった。

「おい川崎、軍袴が濡れてるぜ。小便ちびったな」

慌てて川崎は股間を眺めた。

きまりが悪そうな顔だった。ごそごそと軍袴をいじりながら、川崎がいった。

「滝川。おまえもちびってるぞ」

笑いがこみ上げてきた。

生き延びたぞ、という快哉だった。

ゲラゲラと二人して笑い続けた。


陽が翳るころ、蒼ざめた上島上等兵と小隊長が戻ってきた。

整列、の掛け声とともに兵隊たちが並んだ。

その列を見渡しながら、小隊長は決まり悪げに上島に目合図を送った。

しばらく逡巡の後、上島が口を開いた。

「畏れ多くも、さきほど陛下のお言葉にあったように…」

再び沈黙が空間を包んだ。

重く粘ついた空気が凝固していた。

「わが大日本帝国は…連合軍に…降伏した…」

重い空気が囲繞している。

どこかで小さな嗚咽。

じっとりした空気を破って、上等兵殿!という声が上がった。

皆の視線が一点に集中した。

声をあげたのは開拓団から再召集された四十歳過ぎの兵隊だった。

なんだ、と上島が答えた。

「われわれはこれからどうなるんでありましょうか。開墾地にはソ連が攻めてきているのでありましょうか。日本は、満州は、どうなるか教えていただければ有難く存じます」

悲壮な声だった。

そりゃそうだろう。

妻や子、そして背骨がきしむほどの重労働で耕作した土地、それらを考えると、いてもたってもいられないはずだ。

無論、滝川も内地の両親や係累がどうなったのか、考えだすと途方にくれてしまう。

「うむ、いずれにせよ司令部からの命令待ちなのだ。ワシにもわからん。とにかく帝国陸軍軍人として恥ずかしい行動だけは取りたくない」

上島が精一杯重々しく述べた。

「内地引き上げの目途はあるのでありますか」

「それもわからん。粛々と命令を遂行する。それだけだ」

その返事にロートルの兵隊はうなだれた。

まさか彼に川崎のような破天荒はできまい。

木で鼻を括ったような上島の返答に、刺々しい雰囲気が胚胎していた。

いまさら上島の野郎、古参兵面するんじゃねぇ、という怨嗟だ。

しかし、今、なにをどうするということができない。

逃げ出すこともできず、反乱もできず、追い詰められた草食動物のように立ち竦むしかない。

解散、の声にトボトボと歩き出すが、お先真っ暗の希望なしに一段と足が重い。

とりあえず今夜の飯にありつきたい、それだけしか頭に思い浮かぶことがなかった。


ここから滝川老人のシベリア抑留の話が続くが、これは端折る。

おいおい触れることもあるだろうが、先を急ごう。


「我ながら長げぇ話だな。さすがにくたびれたぜ」

滝川老人が大きな溜息をついた。

「続きは明日にしますか?」

「バカいうない。講談の読み切りとは違うぜ。手短に先を話してやろう」

手短になるかな?

それは難しいんじゃないか、オレは素直にそう思った。



三年のシベリア抑留の末、滝川は舞鶴に着いた。

厳しい労働、飢え、極寒は戦友の大半をシベリア凍土に飲み込んだ。

加えてキャンプの中では徹底した共産化教育が行われた。

先鋭化した連中が、日本の民主化は、などとアジ演説を連日吠え立てた。

徹底した共産主義嫌いの滝川は苦々しい思いで彼らを見た。

しかし、とも滝川は思う。

彼らとて心の底の底では帰還したい一心で吠えているのかもしれない。

そう思うと、苦々しさの次に起こる感情は、憐れみだった。

いったいどういう選択基準で帰還が決定されたかわからない。

順当にいけば先鋭分子が真っ先に帰還、と滝川は予想したのだが、なぜか最後まで共産主義に同調しない滝川が第二陣の帰還船に乗ることができた。

故郷で二年ほど過ごした後、滝川は今のこの町に出てきた。

田舎じゃ食えない、糊口は自分で満たすしかない、ならば、の決意だった。

この町で滝川は妻と知り合う。

妻の実家の履物屋を手伝いながら商売を覚えた。

順調に手広く商売を拡げ、履物屋だけでなく、いくつかの業態を始めた。

子供も素直に育ち、それぞれの店を任せ、妻と二人で隠居仕事でこなせる履物屋をのんびりやっている。


そうなる寸前、ちょうど今から八年前のことだ。

滝川老人は履物組合の総会のため、ダウンタウンのシティホテルにいた。

たいしたこともなく、シャンシャンと総会は終わり、直会も断ってラウンジで一人ビールを飲んでいた。

煙草の煙を眼で追っていると、背中に視線を感じた。

滝川は無意識に振り返った。

それは隅のテーブルの男の視線だった。

ちょうど滝川と同じような年齢、しかし白皙痩身から尋常でない強い意志が感じられる。

横に妙齢の美しい女性二人を従えている。

誰だろう、滝川老人は訝しく思った。

その男はつと立ち上がると、老人とは思えぬ力強い足取りで滝川のテーブルに向かってきた。

滝川の霞む老眼の視界に、徐々にその男の輪郭がジャッキリしてきた。

老いたとはいえ、その顎や額から発せられるただならぬ雰囲気が、滝川の古い記憶皮質を打ち破った。

川崎、そう李光徳だ。

滝川は瞬時に理解した。

川崎は薄い唇を緩め、精一杯の笑顔を作った。

普段、あまり笑わないのだろう、いびつな笑いに見えた。

「やあ、滝川…だな。わかるか、オレのこと」

「わかるとも…李光徳だろ」

「いや、すでに日本に帰化したんでな、川崎徳一になっている」

川崎が腕を差し出した。

握手した川崎の掌は少し汗ばんでいた。

「元気か。あれから…つまり、トンヅラしてからどうしてたんだ?」

「ああ、おかげさんでな。なかなかクタばらないもんだな。それより滝川こそ元気か」

二人のあいだに戦後の気の遠くなるような時間が凝縮された。

話すには、あまりにもたくさんのことがありすぎたようだ。

それはお互いのツラを見ればわかる。

どえらく金と時間と辛酸のかかった不敵な面構え同士のはずだ。

「まあ、あの後のことは、酒でも飲みながらどうだ。簡単に済む話じゃない。改めてオマエと会いたいが、どうだ?」

「願ってもない。トコトン飲もうじゃないか。吐き出したい澱がここにたんとある」

滝川が胸を指しながらいった。

「その通りだな。じゃあ、とりあえずオマエの連絡先をくれ。コレがオレの連絡先だ」

川崎は名刺入れから一枚取り出すと、その裏に数字を記入した。

「この電話はオレに直接繋がる。この番号に電話してくれ」

滝川も川崎にならい、名刺を渡した。

「オレが場所と時間を決めていいよな」

滝川が川崎にいった。

「おう。頼む」

「ただし、居酒屋。それも割り勘だ」

「そうこなくっちゃ」

名刺を仕舞いながら、滝川はテーブルからこちらを興味深げに眺めている二人の女性に視線を送った。

「たいへんな美人だが、だれだい」

「ありがとう。孫娘だ。姉妹。上が真知子で下が真理子という」

「なかなかお目にかかれない美人だぜ。一度見たら忘れられないな」

「そうか。いずれは…いや、これはいいか。まあ、日時が決まったら連絡をくれ」

そういうと川崎は二人姉妹にここから出るような仕草をした。

二人は立ち上がると、滝川のところにやってきた。

「はじめまして。川崎真知子です」

「はじめまして。川崎真理子です」

二人は上品なお辞儀をした。

滝川は思わず見とれてしまい、挨拶を忘れそうだった。

「あ、あ、どうも。滝川順平です。川崎さんとは、軍隊での知り合い…」

それから先は川崎が会話を遮った。

「じゃ、連絡を楽しみに待っている。きっとだぞ」

川崎はその言葉を合図に踵を返し、ロビーから出て行った。

エントランスには黒塗りの巨大な外車が三人を迎えていた。

鷹揚迫らざる佇まいのまま、三人は優雅な身のこなしで巨大な車に乗り込んだ。

確かに、川崎といい、その孫娘といい、身なりには半端でない金が掛かっている。

また彼の孫娘には、生来の優雅さと品位が感じられる。

それくらいの眼力は滝川にもある。

多分、川崎は財を成し、名も遂げたのであろう。

朝鮮人である李光徳の一世一代のバクチだと、大見得をきった川崎が見事に当てたのだ。

滝川は運命とか人生のツキとかてんで信用していなかったが、老境に差し掛かる頃から、人間には持って生まれたツキが必ずある、と感じるようになっていた。

大したもんだな、川崎よ、と滝川は小さく呟いた。



ここから滝川老人が川崎の成功への道程を語る。

のちに振り返ると、この事件の背景にそのことが色濃く反映されているのだが、ここでくだくだしく述べる時間がない。

これは展開上、どうしても必要なときに述べるとして、先を急ごうと思う。



「と、まぁ、長いハナシで申しわけないな…」

やっときた区切りに、滝川老人はすっかり氷の溶けたアードベッグを飲み干した。

チェッ、生ぬるくなってやがら、と悪態をついた。

「川崎姉妹はそういうお知り合いだったんですか…」

オレはやっと質問ができた。

「おう、そうだ。それから何度か彼女たちに会った。最後に会ったのは…川崎の葬儀だった」

「え?亡くなられているんですか?」

「ああ、そうだ。昨年の夏だ。末期ガンだった。アンタはオレたちがいくつか知っているかね。もうオレの友人はたいていが鬼籍に入っている。仕方がないさ。功なり名を遂げたところで、必ず死ぬんだ、人間はな。満州の荒野で死ぬか、大病院の特別室で死ぬか、それは持って生まれたツキだろうけどな」

「そうですか…。その後、川崎姉妹とは?」

「いや、なにもない。川崎が死んでしまったら、なにもないさ。ただな…」

「ただ、なんです?」

「川崎の葬儀のときに、オレは川崎の数少ない友人として、けっこう奥側まで入らされた。ああ、それは密葬のときだ。川崎くらいになれば、社葬を出さんというわけにはいかんからな。で、葬送の人間が全員揃い、密葬が始まる直前のことだ。なんか様子がおかしい。川崎の女房と息子の嫁、それに孫に当たる姉妹に剣呑な雰囲気というか、一触即発ってな感じだ。無論、ああいう席だ。声を荒げてどうということはない、表面上はな。しかし、オレも八十何年生きてんだ、空気ぐらい読めるさ。この冷え冷えとしたよそよそしさはなんだ、とね。まあ、銭カネが絡めば、人間おかしくなるということはイヤんなるぐらい見てきたからね、大方そういうこったろう、とは思ったがね」

滝川の隠居は、そのまま後ろ手をつき、楽な姿勢をとった。

さすがに額が脂ぎっている。

疲労が顔に色濃い。

「川崎氏の遺産を巡って内輪メモがあったんですかね」

「さて、それはどうかな。聞いてない。表立たないだけかも知れんがね。いずれにしろいえることは、あの家族は家族の態をなしてない、そう直感したがな。なにしろ人を葬送する悲しみがまったく感じられない。アリバイ的に糊塗せざるをえないイベントをこなしているだけ。オレにはそう見えた」

「なるほど。そのほかなにか気付かれたことはありませんか?」

「いや、どうかな。あったような気もするんだが、耄碌頭がオーバーヒートしちまった。思い出したら知らせるよ。すまねぇが、さすがにくたびれた。悪いが横にならせてもらうわ」

滝川老人は座布団をクルリと巻くと、それを枕に横になり、思い切り伸びをした。

そのまま重力にしたがって脱力したようになり、目を閉じた。

「ご隠居、貴重なお話、ありがとうございました。今度、改めてゆっくり伺います。じゃ、わたくしもここで失礼します」

オレは立ち上がりながら、滝川老人に声をかけた。

おお、それじゃな、と滝川は目を瞑ったまま答えた。


胡坐をかきっぱなしでガチガチに固まった腰をさすりながら、オレは隠居の家を出た。

すでに陽は傾き、薄暗くなっている。頭の中は滝川老人の話が溢れそうになっていた。

どうもこの事件の底に、固く絡まりあった結び目がある気がしていた。

一筋縄じゃいかない、そう直感が警告していた。

ともかくもがき続けるしかあるまい、オレはそうハラを括った。

両手に下着や食い物の入ったレジ袋を提げ、ヨロヨロと事務所に向かった。

堪えていた酔いが回ってきたのかもしれん。



事務所の鍵を開け、中に入ると初老男の加齢臭と脂染みたゴミの臭いがする。

和田さんが掃除をしていてくれた頃は無縁だった臭いだ。

オレは男だが、この臭いは嫌いだ。

不潔しかイメージできない。

オレは窓を開けて換気し、ゴミタメ状態の部屋を片付けた。

隅々までとはいかぬが、多少は効果があるだろう。

一息ついて紅茶を淹れた。紅茶を啜っているときつい睡魔が立ち上がってきた。

隠居の話の濃密と、アードベッグがもたらすものだろう。

まだ宵の口だが、オレは上着だけを脱いで、そのままコットに横になった。


夢を見た。

なにかおどろおどろしいブヨブヨとした塊が坂を転がってくる。

懸命になって逃げようとするのだが、飲み込まれそうになる。

辛くも逃げ切ったと思っても、その塊が際限なく追ってくるのだ。

エンドレスな逃避行。

オレは寝汗の気持ち悪さに目が覚めた。

ブーンと頭の芯が歪んでいた。

時計を見ると午前三時をわずかに過ぎている。

どうせこれ以上は寝ようたって眠れなかろう。

眠ることも体力勝負なのだ。

若い頃はそれこそ眼球が溶けそうなくらい眠れたが、今はダメだ。

ささくれた神経が眠りを妨げる。

悲しいかな、神経を強引にねじ伏せる体力がもうないのだ。

ヤレヤレ、と溜息をつき、オレは起き上がった。

とりあず、シャワーだ。

少しは気分が良くなるだろう。

下着もなにもかも取り替えよう。

髭をあたり、歯も丁寧に磨こう。

それに梅干とほうじ茶だ…オレは自分の持つ気分転換を総動員した。


寝汗を熱いシャワーで流し、ほうじ茶を啜る。

ハイライトを一本引き抜き、TVをニュース専門チャンネルに合わせた。

疲れや屈託と無縁そうなキャスターが、淡々と原稿を読み続けている。

たいして年齢も違いはなさそうだ。

たいしたもんだぜ、と驚嘆する。

ヘッポコドアの下にゴソゴソと朝刊が挟みこまれる音がした。

オレはゆっくり立ち上がり、朝刊を引き抜いた。

とりあえず社会面に目を通す。

ない。

続報はなにもない。

若い女性が一人殺されても、ニュース価値はそんなもんなのだろう。

そもそも捜査が進展していないのだから、書くべきソースがないともいえるが、わずか二、三日で殺人が風化してしまう殺伐さがやりきれん。

まあ、身近な和田さんの娘だったということがオレをルサンチマンにしているのだろう。

そうでなければ、今までは殺伐さを担う側のワン・オブ・ゼムであったわけだしな。

三本目のハイライトをくゆらしながら、新聞を眺めていたときだった。

事務所の電話がいきなり鳴り出した。

なんだ、こんな時間に。

間違い電話か?

受話器を取ると、向こうから野太い声が響いてきた。

「鼠か?オレだ」

山下。

山下刑事の声じゃないか。

なんだ、どうした。

緊張が全身に走った。

「早くからご精勤で」

「冗談はいい。手短かに教えてやる。宮崎一平が死体で発見された」

オレは受話器を強く握り締めた。

喉がゴクゴクと鳴った。

「ど、ど、どこで」

「宮崎のアパートだ。大学近くのな。友人が深夜に訪れて発見したということだ」

「死因は」

「絞殺。それ以上は捜査中でもあるし、捜査上の秘密でもある。教えてやるだけでも、オマエに対する最大限の配慮だ。オレに感謝しろ」

「すまない。感謝する」

礼をいい終らぬうちに、電話が切れた。

オレは呆然と受話器を見つめた。

宮崎が死んだ?なぜだ?

今、オレが握っている事実と思われることから演繹すれば、長田がカギになるだろうと推論される。

しかし断定するには、前提があまりにアヤフヤだ。

まずもって、動機に蓋然性がなさすぎる。

波動の組織防衛のために女性を殺すか?

殺すとすれば防衛されるべき組織とはなんだ?

さらにいえば、単に大学のサークルで揉めた程度で、波動のメンバーまで始末する理由とはなんだ?

オレは雲を掴むようなことしか知らないことに、暗澹とした。

振り回されているだけだ、それが偽らざる思いだった。


ん?

ちょっと待て。

和田さんは大丈夫か?

オレは時計を見た。

五時過ぎ。

非常識は承知の上だ。

オレはひったくるように受話器を取った。

もどかしいような呼出音が数回続く。

はい、という声が聞こえた。

和田さんだ。

よかった、大丈夫のようだ。

「わたしだ。すまない、こんな早朝に。非常識は改めて詫びる。なにか変わったことはないか」

「どうしたんですか、こんなに早く。なにかあったんですか?」

「大丈夫ならいいんだ。えーと、いずれわかることだから知らせておいたほうがいいだろう…んー、つまりな、宮崎が死んだんだ」

しばらく逡巡したのち、オレは宮崎の死を伝えた。

「死んだ?殺されたってことなの?」

「どうやら」

「いつ?」

「今日の未明」

「誰が殺したの?」

「わからない」

これではインディアン英語のやりとりと同じだ。

「それで和田さんのことが急に心配になって電話したのだ。変わったことはなかったか?」

「父と一緒だったから…特になかったと思うわ。やはりあの長田って男なの?」

「まだなにも。オレも一報を聞いたばかりなのだ」

「また一人、若い命が消えたのね。純情な子だったのに」

受話器の向こうで涙ぐみ、鼻を啜る音がした。

「宮崎のこと、知っていたのか?」

「ええ、少しだけど。洋子のサークル友達でしょ。洋子から時々聞いてた」

「そうか。とにかく、午前中に一回覗く。くれぐれも注意だけは怠らないでくれ」

「わかったわ。注意する」

オレは受話器をフックに戻し、再度取り上げた。

十一桁の携帯番号をプッシュした。

五回目のコールで相手が出た。

長田だな、とオレは問うた。

そうだが、アンタは?とざらついた毒々しい声がする。

「名前はいいだろう。会えばわかる。二度ほど会った。取り急ぎ用件だけ伝える。オマエと会って話がしたい」

「話?アンタがだれか知らんが、オレには会わなきゃいかん義務も用件もない」

「オマエになくてもオレにあるのだ」

「ふざけたことぬかすな。オイ、いったい何時だと思ってる。こんなクソ早い時間から。オレはまだ寝てるんだ。そうでなくてもネットカフェの椅子は寝辛い…おっと、そんなことはどうでもいい。とにかく、二度と電話してくるんじゃねぇ」

ブツッ、と携帯電話が切れた。

特にオレがカマをかけたわけじゃないが、自分からネットカフェにいることを告げてくれた。

手間がかからなくていい。

なにより死んだ宮崎一平がオレに長田の携帯番号を教えてくれたことが役立った。

長田を探ってみる、これが数少ないこの事件を辿る細い糸なのだ。

そう遠くないうちに警察も長田をマークするだろう。

行動監視、つまり徹底した尾行が始まるに違いない。

それは長田がオレに対して行ったような幼稚な尾行じゃない。

プロのそれなのだ。

そんな状況で長田と会うのは面倒だ。

山下刑事も面白くあるまい。

ならば拙速でいくしかない。

今こそが鼠の起き出す時間だ。

オレはジーンズにポロシャツとウィンドブレイカー、足元をバックスキンのデザートブーツという軽装で事務所を出た。

まだ街は寝ぼけ眼を擦っているかのようだった。

早起きのジイサンが道端を清掃している。

朝練と思しき女子高校生が駅に急いでいる。

夜露がアスファルトを柔らかに湿し、薄汚い街もしっとりと静謐な概が満ちていた。


この街にもネットカフェは何軒かある。

果たしてどのネットカフェに長田は棲みついているか。

想像力の賭けだ。

ネットカフェの終夜料金は微妙に違う。

大した違いではないが、居続けをするとなると、その微妙な差が気になるはずだ。

無論、利便性やそのカフェの居心地ということも大きかろう。

オレは多分、地の利からいえばここらあたりか、と目星をつけた通りを目指した。

その通りを挟んで向かい合うように二軒のネットカフェがある。

片方は新店であり、ビル自体も新しい。

そのビルの壁面にある垂れ幕の終夜料金は、対面の店より僅かに高いことがわかった。

対面の店が入居するビルは、やや古い。

壁面も汚れている。

オレはこのビルのネットカフェが本線と信じることにした。

はずれても仕方ない。

とにかくどこかのネットカフェにはいるのだ。

エレベーターでネットカフェの階に上がる。

エレベーターが開くとすぐに学生バイトらしい男が手持ち無沙汰にたっていた。

いらっしゃいませ、お一人ですか、と眠たげな声を発した。

そうだ、と答え、若い男の指示したボックスに向かった。

安っぽい合板で仕切られた狭隘なプライベート。

人間の疎外が凝縮された薄闇。

早めに退店しようとする人間のゴソゴソする音以外は、実にシンとしたものだ。

オレはボックスに入ると、ドリンクを取る振りをして、各ボックスを見て回った。

仮に長田がいれば、その姿を見誤ることはない。

オレは静かに通路を進んだ。

目の高さから、跳ね戸越しに中が伺える。

くたびれた中年サラリーマンがいる。

おおかた終電乗り遅れか。

大きな紙袋を抱えたホームレス寸前のような女がいる。

茶髪、ピアスの若い男が軽い鼾をかいている。

マルクスの亡霊がこの光景を見たら、資本論は百六十年早かった、と嘆息するかもしれん。

次のブロックに足を進めた。

そのブロックを回り込む最後のボックスにヤツはいた。

長田は、椅子をギリギリまでリクライニングさせ、胸に手を組んで寝ていた。

瘴気と臭気がそこだけ濃密に漂っている。

生理的嫌悪感を催す。

脂と埃でベットリ張り付いた長髪。

顔の下半分を覆う、汚い不精髭。

結構高そうな洋服を着ているが、どうにも垢染みて不潔な印象しかない。

精一杯いいようにいえば、これがヤツのライフスタイルなんだろう。

オレは跳ね戸を押し込み、いぎたなく眠りこける長田の肩を指で押した。

ん?という表情で長田が目を開けた。

オレの方を振り返り、半身を起こした。

なにかいいだそうとした長田を、オレは人差指を唇に当てて制した。

「長田だな。ここじゃ話ができん。外へ出ないか。朝飯を奢ろうじゃないか」

オレは小声でいった。

長田はボリボリと汚い頭をかきながら、だるそうに頷いた。

そうして荷物を纏め、自分の伝票をオレに手渡した。

それを受け取り、オレの伝票込みで精算した。

長田も出てきた。

無言でエレベーターに乗り込む。

骨董物の狭いエレベーターで、いいようのない不快感を感じる。

通りをほんの少し歩くと、二十四時間営業のファミレスがある。

オレと長田は徐々に朝の出勤風景になってきたダウンタウンを歩いた。

ファミレスは朝飯を摂るサラリーマンで結構盛っていた。

六割くらいは埋まっているだろう。

ウェイトレスがお二人ですか?と尋ねた。

後ろから長田が、禁煙席にしてくれ、といった。

席に着くと長田は、ハンバーグ定食、メシは大盛、あとビールとサラダバーも、とメニューも見ずにいった。

オレは紅茶を頼んだ。

オレはハイライトを取り出して咥えた。

禁煙だろうが、と長田が怒気を含んだ声でいった。

「咥えているだけさ。リビドーが口唇期に固着しててな、まだ甘チャンなのさ、オレは」

そういうと、長田はフンとばかりにそっぽを向き、窓の外を眺めていた。

むさくるしく伸びた長髪と不精髭、それに垢じみた洋服が自堕落な生活ぶりを想起させる。

長田から漂うゴミ臭をオレは堪えた。

ビールと紅茶が運ばれてきた。

紅茶に口をつけると、ぬるく、また見事なまでのダストティーだった。

長田はコップにビールを注ぐと、立て続けに二杯飲んだ。

追いかけるように食い物がきた。

長田は猛烈な勢いでそれらを口に運んだ。

咀嚼するというより、流し込むといったほうがいいかもしれん。

犬食いの姿勢で、ときどき口の端から食物がこぼれる。

人に見られるということを意識していないのだろう、マナーという概念には最も遠い位置に居るヤツだ。

薄汚い、それが表現として相応しいだろう。

長田は最後の肉片を乱杭歯の覗く口に放り込んだ。

ビチャビチャと音をたてて嚥下すると、ビールを飲み、盛大にゲップをかました。

ひどい口臭がした。

「で、なんだ、オレに用事があるんだろう」

爪楊枝を使いながら、長田が横柄にいった。

「ああ。単刀直入にいおう。和田洋子が殺されたのは知っているな。その後の話だ。なぜ、オレを尾けた?」

「尾ける?知らんな。なんのことだ」

長田は不精髭を掌であたりながらいった。

「いいか、朝っぱらから冗談や酔狂をいうほど、オレは悠長な人間じゃないんだ。考えてから口をきけ」

長田の三白眼がすっと細くなった。

「おい、オレに舐めた口をきくんじゃねぇ。ムカつくんだよ」

長田の粗雑な思考回路が暴力を身体全体から匂わせてきた。

「勝手にムカつけ。なぜ、オレを尾ける必要がある」

長田から暴力の臭いがさらにきつくなってきた。

そこいらのチンピラヤクザより始末が悪そうだ。

「うるせぇな。それよりオマエこそなんでオレを追っている。それに答えろ。順番としちゃそっちが先だ」

「ほう、オレがオマエを追っていると知っているのか」

「勘がいいんだよ、オレは」

「そうか。頭がいいんだな。だったらなぜ追われているか想像できるんじゃないか」

オレはこっそり毒を含んで問いかけた。

粗雑な長田の頭では、単に頭脳の明晰を褒められたと受け取るだろう。

「ぐへへへ。それくらいわかるさ」

「そうか、いってみてくれ」

「フンッ、そんな釣りに乗るかよ」

フム、底なしのアホではなさそうだ。

「よかろう。オレがオマエを追った理由はオマエの想像した通りだ。じゃ、なぜオマエがオレを追う?」

「それこそオマエの想像通りだよ」

長田は身をテーブルに乗り出し、吐き捨てるようにいった。

腐ったような口臭に吐き気がした。

「なるほど。オレの想像通りだとすると、オマエが和田洋子を殺したんだな」

長田の身体が強張り、凶眼がさらに濁ってきた。

「オマエ…。心底ムカつく野郎だな…。殺すぞ」

「そういって宮崎一平も殺したって寸法か」

「テメェ、いい加減にしとけよ。オレがキレないうちにやめとけ」

「宮崎一平のことで驚かないのはなぜだ。死体が見つかったのはほんの少し前のことだ」

長田の腕が素早く動いた。

手元にあった定食用のナイフを取ると、オレの胸元に突きつけた。

「オマエ、オレを誰だと思ってる。いい加減に黙れ」

隣で朝飯を食っていた二人連れのサラリーマンが固まったようにこの光景を眺めている。

「心底、野暮だな、長田。時と場所を考えたらどうだ。そんな剣呑なもの振り回して、騒ぎになって困るのはオマエじゃないのか」

オレは三歳児に諭すようにいった。

この程度でないと、会話が成立するまい。

長田はギリギリと歯噛みをし、クソッタレが、と捨て台詞を吐いた。

ナイフはそのままテーブルに置かれ、長田はそっぽを向いた。

その顔には、もうこれ以上話さないと書いてある。

「話は決裂ってこったな。まぁ、仕方あるまい。しかしな、長田、これだけはいっておく。和田さんに近づくな。オマエがなにかことを起こしたら、合法非合法を問わず対応する」

「対応だと?対応ってなんだ」

「オマエの想像通りのことさ」

「ふん、なんにも知らねぇで、いい気なもんだな」

長田はそれに答えず、凄惨な顔付きで妙な言葉を口走った。

「なにも知らない?ああ、オレはなにも知らない。そのためにオマエとここに居るんだ。教えてくれ」

「おい、ふざけるんじゃねぇぜ。そんなこたぁ自分で調べるんだな…よーし、駄賃がわりに一つだけ教えてやる。川崎徳一と波動研究会の徳永会長の関係から調べろ。オレも詳しくは知らんが壮大な計画があるみたいだ」

「壮大な計画?」

「オレには関係ねぇがな」

「判じ物か?」

「判じ物ってなんだ?」

「知らんか…判じ物を。そうだな…謎かけ、そういう意味だ」

「ふん、インテリぶりやがって」

「常識といってくれ」

「それ以上いうことはない。さっさと視界から去りやがれ」

その言葉を合図に、オレは立ち上がった。

テーブルの上の伝票を取り上げると、代わりに名刺入れからオレの名刺を引き抜き長田の前に押し出した。

「近々、会うことになるだろう。そちらから連絡を入れたければ、ここに電話してくれ。なんならメールでも構わん」

「会うことはない」

「いいや。必ず会うことになるだろう」

「ふん。知るか、そんなこと。第一な、月夜の晩ばかりじゃねぇぞ」

「忠告、いたみいる。ああ、連絡の際にオレの名前をいうのが癪だったら、ネズミ野郎とでもいってくれればいい」

「鬱陶しいネズミだな、オマエ」

「オマエに褒められるとは思わなかった」

「舐めるなよ…てめぇ…」

長田の三白眼が憎悪にますます険しくなってきた。

拳にギリギリと力が入っている。

多分、きっかけさえあれば一瞬で暴発するだろう。

オレは長田の刺すような視線を背中に感じながら、ファミレスの自動扉を出た。


オレは事務所へ戻らず、そのまま和田さんのマンションへ向かった。

タクシーを拾うかと思ったが、爽やかな天気だ、歩こう。

二日酔いでもなく、こういう朝を迎えることは滅多にない。

それにジーンズ、ポロシャツという軽装だ。

ちょうどいいじゃないか。

長田の凶相を思い出すと不愉快だが、これがオレのたつきだ。

オレはハイライトに火をつけ、携帯灰皿をウィンドブレーカーから取り出した。


歩きながら考えた。

川崎徳一と徳永会長の接点とはなんだ?

年齢からいえば、彼らは親子以上に離れている。

ビジネス上の繋がりだろうか?

川崎徳一にも、多分きわどいしのぎもあったろう。

しかし、それは川崎の成り上がる昔の過程であって、現在のような富を築いて後まで、徳永の波動研究会といったウサン臭いところに加担するだろうか?

莫大な不動産を担保にすれば、いくらでもまっとうな事業に進出できるはずだ。

川崎の孫にあたる川崎真理子が波動に関わっているという事実はある。

しかしそれが川崎徳一とどうリンクするのだろう。

靴屋の隠居、滝川老人の語った川崎徳一像は、とても波動にイカれてしまうようなメンタリティは感じられない。

極めて冷徹な計算に基づくリアリストとしか想像できない。

ならばリアリストがゆえ、波動に対する嫌悪感が川崎真理子と衝突したのか?

しかし、時間的経緯からいえば、すでに川崎徳一は昨年鬼籍に入っている。

それもガンというではないか。

末期ガンの衰弱状態で、孫娘のカルトハシカ状態にまで慷慨するものだろうか…。


結局、まだまだジグソーパズルの欠片が多いことを思い知らされるだけだった。

覗き込んだ闇があまりに深く、暗すぎる。

ジタバタと嗅ぎ回り、ほっつき歩くしかない、とオレは覚悟した。


和田さんはすでに朝食をすませ、オレを待っていてくれたようだ。

和田さんの父、正義氏も身支度を終えていた。

三人でテーブルに掛け、和田さんが淹れてくれた煎茶を飲んだ。

それはしみじみとうまい茶だった。

「今日の午後、自宅へ帰ろうと思います」

正義氏がいった。

「たしかK県でしたよね。ここからだと、列車で二時間というところですか」

「ええ、そうです。でもそれからバスの乗り継ぎが大変でしてね、時間はかかるし、本数は少ないしで、過疎の悲哀ですな」

「それは、ご苦労様です。しかし和田さん、父君がいなくなって、一人で大丈夫か?」

「大丈夫です。いつまでもメソメソしても始まらない」

「そう。頑張って、なんて愚にもつかんことはいわん。やれるようにやってほしい」

「父を送って、事務所の掃除に行きます」

「いや、いい。無理はダメだ」

「あら。やりたいようにと仰ったのはアナタよ」

オレは苦笑せざるをえなかった。

彼女の突き抜けたような恬淡ぶりに感心する。

ただ、和田さんが悲しみを忘れ、克服しているとは思えない。

いや、むしろ一人娘を失った喪失感があまりに大きく、現実として認識できていないのではないかと思う。

一月、三月、半年と日を経るごとに、一層悲しみが募ってくるのだろう。

オレはその支えになりたい。

かすかでもいい、和田さんの力になりたい。

ああ、はっきりいおう。

オレは和田さんが好きだ。

愛している。

正面きっていうほど図々しくなれないだけだ。

臆病だし、要領も悪い。

そうさ、初老男の自意識過剰さ。

安っぽいセンチメンタルだ。

なんとでもいえ…。


オレは和田さんに、くれぐれも無理をしないこと、それに周辺に注意を払うことをくどいほど念を押してテーブルを立った。

その会話を聞いて正義氏が不安がるのではないかと危惧したが、こちらが拍子抜けするほど悠然としていた。

玄関を出る際、正義氏がポツリと呟いた。

「娘だけは大丈夫、そういう思いがあるんです。わたし以上にしっかりしているんじゃないかな」

そうですか、安心です、とオレは軽く会釈をしてマンションを辞した。



オレはそのまま靴屋の隠居、滝川老人のところへ向かった。

長田のいう川崎徳一と波動の徳永会長の接点のカギを知っているのではないか、と思ったからだ。

昨日の話のなかで、川崎が戦後社会の中で成り上がっていく過程にこそ、その手掛かりがあるような気がする。

とにかく、情報が欲しい、その思いだった。

店の中で滝川老人は接客をしていた。

馴染みなのだろうか、同年齢の老婆と楽しげに会話しながら、草履を品定めしている。

オレの姿を認めると、オウッ、とばかりに頷いた。

婆さん、代わってくれや、と店の奥に声をかけると、一言老婆に断って店の前に出てきた。

「早ぇな。講談読切りの続きを聞きたいのかい?」

「ええ。ご隠居もお疲れでしょうが、ちょいと話ができればと…」

「よせやい、そんなに爺扱いはしないでくれ。ちょっと待ってな」

奥へ引っ込むと、ほどなくして出てきた。

こざっぱりした洋服に着替えている。

「ナリがだらしねぇと、ご婦人にモテねぇからな。オマエも気をつけるんだよ」

恐れ入ります、とオレは答えた。

まったく、粋な隠居だぜ。


ちょいと説教をしよう。

オレはだらしなくなると、人間が一気にダメになると信じている。

こういうことを想像してくれればいい。

いわゆる認知症、はっきりいえばボケということがある。

あれの嚆矢は面倒になることだ。

風呂に入ることが面倒になる。

着替えるのが面倒になる。

おのずと薄汚くなり、身体が匂ってくる。

そうなるとなにもかにもがどうでもよくなり、自然、人間が破綻してくる。

いかに人から見られるか、それを常に忘れないほうがいい。

それは食事のマナーであったり、居住まいを正す、ということも含まれる。

いってみれば日本人の恥を知る文化だ。

ご婦人にもてたいということは副次的な効果なのだ。

立ち居振る舞いがキチンとしていりゃ、おのずとご婦人にもてるさ。

そういう点の女の直感はすげぇんだ。

あだやないがしろにしちゃいけない。

だらしのない姿勢は、だらしのない生活と精神を招く、そう思うことだ。


「昨日の酒が少し残ってんだ。迎えてやんなきゃダメだな。ちょっと行くか?」

「大丈夫ですか、ご隠居?」

「ばかやろう。昨日今日酒を飲み始めたガキとは違うぞ。酒でやったやつは酒で迎えてやんなきゃダメなんだよ。グズグズいわずに付いてきな」

隠居がニカッと笑った。

稚雅に溢れたいい笑顔だ。

隠居に同道して、酒屋に入った。

角打ち、という立ち飲みだ。

隠居は慣れた口調で枡酒を二杯頼んだ。

目前に押し出された枡の向こう側の縁に、隠居は一つまみの塩を乗せた。

おもむろに枡を取り上げ、軽く手のひらで枡の上を払うと、口から枡を迎えにいった。

クッ、クッと喉を鳴らし、枡の半分ほどが胃袋へ消えていった。

フーッ、大きく溜息をつくと、またあの無垢な破顔を見せた。

「ヘヘーッ、うめぇもんだな、昼酒はよ。オメェもやんなよ」

オレも枡を手に取り、口から迎えに行こうとしてやめた。

「隠居。さっきの手で払う仕草はなんなんです?」

「ああ、あれ。酒の香りを払ってんのさ。真っ先に香りが鼻に来ると、味がボケる」

なるほどねぇ…。

やることなすこと、理に適っている。

こういう老人になれれば有難いがな。

オレは頷きながら、同じく半分ほどを腹に収めた。

「で、聞きたいことってなんだい?」

そういいながら隠居は塩を人差指につけて舐めた。

「じゃあ、端的に伺います。徳永という男を知っていますか?」

「徳永?どういう人間だい。いくつぐらいだ?」

「歳は、そうですねぇ、五十歳まではいっていないでしょう。川崎徳一の孫娘の妹の方、川崎真理子がはまってしまった波動、あれの代表です」

「ちょっと待ちな。その徳永ってな、下の名前を高男ってんじゃないのかい?」

「え、ええ。そうです。ご存知なんですか?」

「なんでぇ、最初からオマエさんが教えてくれりゃ、二度手間にならなくて済んだのによ。その徳永ってな、川崎、そう李光徳の息子だよ」

「えっ?どういうことなんです」

「あー、つまりだ、徳永はな、川崎の婚外子、平たくいや隠し子だ。川崎は事業もそうだが、こっちのほうもお盛んだったんだな」

隠居は小指を立てて、ニヤリと笑った。

「しかし、隠し子は徳永ひとりだ。徳永とその母親、つまり愛人だな、その親子には随分、経済的に応援してやったらしいぜ。しかしそのことは本妻も承知だったはずだ」

「ということは川崎姉妹にとって血縁的には叔父筋にあたるわけですか?」

「そういうことだな。川崎姉妹の父親、つまり徳永の異母兄弟になるわけだが、その父親は川崎から見てデキがよくなかった息子らしい。そのことは川崎本人も悔やんでいた。でもな、その息子にオレも何度か会ったことがあるが、決してバカなやつじゃない。むしろ穏やかでナイーブな男じゃないかと感心したくらいだ。いってみりゃ、お公家さんのような息子だった。カネに縛られた人生は送りたくない、そんな感じだったな。それこそ川崎本人が死んだ直後、フッと姿を消した」

「消した?」

「ああ、消した。見事に蒸発したんだ。忽然とな。生きているとも死んでいるとも、一切の連絡を絶ったままだ」

オレは引き抜いたハイライトに火をつけることも忘れていた。

隠居が残りの酒を仰け反って飲み干し、もう一杯頼んだ。

「このあたりの話は昨日は全然触れてねぇからな、驚くことばかりだろ」

隠居がショートホープを口に咥えた。

オレはライターの火を隠居の煙草に点け、自分のハイライトにも点けた。

「で、ご隠居。川崎徳一には他に子供がいたんですか?」

「いや、いないんじゃないか。少なくともオレの知る限り、本妻との間に息子が一人、それと徳永しかいないはずだ」

「しかし川崎徳一なきあと、嫡男が蒸発したんだったら、だれが川崎家の事業を見ているんですか」

「息子の嫁だよ。それと川崎徳一の女房だな。ああ、実際は株式会社なんだから、それなりに役員が切り盛りしているんだろうが、実質支配の頂点は嫁と姑ってことだな」

「そうだとすると川崎の血とはまったく無関係の女二代で回している、ってことですか?」

「血とは、またオメェも古臭いこというなぁ」

「いや、朝鮮民族は血の繋がりをことのほか重く見るということを聞いたことがあるもんで…」

隠居はショートホープを灰皿に擦りつけ、枡酒を啜った。

「そういや、そうか。血…かぁ。川崎のヤツ、結構こだわっていたな」

「こだわり、ですか」

「そうなんだ。事実かどうかは知らねぇが、川崎の女房は朝鮮王朝の末裔で、息子に娶った嫁さんは日本の皇室に繋がっているとかいっていた」

「ほう。それはまた。血をカネで買ったということですか」

「そういうところもあっただろう。しかし、血を語るときの川崎の目に、それほど下卑た様子は見えなかったんだがな。なにかこう壮大なビジョンを語る科学者のような気がしたぜ」

「どういうことなんです、それは?」

「ここらあたりになると、どうも胡散臭い感じがしてくるんだが、川崎はちょっと宗教がかってたんじゃねぇかな。ヤツはしきりに先祖崇拝や神様のことを話してた。んー、祖霊を敬え、とか、万物に神が宿る、とかな。まぁ、ご先祖様を仏壇で拝むくらい、オレだってやるさ。しかしな、そこまで熱心に説くかねぇ、と。悪いこっちゃねぇからな、フンフンと流してたけどよ」

「その性向が徳永に遺伝したんですかね。それこそ血脈のように」

「わからねぇ。ただこういうこともいっていた。祭祀には血が必要だ、とね」

「え?生贄の山羊ということですか?」

「いや、違う。祭祀を執り行うに相応しい血、ということだった。例えばだぜ、日本神道の最高司祭は誰だかわかるか」

「皇室、天皇ですね」

「そう。朝鮮の司祭も一緒らしい。祖霊とともに、国家を安寧させる祭祀を執り行う司祭は、朝鮮王朝の歴代国王なわけだ。そこで川崎はこう考えた。朝鮮最高司祭の血と、日本の最高司祭の血を、川崎一族に注入したい、とね」

滝川老人はここで一息入れ、枡酒を少し舐めた。

「川崎には自分が朝鮮族のなかの選ばれた血である、という思い込みがあった。酒を飲んじゃ、とくとくと話をしていたさ。その血にさらに最高の血を入れたいともいっていた。それが女房と息子の嫁ってわけだ。オレは聞いたよ、川崎にな。で、どうしようってんだい、ってね」

滝川老人は、話を一度切ると、枡を干し上げ、カウンターに伏せた。

「ふむ、酒はこれ以上はやめとこう…。で、話の続きだ。川崎はこう答えたね。実験だ、と。古代渡海民のDNAを復活するんだ、とね」

「はああ?」

オレは素っ頓狂な声をあげたようだ。

カウンターの奥で電卓を弾いていた酒屋の親父が振り返るほどだった。

「おいおい、鶏を絞め殺すような声を出すない。まぁ、無理はねぇかもしれん。オレだってその話を聞いた時ぁ、なんだコイツ、おかしくなっちまいやがったのか、と思ったもんな」

「わたしのボンクラ頭だと、どうにも…」

オレは駄々をこねるように頭を振った。

「いいかい、これは川崎の受け売りだ。荒唐無稽と思うんら、それでいい。オレもそりゃないぜ、と思うんだが、川崎は真剣だった。どう判断したっていい。川崎はもうオダブツなんだからな」

「どういうことです?教えていただけますか?」

滝川の隠居は、ンーと唸り、頭を掻きながら話を続けた。

こういうことだった。



※規定文字数をオーバーしましたので


鼠の目3  http://ncode.syosetu.com/n7156d/


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